壱
深く沈み込む意識。
穏やかなる眠りの中に揺蕩う夜巫女は、何者かの嘆きを聞いた。
―――何が哀しいの?―――
彼女は自分が眠りの中にいると自覚しながらも、そう尋ねた。
―――何が恨めしいの?―――
嘆きの主からの応えはない。
夜巫女は広がる暗闇の中、声のする方にそっと足を踏み出した。
手を前にさまよわせ、声を頼りに一歩一歩近づく。
暗闇の中、ぼぅ、と浮かび上がる青銀。
山を囲めるほどの大きさの、美しい龍。
ぽたりぽたりと龍の目から透き通った涙がこぼれ落ち、食いしばった口元からは唸るような声が漏れている。
夜巫女はその光景に胸が疼くのを感じた。
そっともう一歩踏み出した。
―――私に近寄るな!!!―――
急に龍が夜巫女の方に頭をもたげ、そう威嚇する。
歯はむき出しになり、ぎらぎらとした鋭さを見せる。
夜巫女はびくり、と身体を強ばらせ、その場に留まった。
―――ここは私の領域だ。勝手に立ち入るな―――
再び龍から聞こえたのは、拒絶。
言うと龍は再び頭をさげ、ぐるぐると唸りながら涙を流す。
夜巫女はその場に立ち尽くしたまま、龍を見つめた。
拳を作った腕が震え、足も言うことを聞かない。
怖かった。
初めて敵意を向けられ、あまりのことに愕然とした。
立ち去ることもできずにただただ龍を見つめていた夜巫女は、嘆き悲しむ龍の姿に己の瞳からも涙が溢れるのを感じた。
何か、何かこの龍にしてやれることはないだろうか。
歯を食いしばり、瞳を開け虚空を見つめながら恨めしい、哀しい、と泣く龍に。
不甲斐ない己にできること。
夜巫女は涙をぬぐいもせずに龍を見据えた。
震えが止まり、足が自然と拍子をとり始める。
自分にできるのはこれだけだ。
神に捧げる、夜巫女の舞―――
とん、しゃらん、とん、しゃらん
龍の耳に、その音は突然入り込んだ。
とん、しゃらん、とん、しゃらん
思わず音の方に目線をやると、そこには。
先ほど己が威嚇した娘が足を打ち鳴らし優雅に舞う姿があった。
くるりと廻る度に娘の瞳から流れる涙が空中で玉を結び、音もなく弾ける。
光のない世界で、娘の髪はきらきらと輝いていた。
龍にはまるで、娘自体が光であるかのように見受けられた。
娘の一挙手一投足から目が離せない。
そのたおやかな指先が虚空をなぞり、静かな、しかし力強い足捌きは空気をたゆませ音を創りだす。
とん、しゃらん とん、しゃらん
娘の足についた飾りが涼しい音を出し、それに少しばかり陶酔する。
開いた目を閉じ、音に聞き入った。
緩やかな雨音のような、はたまた雪解けのような、繊細で、しかし歓びに満ちた音であった。
とん、しゃらん
その音を最後に、静寂が訪れた。
龍が再び目を開けると、そこには何者の姿もなかった。
ただ、音の反響がかすかに遠く響くだけであった。
目を覚ました夜巫女は、上体を起こすと頬を流れる涙をぬぐった。
「ゆめ・・・?」
美しい青銀の龍。
彼の瞳から流れる透明の涙。
それを見て感じた突き刺すような胸の痛み。
今も痛むかのように、夜巫女は胸を抑えた。
あまりにも苦しい夢だった。
夜巫女は寝台から降り、履物を履こうとして気がついた。
「・・・?」
足の裏に土と、きらきら光る青銀の薄いかけら。
夜巫女は急いでかけらをとると、そっと指の腹で撫でた。
「夢じゃ、ない」
毎日のようにその娘は彼の領域に現れた。
話しかけるでもなく、近寄るでもなく、ただ舞を舞うだけ。
そして舞が終われば、はじめからいなかったかのように掻き消える。
儚い音の余韻だけを残して。
今日も、雨龍は涙を流していた。
しかし、彼から唸り声は発されていない。
ぽたぽたと静かに涙だけが流れていた。
ちょうど雨雲を回収に来ていた白虎は、いつもと違う領域の様子に若干戸惑った。
ピリピリとした緊張感が緩和している。
しかし雨龍に近づいたならば容赦ない鉄槌が下されることは想像に難くない。
不思議に思いながらも彼は雨雲をいくつか回収し、運び始めた。
今日は仕事が早く片付きそうだ。
夜巫女に会いにいってやれる、そう思うと白虎はこの激務で疲れた心が癒されていくのを感じるのだ。
初めて夜巫女に会ったとき、彼女はまだほんの赤ん坊で、彼の姿を見て泣き出すかと思えば逆に彼に手を伸ばし、きゃっきゃと笑いかけた。
その時より白虎にとって夜巫女は可愛い妹のよう、主には悪いが娘のようにも思い、事あるごとに会いに行っては可愛がってきたのだ。
―――急ごう、きっとあの子が待っている―――
「御使い様!」
満面の笑みで白虎を出迎えた夜巫女は、白虎が尾で返事をするといそいそと白虎に駆け寄ってくる。
「今日はお早いのですね、とても嬉しいです」
既に舞を舞う準備はできている様子で、耳環と足首の飾りがしゃらしゃらと心地よい音を奏でた。
白虎は夜巫女に擦り寄ろうとしたが、ふと夜巫女から漂う変わった力の片鱗に足を止めた。
―――この力、まさか―――
白虎が止まったのを不思議そうに見た夜巫女は、あぁ、と何かに気がついたように自分の胸元に手を突っ込んだ。
白虎はぎょっと目を剥いたが、夜巫女はそこから小さな袋を取り出した。
袋の口を開けながら彼女は言う。
「夢で―――いえ、夢ではなかったのでした。どこかしらない場所に行ったのですが、そこで出会った龍の鱗です。目が覚めたときに足についていたのです」
手のひらに青銀の薄い鱗を乗せる。
日の光に反射してその鱗はきらりと輝き、白虎の瞳を刺激した。
目を瞑ってしまいそうなほどに眩い光であったが、白虎は瞬きもせずにそれを食い入るように見た。
汗なぞかかぬ彼であるが、一筋の汗が自分の背を流れ落ちるような錯覚に陥った。
―――やはり、いやまさか、そんなはずが―――
みるみる顔色(毛皮に包まれているため常人には判別ができない)をなくしていく白虎に、夜巫女は首をかしげた。
「御使い様・・・?」
おそるおそる話しかけるも、白虎には夜巫女の呼びかけが耳に入っていない様子であった。
―――しかし、あのギスギスした空間が和らいでいた理由は納得できる―――
白虎は目まぐるしく考えを巡らせながら、一つの結論に行き着いた。
―――まさか、夜巫女が、彼奴の―――
「御使い様!!!」
はっとなり夜巫女を見る。
「一体どうなされたと言うのです?ご気分が優れないのですか?」
心配そうに眉を下げ、そう尋ねる夜巫女。
白虎はそんな夜巫女の姿に胸に到来する迸りを感じた。
―――あぁ、なんと愛い・・・我の心配をしているのか!!まことに愛いやつだ。
彼奴には渡さぬ。この夜巫女はまだ我の庇護下に―――
もはや親馬鹿の域に達す白虎は迸りのままに夜巫女に飛びかかり、心ゆくまでその頬に自分の頭をこすりつけたのであった。




