零
しゃらん しゃらん
一歩足を踏み出す毎に、足首にかかる装飾が涼やかな音色を奏でる。
袖も丈も長いなめらかな白い絹の衣装には、金の刺繍糸で縫い付けられた古代文字が裾の方に広がっており、頭に飾られている簪も、見事な意匠の鳳凰が象られている。
耳飾は細く長く垂れ下がり、肩の上で軽やかに揺れる。
腕の振りに合わせて揺れる振袖の夕日を照り返し輝く様は筆舌に尽くし難い。
しゃらん
最後に一つ音を立て、歩みはとまった。
目下にはラフィエンデの町が広がり、濃い夕日の光の中でひっそりと夜の訪れを待っていた。
崖の上に設けられた祭壇には夜の神が祀られ、その前には地面よりも一段高く舞台が造られていた。
祭壇と舞台を取り囲むようにぽつぽつと松明が掲げられている。
夜を舞う巫女姫は、風にその輝く銀髪をなびかせ、光を閉じ込めたような金の瞳を閉じた。
白い肌に夕日の最後の光が一雫とろりと滑り落ち、濃紺の帳が顔をのぞかせたとき。
とん、しゃらん、とん、しゃらん
巫女姫は静かに舞い始めた。
足を軽やかに動かし、手は優美な弧を描き、それに合わせて装飾が音を出す。
楽の音はなく、ただただ彼女の出す音のみがその舞を彩る。
巫女姫に名はない。
生まれ落ちたそのときより夜の巫女姫になることを定められた彼女には、夜巫女という称号のほかに名はいらぬ。
朝、昼、夜、それぞれの神に仕える巫女姫は、その証を持って生まれ落ちる。
輝く銀の髪に、朝ならば紅の瞳、昼ならば翡翠の瞳、夜ならば金の瞳。
一代に一人しか生まれぬその証をもってして、彼女らの宿命は決められている。
当代の巫女は、夜巫女。
夜の神に愛でられし乙女である。
―――白銀の巫女姫、日毎神々に祈り、舞い奉り候。
巫女姫、是即ち神々の娘。
人在らざるもの也。
祈りを以て世に平安を齎し、舞を以て神々を癒し給う。
巫女姫、是即ち光。
巫女姫を手に入れし者、幸福に満ち溢れん。―――ラフィエンデ最古の石碑より―――
とん、しゃらん、とん、しゃらん
舞も佳境を迎え、巫女姫の動きが激しくなる。
その白い面が上気し、汗が玉を結ぶ。
とん、しゃらん!
一際大きな音がし、その後巫女姫はその場にひれ伏した。
心臓が激しく拍動し、汗が吹き出す。
倒れこみたいほどに疲れているであろうに、そのままじっと動かない。
荒くなった呼吸さえ咬み殺すようにぎゅっと歯を食いしばり、動こうとする身体を押さえつけた。
ガサ・・・
何かが動く音がした。
巫女姫は食いしばった口元を少し緩め、安堵のため息を一つ漏らした。
サク、サク・・・
足音が巫女姫に近づく。
サク・・・
それは巫女姫の前で止まり、そっと巫女姫の髪に触れた。
それが許しであったかのように巫女姫はゆっくりと面を上げた。
白に縞模様の入った毛皮に包まれた大きな身体。
そのがっしりとした足は地面を踏みしめ、美しい金の瞳は見透かすように巫女姫をひたと見据えている。
ゆらり、と揺れた尾は巫女姫の前に。
くぁ、と、鋭い歯の並ぶ口を大きく開け、現れた白虎は暖かく湿った舌で巫女姫の頬をひと舐めした。
頬が大きな舌の形に盛り上がり、少しざらりとした感触がくすぐったい。
くすくすと笑いながら巫女姫は白虎の毛並みをそっと撫でた。
「お父様はお元気ですか?御使い様」
彼女が父と呼ぶのは夜神。
この白虎は夜神の使いの中でも1,2を争うほど高位の賢獣であった。
白虎は返事をするようにゆらりと一度尾をゆらし、その場に寝そべった。
した、した、と音をたてて地面を尾で軽く叩く。
すると夜巫女は白虎に近づき、地面に腰をおろした。
「最近は滅多においでになりませんから、今日はおいでくださるかどうか不安に思いながら舞ってしまいました。お父様は今日の舞では満足されなかったのではないかしら」
優しくなぞるように白虎を撫でながら夜巫女は言った。
夜巫女は一人、この絶壁に立つ神殿にて暮らしていた。
大きな白い支柱が何本も建てられ、部屋は布で仕切られているその神殿は、輝く髪をもつ夜巫女にふさわしく夜になると幻想的に淡く発光する。
おかげで松明や燭台に火を灯さずともよい。
