15
彼は長い廊下を走っていた。この季節、廊下から見渡せる庭園には美しい花々が咲き誇っていたが、彼は見向きもしない。
「レスト様! 神殿内は走らないでください!」
神官の忠告も今は無視した。遥か後ろで怒る声が聞こえるが、今はそれどころではない。
早く、早く。
「ミスカ!」
飛び込んだ部屋の中には、数人の付き人に囲まれて寝台に横たわるミスカがいた。ミスカは静かに顔を上げる。
「レスト、遅かったじゃないか」
「ミスカ……無事なのか……?」
ミスカは微笑んで身じろぎする。
「見ろ、男の子だぞ」
ミスカの腕の中には生まれたばかりの赤子が抱かれていた。その目元はどことなくレストに似ている。鼻筋はミスカだろう。
「僕の、子?」
「それ以外に誰がいる。私と君の子だ」
ミスカは少し怒ったように答えた。それを聞いてレストは震えた。
「やったー!」
腕を突き上げて叫ぶレストの目には、涙が零れていた。
突然叫んだものだから、周りの人たちは呆気に取られてしまった。ミスカに至っては目をぱちくりさせている。落ち着いているのはドールだけだ。
「レスト、みんなが吃驚している」
銀の髪の少女は淡々と告げた。その姿は三年前、祭典で舞を披露したときから変わっていない。レストもミスカも、三年分歳を取っていた。そこが造詣人形たる所以だ。
「あぁ、落ち着かなきゃね! でも嬉しくて……」
「レストもこの日を楽しみにしてたこと、知ってる。大丈夫」
レストはそんなドールに微笑んだ。
「ドールは相変わらずだなぁ」
「だから傍に置いてるんだ」
ミスカは誇らしげに呟いた。
あの祭典からこっち、ドールは神殿で暮らしていた。ミスカが傍にと望んだのだ。断る理由もなかった。
それからドールは神殿に、ロッドは工房にいる。
ロッドはフーマの助手として働いている。気さくで明るいロッドは看板娘ならぬ看板息子になっていた。師匠は。
師匠は旅に出てしまった。レストとミスカが婚礼の儀を挙げるのと前後して、
『ちょっと世界を見てくる』
と言って出て行ってしまった。レストが神殿付きの人形師になってしまったから、工房はフーマが取り仕切っていた。
「名前はどうしようねぇ」
生まれたばかりの赤子を抱いて、レストの顔は終始にやけっぱなしだ。ミスカはそんなレストを呆れつつ見ながらも、悪くないと思っていた。
「ドール、君が決めてくれないか?」
突然話を振られたドールは驚いた顔をした。いや、表情こそ変わらなかったものの、ずっと一緒に過ごしてきたレストとミスカにはそれが分かった。
「私、で、いいんですか……?」
戸惑っている様子のドールにミスカは優しく答える。
「レストと決めてたんだ。私たちの大事な子どもだから、大事なドールに決めてもらいたい」
レストは頷いた。ドールは泣きそうな顔をする。造詣人形に涙はないのだけれど。
「では……“エル”はどうでしょうか?」
「“獅子”か」
それはイルトの古い言葉で、獅子を意味するものだった。
「いい名だな。強くあってほしい」
ミスカは我が子のまだまばらに生える髪の毛を撫でた。
「ありがとう、ドール」
「別に……」
ふいっと横に目を逸らす様子は照れている証拠だ。ミスカもレストも笑っていた。
*
エルはすくすくと育った。
“地の申し子”の子と言っても、その力を受け継ぐ訳ではない。一時代に一人、“神の申し子”がいる方が珍しいのだ。“地の申し子”がいなくても神殿は成り立っていたが、やはりいるのといないのとでは違う。ミスカの存在は人々の希望と言っても過言ではなかった。
エルにはその力はないけれど、父の造詣人形の技術に興味を持った。
「エル様、次は算学の時間ですよ」
エルは頬を膨らませる。
「分かってるけど……。フーマの工房に行きたいよー」
「街での課外授業は三日前に行ったばかりでしょう?」
「だってー……」
八歳。やんちゃな盛りだ。エルはいつも神殿の教育係を困らせていた。
「ミスカ様がエル様くらいの年頃には、もうこの本は終わらせていましたよ?」
エルは唇を尖らせた。
「そりゃあ母様は“地の申し子”じゃないかぁ。いくらその子どもと言っても僕はただの人間だよー」
エルは頬杖をついた。事ある毎に比べられるのはもう慣れっこだった。でも落ち込むものは落ち込む。
そんなエルを見て、教育係は柔らかく微笑んだ。
「エル様が十分努力しておられるのは知っておりますよ。そして優秀なのも。そうへこまないでください」
それでもエルは恨みがましい目で見た。
「へこませたのは誰なのさー?」
「ははっ。私ですね。申し訳ございません。さ、続きをやりましょうか」
こうしたやり取りをするのもいつものことだ。エルは苦笑いをひとつして、机に向かった。
そんな穏やかな日々が続いていた。
*
「王位継承?」
夕食の席でミスカは切り出した。
「あぁ。先の王は長らく病に臥せっていたからな。喪が明けたから継承式があるらしい」
ミスカはフォークで上を指しながら言った。公的な会食の場にはあるまじき行為だが、今は家族だけだからいいだろう。エルの教育に良くないとレストは思ったが。
「確か、先の王にはご子息が一人いたよね?」
「その王子だがまだ十二に満たないらしい。先王の弟君がそれまでは王となるそうだ」
ミスカはそのまま食事を続けた。レストは深刻そうな顔でミスカを見る。
「それは……一波乱ありそうだね……」
「どういうことです? 父様」
レストは困った顔で笑ってエルを見た。
「なんていうかね。権力っていうのは争いの元になりやすいんだよ」
両親の顔を交互に見ると、エルの顔は泣き出しそうになった。
「母様、も……?」
その言葉に二人は面食らう。顔を見合わせてくすっと笑った。
「お母さんはね、そういうのとはちょっと違うんだ。“神の申し子”というのは代わりがいないものだから」
エルはいまいち要領を得ていないようだ。
「……母様は心配しなくてもいいってことですか?」
「あぁ」
それを聞いてエルようやくほっとした顔をした。しかしレストの顔つきは険しくなる。
「無事に済めばいいけど……」
しかしその言葉は杞憂に終わらなかった。