参
ふう、と物憂げなため息が彼の柔らかな毛皮を揺らした。
白虎は自分の腹の間に収まり、頭を預ける夜巫女を物言わずに見る。
―――そんなに彼奴が気になるのか―――
白虎は夜巫女の頬をゆるく尾でくすぐりながら考える。
―――日々逢瀬を重ねておるのはわかる。今や雨龍の領域には嘆きは満ちておらぬし、とめどなく力が溢れることもないようだ。そうであるのに何故夜巫女は憂いておるのだ―――
ぐるる、と一声発し、白虎は夜巫女の頬を自分の鼻でつついた。
夜巫女は力なく手を持ち上げ、白虎の鼻面を軽く撫でる。
―――何を悩んでおるのか、我に申してみぬか―――
そう意思を乗せて夜巫女に力を送り込む。
はっと夜巫女は白虎を見、すぐにうろ、と視線をさまよわせた。
眉が下がり唇は震え、言うべきか言わぬべきか迷っている様子である。
白虎は再び頬をつつき、夜巫女を促した。
夜巫女は白虎の尾をゆるくつかみ、手慰みに弄りながら噛み締めるようにぽつりぽつりと事のあらましを話しだした。
「――――――であるのですが、私は、何故か心が痛むのです。彼が嘆きから救われるのならばそれで良いはずなのに・・・」
そう言って夜巫女は哀しげに目を伏せた。
これは・・・盛大な勘違いが起きている。
白虎は頭痛を感じ、顔をしかめた。
雨龍の愛おしい者とは、間違いなく彼が亡くした妹のことであろう。
白虎は雨龍が雨龍たる所以を知っていた。
雨龍が雨龍になる前、この世界には別の雨龍がいた。
何千という年月を支えたその雨龍はある日力尽き、神々が新しい雨龍を探す間に世界は大旱魃に陥った。
雨龍を探す時間は神にとっては一瞬の、それこそ瞬きをする間のような期間であったが、それでも世界にとっては長いものであった。
そんな時に現れたのが彼であった。
妹を亡くし、親を亡くし、村を亡くし。
彼はあらゆるものに呪詛を吐いた。
それに気まぐれに目をやり、力を与えたのが夜神である。
白虎はそれを傍らで見ていた。
夜巫女は彼の愛おしい者が、恋人であるかのように思っているのだろう。
そして、彼女は異形であるはずの龍に、恋心を抱いているのであろう。
白虎はぐふぅ、と鼻を鳴らした。
不満である。
いくら雨龍だからと言って、可愛い娘(?)をくれてやるのは真に不満である。
だがしかし。
夜巫女の涙を見るのは御免だ。
白虎は音もなく立ち上がると、夜巫女に頭をすりつけ、そのまま勢いをつけて空に駆け出した。
「御使い様!?」
夜巫女は唖然としながらその姿を見送った。
「悩みを聞いてくださるのでは・・・?」
夜巫女の呟きは、誰に届くでもなく空に溶けた。
遠くから舞の音が聞こえる。
雨龍は気まぐれに雨雲を呼び出し、適当に外に放り投げていた。
それを見る妹がそれを触ろうと腕をのばしている。
雨龍は妹を腕に抱え直し、少し不満気に髪を掻き上げた。
夜巫女が、来ない。
静かに舞い、妹との逢瀬を手助けしてくれる夜巫女が。
最近では夜巫女が現れずとも、夜の訪れになると聞こえる舞の音で妹は現れるようになっていた。
妹に会えるのはもちろん嬉しい。
亡くしたと思っていたものが自分の腕の中にあるのだから、それはそうだろう。
しかし、何かが物足りなく感じる。
あれほど望んでいたものがこの腕に抱かれていると言うのに、何が物足りぬと言うのであろう。
満たされているはずだ。
満たされていたはずだった。
―――自分は何を不満に思っているのであろう―――
雨龍の心にそんな考えが過ぎったその時であった。
きぃん!!