食料は神殿を取り囲む結界のすぐ外に、ラフィエンデの町の有志から定期的に捧げられる。
したがって、人との接触はほとんどない。
そのため夜巫女は白虎の訪れを心待ちにしていたのだ。
「御使い様が来てくださらなければ、私はひとりぼっちでここにいなければならないのですよ。あとは極たまに結界の外に出て、病気の方々を癒すくらいです。その時でさえ町の人は目も合わせてくれませんし。ただ祈りを捧げる私の前でひたすら頭を下げるのです。そして祈りが終われば供物を渡してすぐに町に帰ってしまう。とっても寂しい思いをしているのですよ。」
夜巫女は少し唇を尖らせて、白虎の尾を指先でくるくると弄びながらそう言った。
ぐるぅ
バツが悪そうに白虎は喉の奥で唸ると、頭をつい、とあげて夜巫女の頬を濡れた鼻先でつつく。
ゆるせ、と言っているようだ。
夜巫女もわかってはいる。
賢獣である白虎には父神の側でしなければならない仕事がある。
太陽が沈む前に星を空にちりばめ、月神を起こす。
そして父神とともに空を夜に染め、人々に安寧をもたらすのだ。
ちりばめる星は寿命がくると散りばめても流れ落ちてしまうため、その代わりとなる新しい星を再びそこに撒く。
毎日行われるこの仕事は、世界にとって必要不可欠のもの。
均衡を保つものであるのだ。
ただわかってはいても寂しいと思う気持ちは止められなかった。
そのため少し拗ねてみせたのだ。
しかし表情など浮かばないはずの白虎の顔が情けなく歪んでいるように見えて、思わず笑ってしまった。
「ふふ、冗談です、御使い様。いつもお忙しいのだもの。たまにでも顔をお見せしてくださることを喜んでおります。」
そう言って優しく耳元をくすぐった。
ぴるぴると耳を震わせ、白虎はうっとりと目を閉じる。
そこをくすぐられると弱い。
喉の奥で満足気なぐるぐるという音を立て、もっとというように夜巫女の手にその頭を押し付ける。
ひゅん
そんな和やかな雰囲気に水を差す音が聞こえた。
白虎は嫌そうに空を見上げ、ぐふっと不満気に鼻を鳴らした。
また一つ星が流れたのだ。
白虎は行かねばならない。
夜巫女は表情をわずかばかり曇らせたが、すぐに笑顔を浮かべて白虎を促した。
「御使い様、いってらっしゃいませ。また・・・来てくださいますね?」
ぶん、と尾をひと振りし、白虎は名残惜しげに夜巫女にすりよった。
しかし上体を低く屈ませると、だん、と反動をつけて一気に空に向かって飛び出した。
今日も星が流れる。
そして白虎によって新しい星が生まれる。
夜巫女は駆けていく後ろ姿をじっと見つめていた。
遥か空の上。
小さな星が群れをなし、地上からは星で白い大きな河ができているように見えるその場所で、一対の男女が白虎を見守る夜巫女の姿を見ていた。
真白いクーフィーヤに包まれ、黄金のイカールで留められた強靭な鋼の色を帯びながらも流れる様はまるで絹糸のようにさらさらとした髪、高い鼻梁に男らしい顎、猫のような金色の瞳は、しかしそれよりももっと夜を見通す輝きを放つ。引き締まった上半身を惜しげもなく晒し、クーフィーヤと同色の足首まであるシルワールを身につけている美丈夫然としたその男は星の上に片肘をついて寝そべっている。
その傍らには豪奢なヘッドティカをつけた足首まであろうかと思うほど長い白金の巻き毛を垂らし、目尻に向かって少したれている銀の瞳がなんとも言えぬ色気を放つ、透ける蒼いレヘンガを身につけた肉感的な美女が侍っていた。
「夜神様、あなた様の御子は寂しいようですわよ。ご覧なさいなあの哀しげな瞳を」
妖艶な響きが耳をくすぐる。
くつくつと声を出さずに唇の端を上げて、夜神と呼ばれた男は笑った。
「確かに哀しげではあるな。だからと言って今日のような気のない舞を舞われてはこちらのやる気も出ぬというものだ。罰として白虎がすぐに離れるように星をいくつか落としてやった」
「まぁ、呆れたお方。あなた様の可愛い娘でしょうに。」
「ふっ。可愛い娘だからこそ躾はきちんとせねばなるまい。そういうお前こそ白虎が出遅れるようにわざと寝坊をしたのであろう、月神」
美女―――月神は、ふっと口端を上げて笑い返した。
