10
吐く息は白かった。息だけではなく、地も空も全てが白い。
白き町、ノルシェ。
城を追放されたスィンはこの町に来ていた。行く当てがあった訳ではない。ただ、気付けばノルシェに来ていた。
叔父――もう王であるが、彼からは王都に足を踏み入れなければ、命だけは取らずにおこうと言われた。
いったいどうして、こんなことになってしまったのか。
両親を亡くし、生まれ育った場所を失い、まだ十二の少年を失意のどん底に突き落とすには充分すぎる出来事だった。
これからどうすればいいのだろう。ただ当てもなく歩いてここまで来てしまった。
ふと、広場に灯されたランプに目が行った。広場の中央にある燭台に、風除けだろうかガラスの箱に入れられた炎があった。
白の世界で赤々と燃え上がる炎。スィンはその赤に引き寄せられていた。
そっとそのガラスに手を当てる。思いの外、それは熱くなく、冷え切ったその手をじわりと温めた。
「これ! そこで何をしとる!」
突如、広場に声が響いた。
びくっとして振り返ると、老人がスィンに向かって歩いてくるところだった。
「『ノルシェの轟炎』に触れちゃならん」
老人はスィンの手を掴んでそう言った。
「ノルシェの……ごうえん……?」
「なんじゃ『ノルシェの轟炎』を知らんのか。ここノルシェは火神様の地だろう? この地は火神様が降り立ってできた。そのときに与えてくださった聖なる炎がこの『ノルシェの轟炎』なんじゃ」
老人は誇らしげに言った。スィンは緩やかにその炎に目を向ける。
「そんなに昔からあるものなんですか?」
「もちろんここにあるのはその炎そのものじゃあない。そのときの炎は神殿にあるんじゃよ。ノルシェの家々には神殿の炎を移して灯してあるんじゃ」
炎は静かに揺れている。
「お前さん、どこから来たんじゃ」
「…………」
スィンは答えることができなかった。叔父はスィンの名前さえ奪ったのだ。
『ワルセンスィング』
国名を有するその名は、そのまま王家であることを意味している。城を追放された時点で、持つものは『スィン』の名だけとなった。
「腹は減っとらんか」
その様子を見て老人は何かを察したのだろう。深くは聞かずにそう言った。
「昼飯くらいは食わしてやろう。付いて来い」
今思えば運が良かったのだと思う。身ぐるみ剥がされてもおかしくはなかっただろう。
老人はノルシェのことを色々教えてくれた。
『ノルシェの轟炎』のこと、火神様の偉大さ、国境線を守る人々のこと、“火の申し子”のいる神殿のこと。
話を聞いていても、スィンの目の奥にはあの炎が焼き付いていた。
赤く燃える『ノルシェの轟炎』。火神より承ったというその炎は、スィンの心を強く惹きつけた。
「そんなに気になるんなら、神殿に行ってみればよかろう」
老人は言った。
「ここからもっと北の方にあるが、どれ、一生に一度は見ていた方がいい。紹介状を書いてやるから待ってとれ」
老人は奥に引っ込むと、やがて紙を手に戻ってきた。
「ほれ、これで神官長に挨拶くらいはできるはずじゃ」
スィンは目を瞬かせる。
「おじいさんは、いったい……?」
「はっはっは! ただの村長じゃよ。……道中冷える。気を付けて行くんじゃよ」
本当に、運が良かった。
いろいろ旅に必要なものをもらうと、スィンは更に北を目指した。
「これが……神殿……」
それはまさに要塞だった。ワルセングと隣国を分かつ場所。そこに神殿はあった。
雪の白さとはまた違う白。厳かな装飾が施された柱は太く、深く積もった雪を物ともせずにいる。
スィンはそっと神殿に足を踏み入れた。
「ノルシェの神殿は初めてですか?」
突如、背後から声がした。振り返るとひとりの男がいた。スィンは小さく頷く。
「私はこの神殿の神官長です。『ノルシェの轟炎』はもう見ましたか?」
「いえ、まだ……」
「ではどうぞこちらへ」
神官長は奥へと誘う。
回廊を抜けた先は、赤い光が溢れていた。目映いばかりの光が部屋に満ちている。
大広間の中央に組まれた櫓に、赤々とした炎が燃えていた。
これこそ『ノルシェの轟炎』
古来より受け継がれし紅き光。
「美しいでしょう?」
言葉の出ないスィンに、神官長が微笑んだ。
「ノルシェは火神様より与えられし土地。雪深いこの地で、暖はなくてはならないものでした。そしてここは国と国との境。争いに打ち勝つ強い光でもあります」
そう言う間もスィンは炎から目を逸らせずにいた。
そんなスィンを神官長は黙って見守っていた。初めて『ノルシェの轟炎』を見た者は大抵こうなってしまうのだ。
しかしここまで強く惹きつけられるのは、スィンが王族であるからでもあった。それを知る者は、ここにはいない。
ふと気付いたように、神官長は声を上げた。
「ほら、あちらにいらっしゃるのが“火の申し子”様です」
広い庭園を挟んだ向こう側。数人の従者らしき人々に付き添われた男が通るところだった。
庭園を望む窓ガラスは厚い。あちらはこちらに気付いていないようだ。
“火の申し子”はその名に似つかわしくない長い白銀の髪の持ち主だった。それを頭の上の方できつく結い上げている。腰には一丁の長剣が下げられていた。
「刀……」
スィンは無意識のうちに呟いていた。
「“火の申し子”様は武神であられます。ここ数年は落ち着いていますけどね、隣国との戦のときにはそれはそれは素晴らしい働きだったそうですよ」
“火の申し子”は回廊の向こうへと消えていった。それでもスィンの目はずっとあの白銀へと向けられていた。
*
スィンはこの一年をノルシェで過ごした。どうせ王都には戻れない身だ。時間はたっぷりある。外の世界を知ろう、とスィンは思った。
ノルシェ中を歩いて回った。
ここにはスィンの知らないことがたくさんあった。王都の城の中にいたら、見れなかった風景だ。
世界を見てみたい。
そう思ったらから、ノルシェを旅立つことにした。