Back ground
「またね、ユキちゃん」
「うん、またね」
そう言って友達の栞ちゃんは羽を広げた。天使のように柔らかそうな大きなふわふわの羽で、舞い上がっていく。私は地面に両足を引っ付けたまま浮かない顔をしてそれを眺めて見送った。
人間に羽が生えるようになって、もう二十年は経つと言う。私が物心ついた頃にはもう人は空を自由に飛びまわることが当然になっていたから、こんな下校風景も当たり前になっていた。人々は二十年前から、知らず知らずのうちに背中から生える翼を手に入れた。個人差はあれどほぼ世界中の人間が、まるで成長期の子供のように羽を生やした。個人が自由に空を飛べるようになって、世界は劇的に変わった。それまでの交通機関は見直しを余儀なくされ、日本はより狭くなって、人々は上方向への自由を手に入れた。ある人は神からの贈り物だと歓喜の声を上げ、またある人は悪魔の象徴だと喚起の声を上げた。だがそれでも法律が整備される三年前までは、本当に空には自由奔放に飛びまわる人たちで溢れていたのだった。
「だけんど、わしゃあ’驕り’やと思っとるんじゃあ」
私のおじいちゃんなんかのように、ある世代には空を飛ぶことへ反対する人も多かった。曰く、「人間は天に近づきすぎてはいけない」という教訓みたいなものを信じていた。
「だから雪子、羽がなかろうがぁなぁんにも心配するこっちゃない」
自分の身長よりも大きな漆黒の羽を堂々と背中から生やし、おじいちゃんは私にそう言って慰めてくれた。その度に私は何にもついてない背中に寅次郎をのっけながら、納得いかない顔でそれを聞いているのだった。寅次郎はおじいちゃんの家に住み着いてる野良猫で、私の背中に乗るのが大好きだった。出会った頃は野良らしく警戒心も強く、喧嘩っぱやいのかよく怪我をして帰ってきた。今でも足を少し引きずってはいるが、すっかりこの家に入り浸っている。だけど決して私に懐いてるとかじゃなくて、ほかの家族にはみんな羽が生えているから、単に乗りにくかっただけじゃないかと私は思っている。
「ただいまぁ~…」
家に帰ると、私はすぐに部屋に逃げ込みベッドへと倒れ込んだ。宿題なんかもちろんする気はないし、ましてやお気入りの漫画もアニメも見る気になれなかった。栞ちゃんたちが放課後「空バスケ」をするという話を聞いてから、私はずっと胃に重いものを抱えて過ごす羽目になった。栞ちゃんは優しいから私には言わないでおいてくれたのに、何で私ったら廊下で聞き耳を立てるようなことしちゃったんだろう。別に、ノケモノにされたわけじゃない。ただ…。
……私に羽が生えてなかったから、誘われなかったんだ。
そう思えば思うほど、惨めでしょうがなかった。腕で目を覆ったまま、私はぎゅっと唇を嚙んだ。羽の生えない人間も、「ときどき」生まれてくるらしい。だけど、今では空を飛べる人が当たり前の時代になった。同級生の誰もが自由に空を飛べるというのに、私は地面を這いつくばって追いかけるしかない、正直そんな自分を恨まない日はなかった。私だって空を飛びたい。何で皆が当たり前にできることが、私にはできないんだろう?
