6 警鐘(2)
ほどなくして、バルコニーに出る。おとなの男二人組はたいそう重い。すごく重かった。腕が痺れて血の気がない。
バルコニーから階下をながめる。思わず「わお」と声をあげた。
そこには避難した人々が、もっといえば加えて野次馬が集まっている。危ないから下がれと騎士たちが誘導しているが、混雑していることに変わりはない。
ふと、太陽の下できらっきらした髪を見つける。父だ。見間違うはずもない。きっとそばに家族大集合していることだろう。
おそらくあとで叱られるのだろうが、今は気にしている場合ではない。
ヴィーはいったん部屋に戻り、カーテンを思い切り引っ張った。全体重をかけ、死ぬ気で引っ張る。ブチッと音がして、勢いよく尻餅をついたものの、なんとかカーテンという頑丈な布を手に入れた。
再度バルコニーへ出る。
転がっている犯人をカーテンに括りつけ、落ちないように何度も結ぶ。
ふと、外の野次馬が「はやく!」とか「危ないわっ」と騒ぐ声が聞こえた。きっと大火事でヴィーたちが逃げ遅れたものと勘違いしているのだろう。
ふたりめもカーテンに縛りつけたところで、どうやら野次馬が急かしている目的はちがうらしいと気づく。
野次馬のなかから、若くして宰相として抜擢された王の片腕、クリスの珍しくあわてた声がしたのだ。
(なんで、そんなに必死なのかしら)
「はやくお逃げ下さい、姫!」
「煙に――が……」
(だめだ、集中しちゃうと聴こえない)
ヴィーは再び作業に没頭する。とりあえずバルコニーの手すりにカーテンを巻きつけ、ゆっくりとその布を伝うように転がし、落とした。
訓練を積んだ騎士らが下で待機しているのを先ほど確認していたから、きっとクッションかなにかで受け止めてくれただろう。
残るひとりもさっさと片付けようとしたところで、轟く声が聞こえた。
「姫、その場から直ちにお離れください」
ふい、と顔をあげる。群衆のなかでひときわ目立つ父王の隣に、彼の第一騎士であり右腕であるランスロットの姿が見えた。先ほど叫んだのは彼だろう。若き頃より騎士を統率していた彼の声は、本気になればだれより響く。
そしてついでに、ヴィーは父王の鬼気迫る顔と、「あのおてんば娘が!」という怒気のはらんだ声を聞いた。聞きたくなかった。
それにしても、皆はまるでヴィーが鈍いとでもいうように急かしてくる。実際周りから見ればひどくのんびりな行動なのだろうが、気絶したふたりを置いて自分だけ先に逃げるのも効率が悪いし、第一焦って手元でも狂えばそれこそ作業が遅くなる。
変なところで肝が据わっているのは、海賊と過ごした日々のおかげであろうか。
逃げ惑っていたはずの人々がこんなところに集合しているのも変だし、自分以外の人間が顔を青くして急かしているのも奇妙なことだ。
(まあ、いいや。はやく逃げよう……)
ふと、足元を見る。部屋を振り返る。
もくもく上がる煙が迫ってきた。先ほどよりもひどい。焦る気持ちもわかる。
けれどそれよりヴィーを青くした事実がある――布が、ない。
そもそも、ヴィーの行っていた支え役がないのにどうやって降りるというのか? 飛び降りれとでも?
