4 回想
「いやよ!」
サロメが怯えるのも構わず、ヴィーは声を荒らげた。
「舞踏会ですって? どうせ、婚約発表会になるんだわ! そんな見え見えの魂胆にのってやるものですか!」
三日後に舞踏会を開くと唐突に教えられた。目をまん丸くするヴィーに知らせを持ってきたサロメも困惑の表情を隠せず目をさ迷わせる。彼女も先ほど聞かされたらしいが、招待状を配ったり、会場を用意したり、当日の予定を調整したりするはずだから、いきなり三日後の舞踏会が決まるわけはない。
おそらく前もって舞踏会は予定しており、ヴィーが嫌がるのを阻止するためにわざわざ三日前に知らせがくるよう仕向けたのであろう。余念がない。
「ちょっと出かけてくる!」
鼻息荒くいきり立つヴィー。とても大国の第一王女には見えないが、今はそれを咎める人間は幸か不幸かいない。
ヴィーは他人の前できちんと猫をかぶるようにしているのだから、叱られることもないのだが。
猫かぶりをしはじめたそもそもの理由は、ヴィーにはじめてついた侍女たちとの関係からだった。はじめての侍女にヴィーはわくわくし、友人のように接したが、彼女たちの目は冷ややかだった。『王家のくせに』、『なんて粗野なのかしら』、『あんなのに仕えたくないわ』――目は口よりものを言う。幼少から『極秘事項』にて箝口令が敷かれ『深窓の姫君』扱いだったヴィーに侍女たちはあこがれていたのかもしれない。姫君らしくないヴィーは実に期待外れで失望も大きかったのだろう。
なぜ彼女がこんなにも姫らしくないのかと言えば、それはひたに、彼女の幼少時の体験が原因であろう。『極秘事項』の理由もこれにあたる。
幼い時分、ヴィーは王宮から離れ海賊のもとに預けられていた。これは『極秘事項』で、両親や重役以外は知らない。離宮で隔離されていたことになっている。
ヴィーは生まれたときから刺客に狙われていたが、その理由はたくさんある。政治的利用ができない女を后に娶ったことへの暴動、冷酷と渾名す王の脅威から、王の皇太子時代から反感を持つ者の残党、側室を娶らせるため……などなど。
第一王子であるミルが狙われるのが定石であるが、王は次期継承権を継ぐ者を意図して決めておらず、またミル自身がいつでも病で亡くなりそうなほど貧弱であったためか、彼への暗殺の手はないに等しかった。他に男児はおらず、第一子がいちばん王位に近く、刺客に狙われやすい状況というわけである。
そういうわけで矢面に立ったヴィー。優秀な王の側近たちにより暗殺は未然に防がれていたが、しかし実にしつこい刺客がいた。
五歳の誕生日、祝いの席でケーキを口にしたヴィーは、突如襲う嘔吐と発熱、身体中の激痛に苦しみ、倒れた。死の淵を彷徨いつづけ三日三晩、母の献身な看病もあってか、ヴィーは目を醒ました。
ここまで刺客が場内に入り込み手を下したのははじめてのことで、父王は激怒しその手腕を惜しみなく発揮、影の者を遣い犯人を追いつめたものの、あと一歩のところで自害された。
それから度々ヴィーの食事に毒が盛られたり、外で遊べば矢を射かけられたり、心休まる時がなくなり、過度のストレスで熱を出すようになる。
一年後、ついにその日が来た。
その日は朝から慌ただしい日であった。
蒼白な母の顔。父の怒鳴る声。騎士たちの足音、金属の鳴り響く音……
「姫、どうぞ泣かないでください」
「なにも心配することはございませんわ。大丈夫です!」
母付きの侍女らが必死に慰めてくれるが、ヴィーは静かに泣きつづける。
心臓が激しく唸り、身体を食い破るかのごとく不安をあおる。胸騒ぎととでもいうのだろうか、ヴィーは不安に押しつぶされそうだった。
こども心に、嫌な予感をしていたのだろう。そしてそれは、少なからず当たっていた――
翌日、ヴィーは両親と離され、ひとり海賊に預けられることとなった。
「へえ、こいつが王さまの娘かぁ!」
「林檎食べるかい?」
大柄ないかつい男に、前歯の欠けた男が笑いながらヴィーを出迎える。
はじめこそか弱いヴィーである。当時はまだ深窓の姫君であり、海賊たちの人相の悪さに怯え、ヴィーは目にいっぱいの涙をためた。
「こんにちは」
と、泣くかに思われた瞬間、頭にあたたかいぬくもりが置かれる。ぱちくりとまばたきして目をあければ、そこには亜麻色の髪をしたきれいな女性がいた。母よりすこし年上だろうか。背後では先ほどまでヴィーに迫っていた男たちがひとりの男に無言でしばかれ悲鳴をあげている。
どうやらヴィーを怯えさせた罪らしい。「船長、後生ですから!」と涙ながらに顔を引きつらせている面々をヴィーは遠い目で見やった。
「怖がらせてごめんなさい。けれど、彼らに悪気はなかったのよ。あなたを歓迎していたの」
にっこりと笑う彼女にヴィーはほっと安堵の息をつく。
「なにかあったらすぐに言ってね」
「そうだよ。僕をお父さんだと思っていいからね」
