23
サウリアでのリッカとの出会いは、スィンの心に消えないものを残した。
“神の申し子”と相見えるのはこれで二度目だった。否応なしに惹かれるのはワルセングの民所以か。それとも王族故か。
それでも彼女だけは、どことなく違った。離れるのがこんなに惜しいと思うなんて、初めて会ったときには想像もできなかった。
でも所詮住む世界の違う人だ。この地では信仰が薄れているとはいえ、片や神に愛された子、片や落ちぶれた王族。一緒にいられないことは目に見えている。
彼女が幸せに生きることを祈るくらいは許されるだろうか。
スィンは名残惜しさを振り切って、サウリアを後にした。
街道に出てしばらく経ったときだった。
「ワルセンスィング殿下……でしょうか……?」
背後からの声にスィンはばっと振り返った。その名を知るのは多くない。敵か味方か。
後ろに立っていたのは長身の男だった。短く切り揃えられた赤銅の髪。細身だが鍛え上げられた身体。そして腰には刀が下げられていた。
「……誰だ」
スィンは低く呟く。
「お初にお目に掛かります。先王の代より身辺の護衛をしておりました、シェルと申します」
そう言って男は膝を折った。その頭をスィンは見下ろす。
「……その護衛がなぜここに?」
男は顔を上げすに答える。
「……仇を、討つため」
ざ、と風が流れた。
ゆっくりと顔を上げると、男は口を開いた。
「あなた様もお気付きでしょう。この国の現状を……。王は“神の申し子”を王都に集めています。このままでは四神の加護を受けるこの国のバランスが崩れてしまいます。建国より王家が守ってきた秩序を、あの男は崩そうとしているのです」
スィンは黙って聞いていた。
「それと、仇とは何の関係が?」
シェルは押し黙って視線を下げた。
「先王と、その王妃を殺したのはあの男です」
その言葉にスィンは目を見開いた。
それはスィンが旅を続ける理由だった。
自分がいたから、自分の存在が父母を殺したのだ。ずっとそう思って生きてきた。
それを、覆そうというのか。
「戯れ言を……」
「戯れ言ではございません! かねてより二年前の王位継承はおかしい点が多かったのです! ……まだ成人していないとはいえ、ワルセンスィング殿下が継承してもおかしくなかったはず……。あの男は自分の欲望のままに動いているのです……」
シェルの目は真剣だった。その目にスィンの瞳は揺らぐ。長年信じてきたことだ。簡単には覆せない。
「……俄かには、信じられない……」
そう呟くのがやっとだった。
シェルが身を乗り出してくる。
「今はそれでも構いません。ですが……ですがいつか必ず……! 先王の無念を晴らしてください!」
スィンは何も答えることができなかった。
*
「どこまで付いてくるんですか」
金の髪の少年は、呆れ顔で言った。
「あなた様の行かれるところなら、どこまでも」
赤銅の髪を持つ男は、少年をまっすぐに見つめて言った。
あれからシェルは、スィンに付いて旅をするようになっていた。
「私はスィン様を探していたのですよ? 護衛として参ったのですから、お側にいるのは当然です」
その返事にスィンはため息をついた。
「僕は護衛が必要な身分じゃないよ」
王都を追われた人間だ。卑下する訳でなく、事実として言った。
シェルはふっと笑う。
「お気付きじゃない訳ではないでしょう?」
その言葉にスィンは黙る。
あの叔父が何の監視もなしに先王の子を外に出す訳がないのだ。時折感じる視線はスィンにとっては当たり前のものになっていた。
スィンは呆れた顔を浮かべる。
「あなたも、気付いていながら僕に近付いたんですか?」
シェルはくすくす笑う。
「私は顔が割れていませんでしたから」
「でも父の護衛だったんでしょう?」
「そういうことですよ」
まったくもって、この男には不可解な点が多い。顔が割れていない、ということは影武者のような立ち位置だったのだろうか。
それなのに堂々とスィンに会いに来たり、先王の息子という理由だけで付き従ったり、まったく読めない。
突き放すこともできず、スィンは一緒に旅を続けていた。
二人はウェルズに着こうとしていた。
ウェルズ。風の生まれる街。
風神と“風の申し子”が祀られるこの町は、音で溢れてた。
「なんだ……これは……」
スィンは目の前に広がる風景に言葉を失った。
「ウェルズは世界一、賑やかな町だといいますよ」
シェルの言うとおり、町には音が溢れていた。誰しも歌を歌い、楽器を奏でる。そんな風景がそこかしこで繰り広げられていた。
「風は音を伝えますからね。風神様も音楽が好きだといいます。捧げるのも音楽だそうですよ」
町の人々は笑い合っていた。
「ウェルズに今、“神の申し子”は?」
「いる、と聞いていますが」
二人は神殿を目指した。
「“風の申し子”様は、今はおりません」
神官は微笑みを浮かべたまま、そう答えた。神殿内はオルガンの音が流れている。
「それは、どういうことですか?」
悪い予感が胸を過ぎった。
「“風の申し子”様は現在、王都にいらっしゃいます」
やはり。その言葉にスィンの背筋が粟立った。あの叔父の手がここにも……。
シェルもそれは同じだった。
「それは……なぜ……」
「王様直々のお願いでした」
神官は穏やかな顔で言った。何でもないことであるかのように。
「あなた方はそれで良かったのですか! 神よりの遣いを王都に取られて良かったのですか!」
叫んだのはシェルだった。それでも神官の顔は穏やかだった。
「音は風に乗ります。この地で奏でればそれは“風の申し子”様に届く……。逆も然り。“風の申し子”様のお言葉も風に乗って届くのです」
スィンたちは何も言うことができなかった。誇りを奪われて、怒りを覚えないのか。
「大切なものを奪われて、悔しくないんですか……!」
その問いにも神官は笑って答える。
「奪われた、とは思っておりません。“風の申し子”様はただ役目を果たしに行かれただけです。“風の申し子”様がこの地におられれなくとも、風神様はウェルズを愛してくださっていますし、我々も御二方を慕っております。“風の申し子”様がお戻りになられるまで、我々は音を絶やさずこの地を守るのが、我々に与えられた使命なのです」
二人はまた、町を歩いていた。
そこは相変わらず音で溢れていて、住民に悲壮感などない。
町の象徴を失っても、そこには力強さがあった。
「“神の申し子”は、ある種の希望のようなものだと思っていました」
小高い丘に来ていた。そこからは町の様子がよく見える。
スィンの目は通りに向けられていた。隣に並ぶシェルはそっとスィンに視線をやる。
「ここだって、きっとそうです。希望があるから、信じているから、遠くにいても思っていられる。きっと“神の申し子”というのはそういうものなのでしょう」
王都に暮らす人間にとって、“神の申し子”の存在は遠い。決して信仰心がない訳ではないが、四つの町ほどではない。神殿に赴かずに一生を終える者も少なくないのだ。
この風景は、外に出なければ見れなかった。
「シェルさん」
スィンは彼を見ることなく呟いた。
「僕はやっぱり、この国の全てを見てみたいです。そして……この国の人たちを守っていきたい。それには……。そのためには、あなたの協力が必要です」
そこでようやくシェルに向き直った。
「叔父の悪政を止める。ここで変えなければ」
スィンは王都のある方角を仰ぎ見た。
「国名を有する者、王家ワルセンスィングとして命ずる。ワルセングを救うため、その身を僕に捧げよ」
シェルはその王を前に膝を付き頭を垂れた。
「仰せのままに」
町の音が小さく聞こえる。
夕日が二人を照らしていた。