「………うにゃぁぁ」
いつの間にか部屋に忍び寄ってきた寅次郎が、私の背中で昼寝しようと足をかけてきた。「どいてよ!」私は何だか無性にイライラして、強引に寝返りを打つと、彼をベッドから突き落としてしまった。
「……あ」
一瞬ドキリとしたが、寅次郎は階下へとすばやく走り去った。
「………」
暗がりに残された私は背中を隠すようにベッドに潜り込むと、そのまま何もかも忘れようと夢の世界へと旅立った。
夢のなかで、私は空を飛んでいた。自分が空を飛べるなんて思っていなかったから、驚くと同時に嬉しさがこみ上げてきた。私は出来るだけ、白い雲を突き抜け、空にきらめく星に届くくらい、思いっきり高く舞い上がった。びゅうびゅうと髪をなびかせる風が、こんなに気持ちいいなんて。見て、いつもは見上げるばかりだったでっかい校舎や駅ビルが、今では米粒みたいに小さく見える! 私は自然と口元が綻びるのを止められないでいた。やった、これで私も「空バスケ」に参加できる。栞ちゃんにメールしなくっちゃ…。
そう思った瞬間、私は自分の背中に痛みを感じた。首を捻ってみると、寅次郎が爪を立てている。そこに、生えているはずの羽が、なかった。怒ったような顔の寅次郎と目が合った瞬間。私は真っ逆さまに……。
「地震だぁ!!」
そこでハッと目が覚めた。ズズズズズ…!という重い音が迫ってきて、私の部屋はダンプカーでもぶつかったかのように激しく揺れた。まだ寝ぼけ眼だった私の意識は地に落とされた。地震だ。最近じゃ珍しくもない。だけど、この大きさは……。私は息を飲んだ。
「雪! 平気かぁ!」
屋根の向こうからおじいちゃんの声が聞こえる。人が空を飛べるようになってから、格段に地震の驚異も減ってきていた。上方向に逃げればいいのだ。だけどそれは空を飛べる人の話で…。
「きゃあっ!」
ドサドサと降ってきたお気に入りの漫画雑誌が私を叩く。痛い。だけどそれ以上に、怖い。私はあまりの恐怖心に一歩も動けないでいた。そういえば、近頃空をうまく飛べないせいで事故に遭うケースが増えている、とニュースでやっていた気がする。このまま死んだら、私も明日の新聞には載るかもしれないな。そんな考えが頭をよぎった。次の瞬間、ガツン!と後頭部に衝撃を受け、私は激しく揺れる部屋の中で意識を失った。
「こっちだ!」
薄れ行く意識の中で、私を呼ぶ声が、聞こえたような気がする…。
「大丈夫か、コイツ」
「死んでるのか?」
「今のうちに食うか?」
「おい、やめてくれ。大切なヒトだ」
「『大切』だけど、『ヒト』なんだろう?」
何やら聞きなれない喋り声が聞こえて、私は目を覚ました。どうやら私は、助けられたらしい。右手で体を支え、上半身を起こして辺りを見渡す。ここは…。
目に入ってきた景色は、少なくとも見慣れた私の家の中ではなかった。石畳の壁が一面に広がり、天井からはシャンデリアのようなものが釣り上げられている。床には赤い絨毯が敷き詰められ、窓にはまるで教会で見るかのような鮮やかなステンドグラスがはめ込まれていた。私が寝かされていたベッドも、とても豪華な作りだった。そして何より奇妙だったのは、私を助けてくれたであろう人物たちの顔が…。
「おい、起きたぞ!」
起き上がった私に気づいた白衣の猫が叫んだ。驚いたように一斉に彼らが私の方を向く。私は彼らに負けないくらい目を丸くした。そう、何しろ彼らの顔といったら、まるで猫そのものだったのだ。猫が服を着て、二本足で立っている。何やら肉球の押された書類のようなものを抱えた猫、サラリーマン風にスーツでビシッと決めたメガネ猫、王様のような冠を被った、立派なヒゲを蓄えた老猫…。まるで教育番組の劇でも見ているかのようだった。猫たちが、私の顔を覗き込んでいる。
「もう平気か、雪。危ないところだったな」
