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城の大広間は、煌びやかな人々で溢れ帰っていた。流れる音楽に合わせてたくさん人が踊っている。
私は壁にもたれかかってぼんやり考え事をしていた。スィンに“神の申し子”が各地にいることは聞いていた。だけど一時代に揃うことはまれだと言っていたから、自分以外にもいるということまで考えが及ばなかった。考えてみればあり得る話なんだけど。でもこんなに近くにいるなんて、思いもしなかった。
あの村は砂漠に囲まれているせいか外の情報が入ってくることはあまりなかったのだ。あの砂漠を越えてくるのはそれだけ至難の業だった。
その一方でレストが“神の申し子”に仕えていたという話は納得できるものだった。何というか、物腰が柔らかいのだ。旅して回っているけど、いいところの生まれなんじゃないかな、という印象を受けていた。
ふと広間の中央を見やった。レストとドールが踊っている。ドールはいつになく幸せそうな笑みを浮かべていた。薄いピンクの身体に沿ったドレスがよく似合っている。
エルはエルで、街の女の子と踊っている。たどたどしい足取りが可愛らしい。
ぼんやり考え事をしていた私に、近付いてくる人物がいた。
「お嬢さん、僕と踊ってくださいませんか?」
突然話しかけられて、私はびっくりした。
でもそれは、どこかで聞いたことのある声だった。
「スィン……?」
そうだ、スィンの声だ。
また会えるなんて思わなかった。何でこんなところにいるんだろう。でもこの前の姿とは全く違っていた。
「なんで髪、茶色くなってるの?」
スィンの綺麗な金髪は暗い茶色になっていて、見る影もなかった。
「これは付け毛だよ。ちょっと顔が割れると面倒でね」
スィンはちらりと広間を見渡した。
スィンはいつも何かをはぐらかしている。変装しなきゃいけない事情ってなんだろう?
「リッカは青が似合うね」
スィンは一歩近付いた。そして右手を差し出してくる。
「僕と踊ってくれませんか? 水のお姫さま」
私はその手をじっと見つめた。
一瞬、何を言われたのか分からなかったのだ。あの頃は子供扱いしかされていなかったから。少しだけ大人になったような気がした。
でも突然こんなことを言われても困る。
「私、踊れないよ」
「大丈夫、僕がリードするから」
スィンは自然な動作で私の手を取る。そして私たちは広間の中央に進み出た。
リードすると言っただけあって、スィンの踊りはうまいものだった。私を誘ってくるくると回る。
ドレスの裾がひらりと揺れた。レストが結い上げてくれた髪の毛先が舞う。音楽が右から左から流れてくる。
夢の中にいるみたいだった。あんなに恋焦がれたスィンが目の前にいて、しかも一緒に踊っているだなんて。あの頃はきっと子供としか思われてなかった。
二年の間に、なにか変わった?
そして音楽が終わった。スィンの手が余韻を残して離れていった。視線だけでテラスへと誘う。
私たちは手すりに持たれて庭園を見下ろした。
「スィン……」
テラスには夜の涼しい風が吹いていた。祭典が終わったら、すぐに秋がやってくる。夏の終わりを、この風が告げていた。
何を言ったらいいのだろう。スィンは寂しそうに笑っていた。
「何だか懐かしいね」
「一緒に踊ったことなんてなかったよ?」
スィンは口元に手を当ててくすくすと笑った。
「何て言うのかな……。またこうして会えるとは思わなかったから」
「私はずっと会いたくって仕方なかったよ」
一瞬、見つめられた。彼の目は驚いた色をしている。でもすぐにその目は伏せられて、階下の美しい庭園に移された。
庭園には広間の明かりが落ちていて、紅や白の花が咲き乱れているのが見えた。さすが王宮だ。華々しさは街の比ではない。
「……王都を離れる気はないの?」
スィンはこちらを見ることなく言った。そういえばこの前そう言っていた気がする。スィンに会えてそれどころではなかった。
「理由は教えてくれないの?」
スィンは黙ったまま、庭園を見つめている。薔薇の花が咲き誇っていて、ここまで香ってくる。きっと下に降りたら、むせ返るようなんだろう。スィンは手すりに身を持たれ掛けて、それをじっと見つめていた。
「……王都は、じきに荒れるよ。その時に君を危険に晒したくない」
スィンの声はどこか切羽詰まっていて、私はどうしてスィンがそんなことを知っているのかなんて考えつかなかった。
なんと言ったらいいんだろう。
「スィンは?」
ようやく搾り出した声は、擦れていた。
「私ばっかり、離そうとして。スィンはどうなるの? 私はスィンに会いたくてここまで来たんだよ?」
スィンは身を起こしてこちらを向く。そして静かに近付いてきて、そっと私の頬に触れる。その時ようやく私は泣いていることに気が付いた。どうして泣いているんだろう?
スィンの指が優しく涙を拭う。
「婆さまが心配してるんじゃないの?」
「ねぇスィン、もう私、“水の申し子”じゃないんだよ」
私は前髪を上げた。あの頃は透き通るようだった水晶も、今では黒く濁っている。もう透明な部分は僅かばかりだ。
スィンは予想どおり、驚いた顔をした。
「じゃあ、リッカはもう……」
「スィンも知ってるんだね。私にはもう水の力はほとんどないの。あの村で生きていても、もう意味なんてなかった」
私の存在理由なんて“水の申し子”しかなかった。オアシスに水を湛える。それさえももうできずに、段々失われていく力が怖かった。
その時、スィンに抱きしめられた。一瞬なにが起きたか分からなかった。気付いた時にはスィンの腕が私を包み込んでいた。
「意味がないなんて言うなよ」
私の髪にスィンの頬が触れる。痛いくらいの力で抱き締められて、スィンの鼓動の音がはっきりと聞こえた。
「君は生まれてきただけで幸福を与える存在なんだよ。“神の申し子”とはそういう存在なんだ。でも、それがなくとも僕が君と出会えてどれだけ幸せだったか、知ってる? あの七日間は本当に宝物になったんだ。あの日々があったから、僕はここまで来れた。こうしてまた会えてどれだけ嬉しかったか……」
なんでだろう。スィンの本心が初めて見えた気がした。
「スィン……」
スィンに会うことばかり考えていたから、そんなことを言われてどうしたらいいか分からなかった。スィンもあの日々を大切に思っていたなんて。
「ごめん……。混乱させたね」
スィンはそっと私の肩を掴んで離した。違う、嫌じゃないのに……。
「リッカに会えて本当に嬉しかったんだ。それだけは分かってくれ」
分かるよ。
私は泣き出しそうなのを堪えて必死に何度も頷いた。
大広間の音楽は止んでいた。誰かが挨拶をする声が聞こえる。もう宴は終わりのようだ。
「もう行かなきゃ」
スィンは顔を上げた。また離れ離れになるの? 私はスィンの袖を掴んだ。
「次は、いつ会える?」
そんな私を見下ろして、スィンは優しく微笑んで私の手を離した。
「またね」
そう言って去っていく彼の後ろ姿を、私は見送ることしかできなかった。