27
そこは空色の世界だった。
気付くとそこにいた。空色で埋め尽くされた、空の世界。足元には水が流れていて、素足にそれは心地良かった。
私はいつの間にか膝丈の白いワンピースを着ていた。見渡すけれど辺りには誰の姿も見えなかった。
『気が付いたか』
突如声が響いた。
振り返ると、何と表現したらいいんだろう。人のような形をしているけど、人とはまた違う、例えるなら水のような存在がいた。
もしかすると――
「水神さま……?」
『如何にも。会うのは二回目になるな、リッカ』
私は首を傾げた。いつか会っただろうか?
『お主が生まれる前の話、だがな。この力を額に込めて、お主は生を受けた』
私はそっと額に触れた。そこには相変わらず硬い感触があって。でも確か城の火を消すために力を使い果たしたはずだ。
水神さまはふっと笑った。
『生きたいか?』
試すように語り掛ける。まっすぐ私を見つめてくる水神さまに、私の視線は揺れた。
「でも……宝玉が黒く染まったら“申し子”の命は尽きるって……」
『それは少々違うな。命尽きるからこそ宝玉は漆黒に染まっていくのだ』
「どう違うんですか?」
水神さまはふわりと舞った。そしてぱしゃりと着地する。
『お主が生きたいのならば宝玉は漆黒のまま、水の宝玉が欲しいのならば新たな生を待つのだ』
光が見えた気がした。空色の空間の輝きが増したように見えた。
「生きたいです……! 生きて、まだスィンに伝えなきゃいけないことがある……!」
『決まりだな』
水神さまは私の目の前まで来ると、額に手をかざした。宝玉が一瞬、熱を帯びた気がする。
『これより先、お主は水の加護を受けぬ。一人の人間として、達者に暮らすのだぞ』
空色の光が増す。光に包み込まれる寸前、私は叫んだ。
「水神さま……! ありがとうございました!」
水神さまが、笑ったような気がした。
*
誰かに抱えられている感触がした。
「……ッカ……」
聞き覚えのある声のような気がした。さざっと風が頬を撫ぜていく。私はゆっくりと目を開けた。
「スィン?」
どうやら私を呼んでいたのはスィンだったようだ。と認識したと同時に、私はスィンにきつく抱き締められていた。
「良かった……! もう目を覚まさないかと思った……!」
そうだ。雨乞いして倒れちゃったんだ。力を使いすぎちゃったのかな……? 城を仰ぎ見ると火の手は消えている。雨ももう上がっていた。
「スィン……無事だったんだ……」
言った瞬間、スィンにすごい顔で捲くし立てられた。
「バカ! リッカの方が危なかったんだぞ! 宝玉だって……」
言われて初めて気が付いた。私の中から何かが抜け落ちてしまった感じがする。私は額の宝玉に触れてみた。
「何か……変な感じがする……」
私がそう呟くと、スィンはなぜか辛そうな顔をした。
「リッカの宝玉は……もう、黒く染まってしまってる」
あぁ、そうか。“水の申し子”としての力がなくなってしまったから、こんな感じがするんだ。水神さまは私の力だけを持って行ってしまったんだ。
「力が、なくなっちゃったみたい」
「でも宝玉が黒く染まったら“神の申し子”は死ぬって……」
「約束、したの」
とても幸せで、暖かな約束だった。あの邂逅があればきっと生きていける。たとえ力がなくなっても。
「水神さまが生かしてくれたんだよ。スィンにちゃんと伝えなきゃって言ってくれた」
「水神様に?」
スィンは不思議そうな顔をする。そんなスィンに私は微笑みかけた。
「好きよ、スィン。ずっと一緒にいたいわ」
たぶん私は、スィンのことを想い過ぎたんだろう。“水の申し子”として傾けるべき心をそっちに裂いてしまったから、力をなくしてしまった。だけどそれは幸運にも許してもらえた。水神さまの最後の愛だ。
ならばちゃんと伝えなきゃ。
スィンは目を瞬かせて私の顔を見つめた。そして左手で顔を押さえて逸らしてしまった。
「……我慢してたのに」
「え?」
ポツリと呟かれたそれは私の耳には届かなかった。
「あのね、僕はこれからこの国の王になる」