何だか一回も聞いたことがないのに懐かしいような声が聞こえて、ベッドの下から一匹の小さなトラ猫が私にぴょんと顔を出した。ほかの二本足で歩く猫たちよりは、格段に小さい、よく見かけるただの猫だ。よかった、普通の猫もいるんだね。ホッと胸を撫で下ろすのも束の間、トラ猫は私の背中にぴょんと飛び乗った。
「……アンタ、寅次郎ッ!?」
「今頃気づいたか」
いつものように背中に爪を立てくつろぐその猫が、私に呆れたように言った。間違いない、この爪の食い込み具合、おじいちゃんちで飼ってる寅次郎本人だ。
「猫の国?」
「そう、お前らの世界で言うおとぎ話に出てくるようなあれさ」
昼休み、私と寅次郎は昼食の鰹節入り焼き鳥串を持って職場近くの草原へと向かった。小高い丘になっているここは、猫たちの絶好の日向ぼっこスポットだ。私たちの他にも数名の先客たちが、気持ちよさそうに草の上でゴロゴロしていた。私は無意識にその中の一匹の子猫の喉を撫でながら、背中の寅次郎に尋ねた。
「それってどこにあるの?」
「猫が集まる場所さ」
「ふうん…私、いつになったら帰れるんだろう?」
「王様の許可が下りたらな」
半ばぶっきらぼうに答える彼は、何だか「あっちの世界」とは性格が違っていた。地震が起きて「猫の国」なるものに迷い込んだ私は、あれからずっとここで労働者として汗を流していた。労働と言っても、対したことではない。爪とぎ用の木を森に切りに行ったり、夕食の魚釣りに協力したりするだけだ。しかしもし釣れなかったりしたらその日の国の夕食は悲惨なものになってしまうため、結構必死になる必要がある。猫の国は私が数えたところ「二十~三十猫」が住んでいる、国というにはあまりに小さな集落みたいなものだった。だけどこの猫たちにはちゃんと医者や裁判官がいて、学校の先生や狩人がいて、王様まで存在していた。建物の作りも立派なもので、私にはちょっとサイズが小さすぎるが、お城なんかは人間一人が中腰で歩き回れるくらいの大きさがあった。
「…寅次郎。まさかあんたが私にそんな口を聞くようになるとはね」
「なっ…何言ってんだ。この国では猫がしきってんだぞ! 俺の方が立場が上で当然っ」
「あはは、何焦ってんのよ」
まだ人間の年齢にしても若い寅次郎が偉ぶるのが面白くて、私は彼をしばらく彼をからかって遊んだ。
「…大体人間なんて普通この国に入れないんだからな。俺が口出ししてなきゃ…」
「何かされちゃうの?」
私は目が覚める前の会話を思い出しながら、さり気なく寅次郎に尋ねた。あいにく寅次郎はそれっきり沈黙してしまった。急に静まり返った私たちの耳元に、午後のうららかな風が、丘の下でイカと遊ぶ子猫たちの楽しげな声を運んできた。
「…さて。残りの釣りにいきますかね」
何となく空気がおかしくなってしまったので、切り替えて私は立ち上がった。
「うわぁっ! すごい! 人間のお姉ちゃん、立てるの!?」
「ん?」
ふと足元を見ると、さっきまで喉を撫でていた子猫が、私をキラキラと宝石のような目で見つめていた。
「すごいや! 僕にも二本足の歩き方を教えてよ!」
「すっげええ! 姉ちゃんでかいから、きっと高いとこから景色がみえるんだろうな」
「私もはやく立てるようになりたいわ!」
「んん??」
気がつくと私の周りには子猫たちが群がってきていた。足元を撫でる柔らかな毛にこそばゆさと心地よさを感じながら、私は彼らに訳を聞いてみた。
「んっとね、私たちの国では大人になると二本足で歩けるようになるんだよ」
「歩けるようになったらね、今まで以上にいろんな景色が見えるの。すっごい綺麗で高いの」
「それに仕事も選べるようになるし、服も来ていいようになるの」
「でも歩けなかったら、いつまでも仕事につかせてもらえないんだよ」
