8
あれからまた日常が始まった。レストたちのご飯を作り、市場に行く。そしてレストたちの待つ家に帰り、食卓を囲む。
いつも通り。いつも通りの日常。だけど何かが違う。
スィンと再会したことで私は貪欲になった気がする。前はただスィンに会えればそれでいいと思っていた。だけど一緒に踊ったあの夜からもっと欲張りになった。
もう一度会いたい、力になりたいと思うようになっていた。
残り少ない命でもできることがあるのなら。
「リッカ、いる?」
今日は市場がお休みだった。最近天気が悪かったから、久々の晴天に溜まった洗濯物を私は片付けていた。
さてお昼にするか、というときにレストが帰ってきたのだった。
「あれ、レスト? 今日は夕方まで帰らないんじゃなかったですっけ?」
「そのつもりだったんだけどね。ちょっと急用が入ってしばらく街を離れることになったんだ」
「え?」
レスト困ったような顔をする。
「悪いけどしばらく留守を頼んでいいかな。一週間で戻ってこれると思うから」
レストの顔には焦りが浮かんでいた。よほど急ぎの用事なんだろうか。
「分かりました。エルとドールは?」
「一緒に連れてく。戸締り忘れないでね」
レストは荷物を詰め込むと、そう言って行ってしまった。
「え、じゃあ今あの家にリッカちゃん一人なのかい?」
翌朝。市場に仕事に行った私は、ガンさんに事の顛末を話した。
「そうなんです。急だったから理由も聞けなくて……」
レストは慌ただしく出て行ったから、ちゃんと話す時間もなかった。エルとドールにも会えずじまいだ。ちょっと心配だ。
「物騒だねぇ。一軒家に女の子一人だなんて」
ガンさんは腕組みしながら言う。そんなものだろうか。
「そうですか?」
「リッカちゃん一人で暮らすの初めてなんだっけ? 心配だなぁ」
確かに村では婆さまと一緒だったし、王都に出てきてからもレストたちと一緒だった。本当に一人になるのは初めてかもしれない。
「まぁなんとかなりますよ」
私は笑って言った。
夕食の片付けも終えて、一息ついた。さて、どうしたものか。椅子にゆったり座るとなんだか急に部屋が広く感じた。今まで四人で暮らしていたんだ。当たり前だろう。
でもしんと静まり返った家というのは初めてで、私の心にはなにかきゅっとしたものが込み上げてきた。
「なんか……ガンさんが言ってたとおりだな……」
その呟きも静かに部屋に溶け込んでいく。
「やめやめ! ぼんやりしてたら気持ちも落ちちゃう! お風呂入って寝よ!」
さっとお風呂に入ってベッドに入ったけど、私はなかなか寝付くことができなかった。ひとりというのがこんなに淋しいものだったなんて――。
それでもなんとか一週間を乗り切って、明日ようやくレストたちが帰ってくる日の夜になった。一週間ずっと寝不足で、ガンさんに心配される日々もこれでおさらばだ。
強くならなきゃなぁと思った。こんなことでへこたれてちゃ駄目だ。スィンがなにを抱え込んでいるのか分からないから、受け止められるだけの力がほしいと思った。
コンコン
ノックの音が響いたのはその時だった。こんな時間に誰だろう?
「はーい」
私はそう思いながらドアを開けた。
瞬間、強い衝撃が走った。一瞬なにが起きたのか分からなかった。私は床に倒れこんでいた。
頭と背中を強く打ってクラクラする。腕を押さえつけられて身動きが取れない。
「お前、王子といた奴だな?」
腕を押さえつける手の持ち主が言う。私はチカチカする目を必死に凝らして相手を見た。その顔は布で覆われていて見えない。だが声で男だということは分かった。ドアが閉じる音がする。
「こいつだ。間違いない」
その男の後ろからまた一人現れた。その人物も同じように顔を覆っていて、顔は見えない。だが男の声だった。
私は声も出すことができなかった。
なぜ?
誰?
どうして?
疑問符だけが浮かんでいく。
「答えろ。王子はどこにいる」
私を押さえつけえている男が言う。
王子? 誰のことを言っているんだ?
疑問は浮かんでいくけれど、恐怖で声が出せない。私の目に鈍い光が映る。
「答えなければ、殺すぞ」
男はナイフを手にしていた。切っ先を私の目の前に突きつける。
「言え、娘。王子はどこにいる」
私は口は震えさせながら答えた。
「しら……知らない……」
男はナイフを握り直した。刀身に光が反射する。
「自分の状況が分かってないようだな」
殺される。終わりだと思った。
私はぎゅっと目を瞑る。
バン!
突然大きな音が響いた。同時に手の拘束が緩む。
驚いて目を開けると、さっきまで私の上にいた男が向こうの壁に叩きつけられていた。私の視界の端に、金の色が映った。
「……スィン?」
私の傍には剣を構えたスィンが立っていた。鋭い視線が男の方に向けられている。私は身を起こした。
「王子!」
開け放たれたドアにはもう一人立っていて、その人が短く叫んだ。
スィンはばっと振り返ると、もう一人、背後に立っていた男に剣を向けた。男も剣を抜いて、キンと甲高い音が辺りに響いた。しばしの間、力は均衡する。だがすぐにスィンのの力が勝った。スィンは相手の懐に入ると、一直線に剣を払った。赤い色が飛ぶ。どさっと重い音を立てて男は床に倒れ込んだ。
「後始末を頼む」
スィンは剣を収める。私は座り込んだまま、動くことができなかった。
スィンは入り口にいた人になにか言うと、私の元に来てしゃがみ込んだ。
「リッカ……ケガはない?」
私は目を瞬かせて、なにも言うことができなかった。
見知らぬ男が来て? 王子のことを聞かれて? スィンに助けられた。
スィンは心配そうな顔で私を見ていた。
「王、子……?」
聞き間違いかと思った。でも確かにそう呼ばれていた。スィンは苦い顔をする。
「先王の子なんだ。今の王は僕の叔父にあたる」
スィンは何でもないかのように告げた。
「じゃあ、私が狙われたのは」
「この前一緒にいたところを見られてたんだろうね」
スィンは顔を歪めた。そんな顔が見ていられなくて、私は思わずスィンの手を握っていた。その手は冷たかった。
「スィン」
スィンの目が悲しげに揺れた。
「ごめん、ね」
なんでスィンが謝るの。
「スィンが悪いわけじゃないじゃない」
「でも」
「スィンのせいだけどスィンは悪くない」
私は間髪明けずに言った。そう言うとスィンがぐっと言葉に詰まってしまった。
想像でしかないけど、王家というとなにかいろいろ複雑な事情があるんだろう。街でなにか、噂も聞いた気がする。一緒にいたという理由だけで私が狙われるくらいだ。
でもスィンが私に何かしようとした訳じゃない。スィンが謝ることじゃない。
でも。
今になって恐怖が涌いてきた。気が付くとスィンの手を掴む手が震えていた。スィンも同時に気付いたらしい。
逆に腕を掴まれて、引き寄せられた。私はスィンの腕の中に収まる。
「……無事で良かった」
そこでようやく涙が出てきた。