そういえばそうだった。自分のことばかりに気を取られて忘れていたけど、反乱が起きたばかりだったんだ。
「王を御した後だからこれからが大変なんだ。それでも……それでも付いてきてくれるかい?」
レストたちが無事なのか気になりはしたけど、まずはこっちが先だ。
「何年待ったと思ってるの?」
私はくすりと笑ってそう言うと、スィンの首筋に抱きついた。そして少し腕を緩めてスィンの顔を見上げる。
ゆっくりと目を閉じて、二人の唇が重なった。
これが、のちに“黒水晶の君”と呼ばれる王妃が生まれた瞬間だった。
*
「まったく……。自分だって死にそうだったのに」
二人の様子を遠くで見ている人物がいた。
「まぁまぁ。ずっと苦しい思いをしてきたんだし、今くらいは大目に見てあげましょ」
レストはシェルを宥める。
「私が追い付くのがあと少し遅かったらどうなっていたことか……。火の海の謁見の間を見て肝が冷えましたよ」
シェルが謁見の間に辿りついたとき、炎はスィンの身体を飲み込もうとしていた。間一髪のところでシェルはスィンを運び出すことができた。
王は、炎に阻まれて近寄ることさえできなかった。
「……全部終わったんですね」
雨が上がり始めた空の下で、レストは呟いた。
「いいやこれからが始まりなんだぞ、大変なんだぞレスト」
レストに寄り添うように立つミスカが言った。
「城も燃えてしまいましたしねぇ」
「でも損傷が激しそうなのは謁見の間ぐらいじゃないですか? リッカが守ってくれたから」
「王子にはがんばってもらわないといけませんね」
「リッカもだけど。王妃として」
「イルトも最大限の協力はするぞ。我々は新王を歓迎する」
シェルは笑って腰を折った。
「よろしくお願いします」
そして三人はこの国を背負う若き二人に目をやった。
光が差し込み始めていた。
*
柔らかい日差しが町に落ちる。
私はその眩しさに思わず目を細めた。
「リッカ」
部屋にスィンが入ってくる。その服装は戦いのときに着ていたような素朴なものではなくて、ぴしっとしたワルセングの正装をしている。金の髪に黒の服がよく映える。
私はレストに仕立ててもらった、青のふわりとしたドレスを着ていた。
「準備はできたかい?」
「えぇ」
バルコニーの下ではこの国の民が大勢待ち構えている。みんな、この日を待っていたんだ。
「緊張するわ……」
胸に手を当てて言う私にスィンはくすっと笑った。
「死ぬ覚悟で反乱に加わった君が」
「あのときは必死だったんだもん! いろいろ勉強したけど、本番はやっぱり緊張するわ……」
あの反乱からこっち、私の王宮入りの準備は着々と進んでいた。
先代国王陛下の時代に仕えていた使用人たちも戻ってきた。元々陛下の信頼は厚かったのだ。シェルさんが各地を回って集めたらしい。
シェルさんと女官長の教育の賜物で、なんとか私も見られるものになった。でもまだあの厳しい指導は続くんだろうなぁ……。
「もう表に立つのは大丈夫そう?」
スィンが面白そうな顔で聞いてくる。絶対楽しんでる……!
「もうお手のものよ。おじぎだってバッチリ」
私はすっと一歩下がる。そしてスィンに優雅におじぎした。
と思ったら、バランスを崩してしまった。
「わっ……!」
ぽすん、とスィンの腕に収まる。
「……えへへ」
案の定、スィンは呆れ顔だ。
「心配だなぁ。手と足が同時に出たりするんじゃない?」
「さすがにそんなことはないよ!」
なんて言いつつも、緊張してきた。バルコニーの向こうにはこの国の民が待っている。
王が変わって、一部だけど城も燃えてしまったんだ。この日を待ち望んでいた民も多いだろう。
胸の前でぎゅっと握り込んでしまった手を、スィンが優しく包む。
「大丈夫だよ」
やさしい言葉が上から降ってきた。
「僕が付いてる」
ぬくもりが手から伝わってくる。その暖かさで肩の力がふっと抜けた。
顔を上げると、スィンの優しい微笑みが見えた。私も同じように返す。
「さぁ行こうか」
スィンは私の手を引いた。その姿はバルコニーから差し込む淡い光に包まれている。
あぁ、この人となら大丈夫だ。
私たちは光の中に踏み出した。