「白虎が私よりあの子を優先させたがるのがいけないのです。白虎は私だけを見ていればよいものを、あなた様が御子のためにたびたび遣わすから、私はいらぬことをしなければならないのですよ。近頃では御子と白虎の仲が睦まじくて・・・このままでは困ったことになってしまうやもと気を回したのです。白虎は私のもの。あなた様の賢獣である前に、私の愛しい夫となるものなのです」
月神の瞳が剣呑な光を帯びる。
夜神はやれやれと肩を竦めた。
「それは月神、お主が勝手に言っておるだけであろう。白虎は拒否しておる。いい加減諦めたらどうだ」
「白虎は恐れ多いと言っているだけで、私のことを厭うているわけではございませんもの。」
「あれだけ逃げ回って拒否されておきながらよくもまぁそんなことを言えるものだな。
まぁ安心するがよいよ。あやつは我が娘に手を出すことはすまい。まるで妹ができたように可愛がっておるだけだ。それに・・・娘の運命はあやつではないしな。」
夜神は少し遠くを見るような目でそう言った。
それを聞いた月神は目を瞬いて指先を口元に持っていった。
「まぁ、そうならそうと早く言ってくださればよいものを。心配して損をしましたわ」
「いらぬ気を回したのはお主であろうに・・・まぁよい、哀しげな娘を肴に一献どうだ?」
「うふふ、もちろんお付き合いいたしますわ」
「53番目の娘の夫が酒の精でな。よいものが手に入ったのだ」
「それは楽しみですこと」
話は変わるが、神々にはそれぞれ住まう領域がある。
夜の神の領域はそれは広く、その中の一つにそれはあった。
高くそびえ立つ峻険な岩山。
雲のひとつもかかっていないにもかかわらず、そこでは常に雨が降る。
時に唸るような声が響き、それにより大小の岩が崩れ落ちる。
そんな岩山をとりまくのは止まぬ怨嗟の念である。
―――水。水。
雨・・・
死んでしまった。
干からびて死んでしまった。
妹。
生まれたばかりの可愛い妹。
降らない雨に育たぬ作物。
水場を求め倒れていった仲間。
間に合わなかった。
ようやく見つけた水場から汲み上げた水は、行き場を失った。
神を呪い、世界を呪い、何よりも自分を呪った。
神が、世界が憎かった。
そして、誰よりも自分が憎かった。
神なぞ、世界なぞ、滅びればよい。
自分なぞ、塵芥のように解けて滅びてしまえ。
あぁ、妹よ。誰よりもお前を救いたかったのに。
最後に抱きしめた感触も、あの頃とは変わってしまった腕にまだ残っている。
あぁ、憎い、憎い、憎い。
哀しい―――
岩山の頂上付近にある洞穴の中で、それはいつまでも嘆き続けている。
つるりとした、蒼い光沢のある鱗に覆われた長く大きな身体。
手からは何者をも切り裂けそうな爪が生え、大きく裂けた口からはぎらりと光る牙がのぞく。
大きな鋭い光を放つ瞳からは、その荘厳な姿には似つかない大粒の涙がこぼれ落ちていた。
彼が人でなくなり、その姿になったときから涙は止まったことがない。
彼はかつて人であり、嘆きと恨みをもってその身を龍に変じた。
その時より、彼は手に入れた強大な力を見込んだ夜神に使いとして任ぜられ、しかしその任を一度たりとも受けずにここに引きこもっている。
白虎と変わらぬ、もしかすると超えるほどの力を内包した彼は、雨を司っていた。
彼が力を放出すれば雨雲が生まれる。
それを各地に飛ばすとそこで雨が降る。
しかし彼はずっと嘆き泣き続けているため、その力は少量ずつ周りに放出され、雨雲が少しずつ溜まっていく。
それを白虎が彼の代わりに時たま収集し、各地に運ぶのだった。
とん、しゃらん とん、しゃらん
岩山に涼やかな音色が響き渡った。
雨龍は涙を流したまま、唸り声だけを潜めた。
いつも決まった時間にこの音色が雨龍の耳に届く。
それを聞いているときは、不思議と彼の嘆きはほんの少しだけ収まるのだ。
とん、しゃらん とん、しゃらん
ぽた、ぽた、と地面に落ちる彼の涙と同時に音も鳴る。
彼は開いた瞳をそっと閉じ、流れる涙もそのままにその音色に耳を傾けた。
その音は、まるで母が産まれたばかりの妹の背中を軽くとんとんと叩いていた音を彷彿とさせた。