弐
雨龍は嘆き疲れ、夜巫女の舞の音を聞きながらうつらうつらとまどろんでいた。
ふわふわとした暖かな空気が漂い、固く閉ざした彼の心を緩やかに解く。
ふと、頬を小さな手でぱちぱちと軽く叩くものがあった。
「あぅー」
雨龍は驚いて眼を開けた。
「うきゃあいぃーあぅ!」
にこにこと無邪気な笑を浮かべ、嬉しそうに雨龍の瞳を覗き込むそれは。
「ルーリア!!!」
かつて人であったころの彼の妹であった。
ふくふくとした頬には明るい色がさし、翠の眼には歓びが宿る。
雨龍は思わず手を出し抱きしめた。
そこで彼はふと我に返り、自分の身体を見下ろす。
かつての彼の姿であった。
幾分か歳をとり、少年であったころよりも背は伸び、腕も逞しくなっているが。
「うきゃ!!」
ルーリアは彼の頬をもみじのような手で楽しそうにひっぱり、歓声を上げている。
「ルーリア・・・」
雨龍はくしゃりと顔を歪ませ、大粒の涙を流した。
亡くした妹が腕の中で笑っている。
渇きと飢えで死んでいった、救うことのできなかった彼の愛おしい小さな命が。
ぎゅっと赤子を抱きしめ、もう離さぬと言わんばかりに自分の腕に囲い込んだ。
「うー・・・」
彼の腕の中が心地よいのか、赤子はうとうとと目を閉じる。
そしてそれに気づいた彼が、昔のように軽く背を叩きながら揺らしてやると、寝息を立て始めた。
暖かく柔らかなその身体に顔をうずめ、彼はむせび泣いた。
しゃらん!!
大きく響いた音に雨龍は眼を開けた。
見下ろす身体は龍のもの。
妹の姿はない。
だが、確かに彼の胸の奥には妹と触れ合った確かな記憶が植えつけられていた。
「・・・ルーリア・・・」
彼のつぶやく声が、静かに響いた。
それからというもの、夜巫女が舞を舞うと必ず彼の前には妹が現れるようになった。
ただ彼の前に現れ、彼を遊び相手とし、まどろみ、時に癇癪を起こす。
そして舞が終わるとともに消えていくのだ。
「あう!!あいーうぅえう!!」
妹はこんなに騒がしかっただろうか。
頬や髪をひっぱられながら彼はいつしかそんな事を考えるようになっていた。
苦しい死に方をし、その苦しみの中でさまよっていないだろうか、そう心配していたのであるが、彼の前に現れる妹は見るからに健康そうで苦しみ等無縁のもののようだ。
ふ、と笑みが溢れ、妹の髪をわしゃわしゃとかき乱す。
「やぃやぃやーーー」
ぺちりと手を叩き落された。
鳴り物の音に意識が浮上する。
しばし無言で先ほどまでの余韻に浸り、軽く息をついた。
つい、と視線を舞い終えた娘のほうに向ける。
いつもは先ほどの音でその姿も掻き消えるのであるが、今日は違うようであった。
「・・・・そなたの名はなんだ」
雨龍は初めて彼女にまともに話しかけた。
威嚇をしたことはあっても、言葉を交わしたことなどはなかった。
問われた娘は驚いたように眼を見開き、しばしぽかんとした後に慌てて居住まいをただし、応えた。
「名は、名はございません。ただ、夜巫女と呼ばれております」
夜巫女―――
雨龍は表情に出さずにわずかに動揺し、しかしその後で納得もした。
なるほど夜巫女なればこそ、彼と妹の逢瀬を可能にしたのだ。
夜巫女の父は夜。即ち死者をも司る。
その娘である彼女もそうなのであろうと検討をつけた。
「・・・そなたの舞で、愛おしい者に出会える。礼を言う」
雨龍はそっと瞳を閉じ、頭を伏せた。
もう涙は出なかった。
彼の心は、かつてないほど満たされていた。
「愛おしい者・・・」
夜巫女は覚醒し、寝台に横になったままそうつぶやいた。
あの美しい龍には思う者があるようだ。
あれほど嘆き苦しんでいたのに、日を追う事に彼が穏やかになっているのを感じていた。
もしかして、自分の舞が彼の心を癒しているのではと思っていた。
舞い上がっていたのだ。
あれほど威嚇をしていた龍が、時が経つ事に自分を受け入れてくれている気がした。
しかし、彼が穏やかになったのは。
決して自分の存在故ではない―――
自分の知らぬ龍の意識下でそのような逢瀬があったことなど、知らなかった。
「私ではなく、私の舞で会える愛おしい方に、あなた様は癒されておいでなのですね―――」
何か分からぬ胸の痛みが夜巫女を襲う。
じくじくとした痛みで視界が歪み、頬に熱い雫が伝う。
何故苦しく思うのだろう、彼の龍が心安らかならば、良いことであるのに―――
しばらくしても、夜巫女の頬が乾くことはなかった。