ぐっと顔を出して、覗き込む。高い。
下で垂れ幕らしきものを構えている騎士らが目に入るが、そんな薄っぺらい布でクッション代わりになるはずもない。痛いのはいやだと、先ほど無情にも転がした二人組のことを棚に上げてヴィーは首を振る。
ふと近くに立つ木が目に入る。手を伸ばせばギリギリ届く距離だ。これを伝って降りようか。
「姉上!」
弟の声がした。刹那、ビュッと風を切り裂き、矢が壁に突き刺さる。振り返ると、その矢先に太い縄が括りつけられていた。
急いで矢をはずし、縄をバルコニーの手すりに結ぼうとするが、縄は太く、思うようにいかない。
チ、と舌打ちしたくなったが、そうも言っていられない。
するともう一度自分を呼ぶ声がした。再び勢いよく弓矢が飛んでくる。一本はバスコニーに、もう一本は近場の木に。どちらにも同じ縄が括りつけられている。まるで綱渡りの綱ができあがり。
ごくり、と生唾を呑み込む。
バルコニーに突き刺さった弓矢を力いっぱい引くが、先ほどとはちがいびくともしない。
先のも今のも、おそらく妹の弓矢だろう。ミルは小さいころから身体が弱く、頭はいいが武術には向いていない。一方フェリは、女ながらに剣術も得意とする凄まじく天才肌の才女である。五つも年下の妹であるが、ヴィーはときどき彼女が年上の兄ではないかと錯覚するのだ。それならどんなに頼りになることか。
ヴィーはええいままよ、とはじめにもらった縄を渡り縄に遠し、短くもって木に向かって飛び降りた。
ぎしりと音はしたものの、フェリの弓矢は抜けることがない。ちょうど木にはバルコニーより低めの位置で縄が設置されている。おそらくニコの蜜というぬめった塗料を縄に塗っていたのだろう。重力と滑りによって、意外にはやく木までたどり着いた。
ちょうどヴィーが木に到着するかしないかということろで、今度はすかさずナイフが数本木に刺さる。それを手や足場の支えにし、ヴィーはゆっくりと降りていった。
下では救助の人々が励ましてくれているようだ。照れくさいな、と思ったのがいけなかったのか。
足を踏み外し、身体はずるりと傾ぐ。
人々の悲鳴をどこか遠くに聞きながら、ヴィーは自分が落ちるのだと悟った。
それほど高くはないものの、受け身も取れぬままでは怪我をするだろう。ぎゅっと肩を縮め、目を瞑ったが――しかし次の瞬間、ぐいとなにかに引っ張られて止まった。
恐る恐る目をあける。ぎょっとした城の人々の顔。口をあけ目をぱっちり見開き唖然とする者、悲鳴をあげて顔を覆っている者、様々だ。目線からして、地面との距離は己の身長くらいあるらしい。
「ドレスって、無駄な生地が多くてよかったね」
ふいに感情起伏のない声がする。フェリが弓矢を傍らに携え、どこか誇らしげに頷いた。
つづいて、今度は焦って恐縮しきった声がする。
「王女殿下っ! 申し訳ございません!」
走ってきたのは弟の専属騎士であるルイーズだ。ランスロットを父親にもち、女ながらに剣の腕前はおとなが舌を巻くほどで、フェリよりも優れている。父親譲りの黒髪は短く首筋で切りそろえられ、茜色の瞳は鋭く、冷たい印象を抱かせる。しかし切れ長の眼は魅惑的で、耳に見える青の耳飾りが動くたびにキラリと光り、その端正な顔立ちからファンも多いと聞く。
見た目に反して面倒見がよく、すこし天然な彼女は、今回も例外なくおろおろしつつ、さっさとヴィーを木から下ろしてくれた。
状況はややあって把握できた。
ヴィーが足元を狂わせずり落ちた直後――ふたりの行動ははやかった。ためらいなく姉に向かって三本の矢を放つフェリ、戸惑いなど忘れただ一直線にナイフを投げる女騎士ルイーズ。ふたりの放った刃は狙ったように――実際狙ったのだろうが――ヴィーの煤汚れたドレスに突き刺さり、まるで磔のごとく木の幹に縫い付けられたのであった。
ヴィーはため息を呑み込む。フェリとルイーズだからできた方法だ。もしふたりの息が合わなければヴィーはどちらかの刃に貫かれていただろうし、そもそもちょっぴりでもズレていれば今頃天国をさ迷っているだろう。落ちるよりも助けられたほうがあの世逝きの確率が高いのではないかと思わなくもなかったが、ふたりだからこそ大丈夫だったのであろうとヴィーは悶々とする思考を止めた。
ひとまずお礼を言うことにする。
「ありがとう。おかげで助かったわ」
ふと視界が悪いことを思い出し、不格好なゴーグルを外す。気づかなかったが、奇妙な格好をしていたに違いない。
「本当に、とっさだったとはいえ……あなたさまに刃物を向けるなど、騎士としてあるまじき行為です……」
「そんなことを言わないで。はじめ木にナイフを寄越してくれたのもあなたでしょう? おかげで支えられたわ」
「お、恐れ多いお言葉です……」