女性の背後から、今度は柔らかい笑みを浮かべた男が出てきた。先ほど海賊たちをしばいていた張本人だ。
ヴィーは、たちまち目を見開く。
明るい茶色の髪に、藍色の瞳。片目には黒い眼帯がなされている。
なによりヴィーの眼を惹いたのは、その男のもつ雰囲気だ。やさしい笑顔に、柔らかい雰囲気。先ほどまでの海賊とは似ても似つかない、どちらかといえば母のような穏やかさがにじみ出ている。
「僕はウィル。このモーガシアン海賊団の船長だよ」
この人が船長なら、きっと不安もないのだろうと自然と思わせる。ヴィーはゆっくりと、頬を緩めた。
海賊たちは怖い面構えをしているものの、中身は愉快なオジサンたちだらけだ。加えて、ウィルと名乗った船長はどこぞの王子さまよりも王子さまらしいし、その奥さんのドロテアは歌も上手く、王宮の楽師よりも音楽には詳しかった。さらに、船長にはヴィーよりみっつ年上のひとり息子がいて、彼はたとえ一国の王女であろうが臆せず物を言うので、ヴィーもあけっぴろげに付き合えた。次第に海賊たちとも打ち解け、海賊船の人間は身構えなくてもいいもうひとつの家族となった。
そのきっかけをつくってくれたひとり息子こそ、件の男ハノンである。黙っていれば父親譲りの上品さを持っているのに、母親譲りの透き通ったきれいな声で出てきた言葉は初対面から罵声だった。当時は知らなかったが、同世代の女の子に対する照れ隠しだったらしい。理解できないが。
海賊船で過ごした三年は、ヴィーにとってかけがえのない日々だった。
しかし平民の、それも海賊たちと暮らすということは、当然のごとく王宮作法は習うことが叶わず……といいたいところだが、なぜか海賊船長がその道に詳しかったのでめっちり仕込まれ、護身術まで習わされた。
このようにどこへ出しても恥ずかしくない一通りの教養は身についたものの、普段は海賊の荒くれ者と馬鹿騒ぎをしていたため、ヴィーは『しとやかさ』を海に捨ててきた。よって『深窓の姫君』はなりを潜め、後になって『おしとやかなお姫さま』を演じ『普段のヴィー』を隠さねばならないことになったわけである。
余談であるが、これには父王は目をまん丸くし、麗しの海賊船長は涙ながらに謝罪したらしい。対して、王妃と船長の妻はどちらも「たくましいわね」とほほえみ、まったく気にしていなかったとか……女はどこでもしたたかである。
あっという間に過ぎた月日。いろいろなことがあった。楽しいときも、そして寂しいときも。
もちろん、両親とは毎日顔を合わせることはできなかったものの、父も母もそれぞれ時間を見つけて彼女のもとを訪れていたので――今になって思えば、王とその妃がそろって数人の護衛だけを供に城下をうろちょろするなど相当なことなのだが――愛されている、という自覚はあった。
寂しい夜もあったけれど、同時にそんな気持ちなど吹き飛ばせるくらい楽しい日々がある。両親は自分をたくさん愛してくれる。周りにはたくさんよくしてくれる人々がいる。
それでも、無性に寂しくなる夜は必ずある。
だから時々、甲板に出て夜の海をこっそりながめる。母のこと、父のこと、城の人々……そして、彼のこと。
ワインレッドと琥珀色の瞳を細め、にっこり嗤う、彼のこと――
「呼びまシた?」
ぱちくりと、目をまたたく。目の前に、思い描いた笑みがあった。
どうしてこんなところにいるのか、そもそも海の上の船へどうやって乗れたのか、いつの間にいたのか――幾つもの疑問が頭をもたげたが、すべては一瞬で消えた。
幻ではない本物の彼に、ヴィーは声も出せずにただ見つめる。
「泣かないでくだサイ」
冷たい体温の指先で、そっと目元をぬぐわれ、ヴィーははじめて己が泣いていたことに気がついた。
思わず、その手を両手で握りしめる。
声もなく、泣いた。
「ああ、間違えまシタ」
彼の困ったような気配がする。
ぼろぼろの顔で見上げれば、彼は首を傾げてやさしく言った。
「思いっきり、泣いていいデスよ」
彼の腕にすがりつくように抱きつき、ヴィーは大声で泣いた。涙と鼻水でぐしょぐしょになっても気にせず泣いた。
目が覚めると、船に用意された自分の部屋だった。二段ベッドの上からはハノンの寝息が聞こえてくる。
もう一度めをつむり、ヴィーは昨夜の夢のような、けれど決して夢ではない現実を思い返し、ひとり笑みを浮かべる。
『ほら、また我慢しないで。思いっきり泣いてイイですよ~』
間延びした奇妙なイントネーションの喋り方。
『まったく、お転婆姫は泣き虫デスねぇー』
ふと、妙な間のあとで彼はつぶやく。
『もしかしテ、寂しい……デスか……?』
こくりとヴィーが頷いたあと、彼はしばらく無言だった。
ただただ、彼の身体にしがみついて、泣いて、たまった寂しさを涙で流す。
『ソウか、サミシイ、のか……』
『ヴィー、もう、泣かなくてイイよ』
『ワタシが、きっと――』
それからしばらくして、ヴィーは王宮に戻れることになった。