「知らなかったわ、最近の猫って働き者なのね」
「この国だけだ。王様がそう決めたんだ」
帰り道、魚を入れた籠をこぼさないように抱えながら、私と寅次郎はオレンジ色の夕日に照らされていた。昼のあの出来事のあと、私はしばらく子猫たちに二本足での歩き方をレクチャーした。細い子猫の足ではまだ体を支えきれないのか、皆とても苦労していた。だがその一生懸命な姿はとても可愛くて、私は今になってもまだニヤニヤが止まらないくらいだった。
「えらいねえ。私が猫なら、一生こたつで丸まって過ごすけどな」
「……それは人間の発想だな」
背中にしがみついて歩こうともしない寅次郎が、一定のリズムでパタパタと私にしっぽを叩きつけてくる。ぼんやりと灯りに照らされた「猫のお城」が茂みの奥に見えかけた頃、私は気がついた。
「そういえば寅次郎って、足怪我してたんだっけ。だから」
「煩いな!!」
私が言い終わるか言い終わらないかの合間に、寅次郎は大きな声を立て、私の背中から飛び降りた。そしてそのまま、四本足で茂みの奥へと消えていってしまった。
城に帰り成果の魚を猫のコックさんに預けると、私は食欲がないんでと嘘をついて私用に用意された来客用の寝室へと向かった。ロウソクに灯りもつけず、柔らかな布団に背中を預ける。
なんで気づいてやれなかったんだろう。いや、何で馬鹿なことに気がついてしまったんだろう。
後悔したその時には、もう既に遅かった。寅次郎は若いとは言え、人間にしてみたら私よりも二~三個下くらいの青年だ。他の同い年くらいの猫たちが二本足で服を着て歩いているのを、私は街の中でみたはずじゃないか。四本足で歩いていることを、彼が気にしてないはずがない。ちょうど私が元の世界で、空を飛べないのを気にしてるのと同じように。
「……助けてくれたのだって、寅次郎だったのに」
私は自分の馬鹿さ加減に腹が立ってきた。向こうじゃ自分が空を飛べなくて惨めな思いをしていたくせに、世界が変わるとすっかりそれを忘れて、大切な友人を、命の恩人を同じように傷つけてしまった。どんな顔をして謝ればいいか分からない。いやもうどんなに謝ったとしても、彼は一生許してくれないんじゃないだろうか。私はあの日のように頭から毛布を被り、湧き出る自責の念を必死に押し殺した。月明かりに照らされて輝く猫型のステンドグラスが、なぜだか今日は滲んで見えた。
「…王様。あの女、寝てますぜ。寅の野郎も、まだかえってきてないみたいだ」
「うむ、だがあの者に罪はないんだろう」
「罪はなくても、俺たちの腹は減りますぜ。このままじゃあ、皆餓死しちっまう。この食糧難に人間の肉たあ、こりゃあ神のおめしぼしじゃないですかい? しかもあの女、翼が生えてない」
「なんと。飛べないのか」
「つまり逃げようにも逃げれないってことでさぁ」
私が耳をすませると、廊下の奥からそんなヒソヒソ声が聞こえてきた。だんだんと足音が遠ざかり、私はホッと息をついた。バクバクと跳ね上がる心臓を思わず右手でギュッと抑える。やっぱりだ。この国の王様たちは、何かを隠していた。自己嫌悪の赴くままに悶絶していた私の下に昼間の子猫がこっそり訪れて来た時は何事かと思ったが、あの子が知らせてくれてほんとによかった。食用にされる前に、なんとかここから逃げ出さなくっちゃあ。
とは言っても、ここはお城の中。今私がいる来客用の寝室は、五階にある。猫にとっての五階とは言え、結構な高さだ。窓から飛び降りるにはかなりの勇気がいった。
「ああもう。私に羽が生えてりゃな…」
思わず弱音が漏れる。翼があれば、空を飛んで逃げることなど悠々に可能だったろう。仮に帰り道がわからなかったとしても、とりあえず追いつかれる心配はないはずだ。だけど私は空なんか飛べやしない。諦めて私は窓を離れ扉の方に向かった。やはり誰にも見つからないように、城の中を歩いて抜け出すしかなさそうだ。私は猫のように足音を立てず、赤い絨毯の上に一歩目を踏み出した。