つんざくような音で、彼は我に返った。
視線を鋭くし、辺りを覗う。
何者かが領域内に入ってきたようである。
妹の姿は既に無く、己の姿も龍に戻っている。
・・・何者だ。
気配を探ると、なんとなく知った者である気がした。
ぐんぐんとものすごいスピードで彼のもとに駆けてくる。
とん
軽く音を立てて白い勇猛な姿が雨竜の前に降り立った。
夜神の眷属、白虎であった。
この二人が顔を合わせるのは、まだ2度目である。
初めては言わずもがな、雨龍が雨龍になった日のことである。
それからは互いに干渉せず、顔を合わせることもなかったが。
雨龍は白虎の訪れを訝りながらも、白虎の周囲に漂うよく知った気配を感じ取った。
―――この気配は―――
「主は何をしておるのだ」
実際にはぐるる、と唸るような声が発されたのであったが、雨龍にははっきりとそう聞き取れた。
何を言われているのか検討がつかず、雨龍は顔をしかめた。
そんな雨龍を見て白虎は鼻で笑う。
「亡くした者をその腕に囲いこめば満足か?それが主の望みか?」
そう言いながら白虎は一歩一歩雨龍に近づいた。
―――近寄るな―――
ぐっと力を放出し、威嚇をするも白虎は歩みを止めなかった。
「死した者は返らぬ。例え僅かな間の逢瀬が叶おうとも、それは所詮夢幻でしか主の前には現れぬ。」
―――やめろ、それ以上は―――
「このままでは、本当に大切なものを見失うぞ」
ぴたりと足を止め、白虎はしかと雨龍を見据えた。
―――どういう意味だ。私には、妹の他に大切なものなど―――
「その妹も、このままでは世界に還ることはできぬであろうよ」
その言葉に、雨龍は刺し抜かれたように硬直した。
還れない、それは、それは一体。
白虎は目線をそらさぬままに続けた。
「未練ある魂はいつまでも留め置かれたまま。長く留まった魂は還る力を失い、無に帰すのがこの世界の常理だ」
雨龍は信じられないと言うように目を細め小さく唸る。
うそだ、そんなことは。
もしそれが本当なら、妹はいずれ。
「・・・主がもうよいと言うてやらぬ限り、主の妹は消えるその時までここを離れぬであろうよ。」
―――そんな、ルーリア、可愛く愛おしい私の妹よ―――
雨龍はその瞳を潤ませ、歯を食いしばった。
「主は妹が呼びかけていることに、なかなか気づかなかった。嘆きが深すぎて耳に入らなかったのであろう。それを主が聞けるようになるまでに癒したのは誰であるか、主はわかるか」
雨龍は白虎の言葉に一瞬反応できなかった。
「主の妹と主を会わせた、清らかなる乙女。彼の娘が主を癒さねば、主の妹は世界に還ることのできぬままに消え去るところであった。それこそ未来永劫、その魂にも会えぬようになるところであったのだ。それを危うい所でとどめたのは・・・」
―――夜巫女―――
雨龍はそれに思い至り、白虎の周囲を漂う気配に意識を向けた。
―――何故その気配を纏う―――
雨龍の眼に剣呑な光が宿った。
「主に何の関係がある。主にとって、妹だけがその心に住まうのであろう。他はどうでもよいのであろう?何を気にする。」
白虎は嘲るように続ける。
「夜巫女は、我がもらう。主には消えゆく魂が寄り添ってくれるだろうよ。」
その瞬間。
ごうと音を立てて雨龍から凄まじい力が解き放たれた。
―――ならぬ!!!夜巫女はやらぬ!!彼の娘は私の傍で、私のためだけに―――!!!
あまりにも大きな奔流であった。
押し負けそうな、何もかもを淘汰しそうなそれに、ぐぅ、と唸り一歩後退した白虎はそれでも怒鳴り返した。
「何をいうか!!主の大切なものは妹だけなのであろう!!夜巫女は、どうでもよいのであろう!!このまま主は妹も、夜巫女も失うのだ!!永久にな!!」
―――失いなどしない!私は何も、もう何も失ったりなどするものか!!!ルーリア、ルーリア、私が悪かった。私のせいでお前は・・・夜巫女、頼む、もう私を独りにするのはやめてくれ、そなただけでも私の傍に―――!!!
それはもう魂の叫びと言っても過言ではなかった。
雨龍は身を切り裂くような声を上げ、大粒の涙を流しながら力を放出し続けた。
しかしそれは闇雲に放出をするだけであった。
白虎は体勢を整えると軽くそれをいなし、再び雨龍に近づいた。
「・・・それを、彼の娘に言ってやったらどうだ」
静かに諭すようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
「主には妹の他に大切なものができたのだ。妹が世界に還り、再び誕生し、そしてまた世界に還る・・・その時もずっと主の傍らに寄り添い、孤独を癒すものが。」
ふぅ、とため息をつき、やれやれと白虎は首を振った。
「夜巫女のもとに主を連れて行ってやろう。主の中の妹も、供に来ればよい」