いまだに顔を青くして恐縮しきるルイーズの、どこを責められようか。結果的に助かったのだ、問題はない。
「そうだよルイーズ。気にすることはないよ。今の姉上の顔をみて笑いもせず狙いがブレないだなんて、それだけですごいことなんだから」
いつの間にかミルがいた。ルイーズににっこり笑ってそう言うが、聞き捨てならない。
「どれ、どういう意味よ」
「鏡で見るといい、バカ娘」
頬を膨らませたヴィーの背後から、恐ろしいほど低い声がした。思わずびくりと縮みあがるヴィーの肩をつかみ、無理矢理振り向かせる声の主。
「……お父、さま……」
首を傾け、「ごきげんよう」とあいさつしそうな勢いでほほえむ。親にはなかなか見せない、最上級の笑みだ。しかし一瞬黙り込んだものの、父にこの手は通用しないらしい。
ふと目を走らせると、野次馬だった人々は今度こそ騎士らに先導され散っていた。
眉間にしわを刻んだまま、父王アルティニオスはのたまっった。
「どうして、はやく逃げてこなかった……いや、そもそも、どうして逃げなかった?」
きょとんとするヴィーに、後ろからやってきた母が言葉を付け加える。
「みんなは逆方向から逃げたのに、こちら側に出るということは『煙の多い火事のあった部屋』に足を進めたということよ? つまりあなたは逃げずにわざと炎の奥まできたと……そういうことよね?」
「で、でもっ……火事にしては、煙がおかしくて――」
「お黙りなさい。危険なことに変わりはないでしょう」
母のなにも言わせぬ笑みに、ヴィーは目を落とす。
言い訳の仕様もない。両親は心配の気持ちからきつく言っているのだ。
ヴィーはしょんぼりと肩を落とす。
「……ごめんなさい……」
けれど、どうして皆はヴィーたちの出てくるところを発見できたのだろう?
「クリスのもとに連絡が入ったのだ」
ヴィーの心が読めたのか、父王はため息まじりに言った。
「『第一王女が犯行グループの男たちがいる現場に向かっている。煙は催涙効果があるが大量に吸い込むと害が出る可能性がある。また男たちは猛毒を塗ったナイフと未知の武器を所持。かすりでもすれば一発であの世逝き』……らしいぞ。まさか先に転がしたふたりがその犯人とは思わなかったがな」
連絡内容を丸々暗記したのだろうか、やはり父は凄まじい。すでに二人組も犯人と認め捕えたのだろうと感心しつつ、どきりと胸が鳴る。あのときナイフに触れなくてよかっただとか、そういう考えは浮かばなかった。
ただ、緊張した。
「その連絡を……情報をくれた人って……」
声はかすかに震えた。無意識に胸元のペンダントを握る。
父はスッと冷たく目を細めたあと、忌々しげに言い放つ。
「貴様が知る必要はない」
踵を返し、いつの間にか傍に控えていた騎士ランスロットを引き連れアルティニオスはその場をあとにした。
「傷の手当てをはやくなさい。薬はバグジュの草を使うといいわ。父さまは……自分がふがいなくて気が立っているだけよ」
母がぽん、とヴィーの頭にのせてやさしく言った。
「城への侵入を許し、あなたを危険にさらして自分に腹を立てているのだわ。けれど、もう二度と危険なことはしないでね?」
「はい……」
「ではしばらく部屋でおとなしくなさい。ルイーズ、先ほどはすばらしい働きをしてくれました。お礼を言います。あなたのお父上もさぞかし誇らしいでしょう。報告のついでに、医務室までこの子を連れて行ってちょうだい」
「はっ」
「それからミルはお父さまの指示に従いなさい。きっとなにか仕事をくれるわ。それからフェリ、あなたもよくやったわね。機転の利かし方も弓矢の技術も一流の武人と並べるわ。ルイーズと息の合ったさばきが見事でした」
「うん」
母に頭をなでられ、フェリは動物のように目を細め、軽く口端をあげた。
「さて、みんな各自に己の仕事を探しなさい。わたくしは陛下のもとへ行くわ――ああ、ヴィー」
再度呼ばれ、振り返る。泣きそうな顔の娘に苦笑したあと、王妃ステラティーナは飛び切りのほほえみを見せた。
「悪事を働いた人間であっても助けるということは誇らしいことです。胸を張りなさい。その点は陛下も感謝していますよ」
「はい」
先ほどより幾分はっきりした声でヴィーは応えた。
おそらくあの二人組は厳しく尋問されるだろう。そうして敵の正体をあぶり出す。
(あたしは、すこしでも役に立てたかな……)
ふいにヴィーは、自嘲的に首を振った。
(父さまに叱られても、母さまに諭されても、どんなに褒められたって……)
医務室に向かう途中、気づかれぬようにため息をつく。
(『彼』の存在が匂わされれば、あたしはどんなことでも、どうでもよくなってしまうんだ)
愚かなことだと、そう思う。
(ああ、本当に――)