もうどれくらいたっただろうか。満月の明かりに照らされながら、私は城の入口の前で足止めを食らっていた。壁際の茂みに身を潜め、重たそうな扉の前で見張りを続ける門番の様子を伺う。何とか見つからないように城内をあとにすることができたものの、完全に外に出るためにはこの城唯一の門を潜らなくてはならない。流石に猫だけあって夜行性なのか、まん丸とした彼らの目は一瞬たりとも隙がなさそうだった。
「…しかしよう、なんだって王様はわざわざ人間何かを客として招いてるんだ?」
「さぁな…。噂じゃあ左大臣のワカヅキが、食料として狙ってるらしい」
「ふうん…人間って旨いのか?」
「さぁな。だけど肉なんだから、焼いたら鳥みたいに食えるんじゃないのか?」
門の両脇に立った二匹の猫たちが私の話をしていた。やはり私は、猫たちに狙われていたようだ。
「でもよ、あの人間、見たか? 背中…」
「ああ」
「生えてなかったよな、羽…」
「傑作だよな。今時空も飛べない人間なんて。まるで二本足で歩けない猫じゃあないか」
私は思わずドキリとした。一番気にしていた事を、二匹の名前も知らない猫たちに笑われていた。
「あれじゃあ、俺たちに食べられたほうが、幸せかもしんないぜ」
「違えねえ」
そう言って大笑いする猫たちを私は冷たくなった心でじっと見つめていた。確かにこのまま元の世界に帰っても、また私一人地上に取り残された日々が待っているだけだ。だからといってこのまま猫の国に残っても、食料として食べられるだけだ。なんだ、元から私の居場所なんてどっちの世界にもなかったんだ…。
「そいつはどういう意味だ」
何だか一回も聞いたことがないのに懐かしいような声が聞こえて、私は思わず顔を上げた。
四本足で歩くトラ柄の猫が、足を引きずりながらゆっくりと門に近づいてきていた。
(寅次郎…!)
私は思わず心の中で叫んだ。もう会えないかもと半ば諦めていた彼が、目の前にいた。門番たちは怪訝そうに彼を見やった。
「ああん?なんだ若造? 獣みたいに四本足で歩きやがってよ」
「今時二本足で歩けない猫がいちゃ可笑しいかい?」
静かな口調だが、寅次郎の言葉尻には明らかな怒張が混じっている。茂みに潜みながら私は緊張した面持ちで彼らに目を凝らした。門番が威張るように胸を張って、大の字に立って寅次郎を嘲った。
「ああ。ダサくてしょうがないね。立つこともできやしないなんて、ガキのまんまかよ」
「恥ずかしくないのか? お前くらいの年になった奴は、皆二本足で立って歩き回ってるぞ」
「別に」
とうとう寅次郎は門番を睨みつけ毛を逆立てて威嚇し始めた。
「別に這いつくばってだって、獲物は捕れるさ。空なんか飛べなくたって、歩いて前に進みゃあいいんだ」
「馬鹿じゃねえのか! それをダサいって言うんだよ!」
二匹が大げさに笑ってみせた。私はもう我慢できなかった。「寅次郎!」そう叫ぶと茂みから飛び出した。驚いた門番たちが私の方を振り向いた瞬間、寅次郎が後ろから一気に彼らに飛びかかった。
「うにゃああ!」
「何する…やめろてめっ…ぎゃあああ!」
さて思わず飛び出した私だったが、大きめの猫たちの喧嘩に割って入ることもできず、ただその場で立ち尽くすしかなかった。やがて城内の方から、騒ぎを聞きつけて門の方に歩いてくる猫たちの姿が確認できた。それに気づいた寅次郎が、門番の一匹の耳にかじりつきながら叫んだ。
「雪! 今のうちに逃げろ!」
「で、でも…寅次郎は…」
「俺もあとから行く!」
私は意を決して、門の外へと飛び出した。灯りの消えた小さな城下町を、必死に走り抜ける。城の騒ぎとは対照的な静けさが、やけに私の耳に突き刺さった。やがて街を抜け、森に入り、河を下り…私はとうとう息を切らして、その場の岩陰にしゃがみこんだ。汗をだらだらと流しながら、ひゅーひゅーと必死で酸素を吸っては吐いた。森の方から私を追ってきた猫たちの声が聞こえる。私は大きな岩に身を預けるようにして空を見上げた。満天の星空は、こちらの世界でも変わりなく私に光を届けてくれる。もし私に羽が生えていたら、もっとかっこよく、どこまでも遠くまで逃げることができたのにな。もう動きそうもない私の二本足を労わりながら、私はゆっくりと意識を失っていった。
夢の中で、私は足を引きずっていた。捕まりたくない。ただその一心で、ひたすらに前に進んでいる。どこまで逃げればいいのかわからないし、どこが出口なのかも分からない。だけど止まる訳にはいかなかった。それは、寅次郎との約束だったから。とにかくどんなに見窄らしかろうが、この二本足で行けるとこまで行くしかなかった。やがて野を駆け山を駆け、私は自分の足が無くなっていることに気がついた。だけど、やっぱり止まれない。まだ手が二本ある。手が二本あればご飯だって食べれるし、絵だってかける。急に重たくなった体を必死で引きずりながら、私は前に進んだ。どんどん体が重くなっていく。背中にずっしりとした重みを感じ、私は振り返った。「寅次郎…?」逆光の中、私が見たものは…。
そこでハッと目が覚めた。蛍光灯の光が眩しい。逆光の中、白衣の医者が私の顔を覗き込んでいた。
「雪!」
「雪子っ!!」
辺りを見回すと、そこには家族が集まっていた。みんな私がまるで死んだかのように涙ぐんで、おじいちゃんなんか顔面が丸めた答案用紙のようにしわくちゃに歪んでいた。どうやら私は病院の一室にいるようだった。
「心配したのよ雪! 全然起きなかったから…」
「もう大丈夫。もう大丈夫だ」
両親が私の手を握りしめてむせび泣いた。私はなんと答えていいかわからなかった。とにかくあの地震に巻き込まれ、死にかけたことは確からしい。既にあれから一週間以上経っていた。医者の話によると、それまでずっと予断を許さない状況が続いていたらしい。通りでこの家族の大げさっぷりだ。私はみんなにお礼を言った。みんな泣きながら笑っていた。
「そういえば寅次郎は…?」
ぞろぞろと家族が退室していく中、ふと気になって私はおじいちゃんに尋ねた。
「…寅次郎か。残念じゃがあいつはまだ見つかっとらん。じゃが、そのうちひょっこり出てくるじゃろ。なかなか生き意地の張った猫じゃったからなあいつは」
そう言っておじいちゃんは悲しそうに笑った。
「もう本当に、あの時はお前が死んだかと思ったぞぃ」
数週間後、見舞いに来てくれたおじいちゃんがりんごを向きながらそう言って私に笑いかけた。私が起きたときはあんなに泣いていたのに、何をそんなに笑い話のように話すことがあるのかとちょっとむっとしながら私はりんごを頬張った。
あれから数週間、瓦礫に挟まれ右足に後遺症を残した私は、病院で必死にリハビリに取り組んでいた。医者の話では、完全に元のように歩けるようになるのはとても難しいらしい。両親は悲しんで、今回の地震を踏まえ「人工両翼」の手術をしたらどうかと提案してきた。まだ成功例は少ないが、人体に生えた羽は様々な企業や機関によって研究され、人工的な「翼」を作る技術も生まれていた。確かに空を飛べれば、最悪歩けなくなっても動き回ることはできる。地震のような災害からも、身を守る手段としてはとても有効だ。
だけど私は、それを断った。空を飛べる翼よりも、痛みを伴うこの両足が何よりも大切な贈り物のように感じたのだ。それに何よりこの背中は、また誰かさんが帰ってきた時のために、ちゃんと空けとかなくてはいけないだろうから。