3 困惑
「姉上」
無意識に目をきつくつむっていたから気づかなかった。聴こえた声に目をあければ、影が落ちている。顔をあげれば、そこには見知った顔。
「ミル……」
「リオルネが心配していたよ。いきなりいなくなるから……」
そういえば、去り際の挨拶もなしに父のもとへ文句を言いに走り去った記憶がある。ハッと口元を抑えると、ミルは呆れ顔で「もうリオルネは帰ったよ」と告げた。
ミルことミハルアディス・ヴェニカ・ド・カスパルニアは、ヴィーの三つ下の弟で、カスパルニアの第一王子である。父親譲りの明るい青色の瞳に、母親譲りのふわりとした赤毛をしている。華奢な身体付きも血の気のない白い肌も儚げで、周囲からは『天使の申し子』と言われるほどだ。たしかに、我が弟ながら彼の容姿は完璧だとヴィーは思う。まったく周りは美形だらけでいやになるのだとひそかに愚痴る。
ただし、心無い者はどこにでも存在し、『第一王子ミハルアディスは軟弱だ』とか『頭も身体もお粗末だ』などと影で悪態をつく輩もいる。
「行くよ」
言うなり、ミルは腕をつかみ、ヴィーが引っ張られるのも構わず歩き出す。
「ちょっと! もうっ……あ、またね、デオ!」
ぐいぐい引きづられながら、手を振りかえしてくれるデオに笑いかける。
庭園を出たところで急にミルは足をとめた。いきなり歩き出したかと思えば、いきなり止まる強引さにヴィーは顔をしかめる。
「ミル? いったいどういうつもり……」
「婚約、したって……聞いたから……」
「っ、してない!」
思わず声を荒げる。
すでに弟の耳にまで届いているとは。この調子では、きっと夜には城中に広まっていることだろう。
悶々とうなだれていると、こちらを見ないままミルはつづける。
「姉上は……嫁ぎたいの?」
それは、暗にこの城を出たいのか、と問うている。
ヴィーはため息を呑み込んで、弟の肩をつかんでこちらへ振り向かせた。
「あたしの話、聞いてた? 婚約はしていないの」
「でも……フェリが父上から聞いたって……」
「なんだ、あのこから聞いたのね。道理で情報がはやいわけだわ」
相変わらず視線を合わせない弟に肩をすくめて、ヴィーはぼやく。今度は顔を両の手で挟み、無理矢理こちらを向かせた。
「それは父さまが勝手に言っていることよ。あたしは承諾していないのっ! それとも、アンタはあたしが出て行けばいいと思っているの?」
「そんなわけないっ!」
思いのほか大きな声で言われ、強い力で手を掴まれ、ヴィーは内心びっくりした。
成長期とは恐ろしいもので、去年まで頭一つ小さかった弟の背丈はヴィーとほぼ同じくらいだ。きっと来年には見下ろされているのだろうなぁ、なんてことを頭の隅で考えつつ、心持ち一歩下がる。するとミルは一歩前に出てきたものだから、距離は詰まったままだ。
「でも、僕は姉上の気持ちを知っているから……だから!」
弟の、きれいな瞳を見つめる。その瞳のなかに、父と同じ青の色を見て、唇を噛んだ。
「……姉上は……ネイのこと、好きでしょ……」
ヴィーは、目を見開いた。
(う、そ)
ひた隠しにしてきたのに。なぜ、知っているの。
ヴィーには取り繕うことができなかった。動揺をにじませた表情をすぐに変えることもできず、見るからに狼狽える。
ミルは視線を下げ、静かに言う。
「知ってたよ。ずぅっと、前から」
再度視線を上げ、今度はまっすぐにこちらを見て。
「きっと……姉上が気持ちに気づく、ずっと前から」
――いつからだろう。『彼』がずっと傍にいる記憶しかないけれど。
――道化師のように笑う彼。それでもよかった。
――大切だった。大切な思い出にはいつも『彼』がいたのだから……。
「姉上!」
ハッと我に返る。目の前には、心配して顔を蒼白にさせる弟の顔。
ヴィーは頭を振り、ゆっくりとまばたきした。
「だい、じょうぶ、よ……それに――」
唇を湿らせ、カラカラになった喉など気づかぬふりで押し通す。わざと頬を膨らませ、口を尖らせた。
「それに、お馬鹿さんね。わたくしがネイを、好きなはずないじゃない」
眉間にしわを刻むみっつ下の弟に苦笑し、ヴィーはその柔らかい頬を抓る。
「いい加減にしなさい。とにもかくにも、わたくしは――あたしは、結婚なんてしない……いい? わかった?」
姉の眼が真剣なのを悟り、しぶしぶとミルは引き下がった。
***
『彼』がだれなのかわからない。ハッキリとわかる者など、果たしているのだろうか?
ヴィーのそばには気づけばいつも彼がいた。
幼いころ、皆が寝静まった夜。バルコニーからトントンと音が鳴る、それが合図。
彼はいつも、眠れぬヴィーに唄物語を聴かせてくれた。
朝目覚めると、いつの間にかベッドの上。まるで夢だったみたい。
そのうち、弟も一緒に彼からおとぎ話をせがむようになる。相変わらずニコニコと笑った彼は、二つ返事で承諾した。
彼には名前がいくつもあるらしい。らしいというのは、母から聞いたからだ。
まだヴィーが舌足らずだったころ、彼の名前が言えずにおかしな発音をしていたようだ。しかし幾度か繰り返せば完璧に言えるようになる。その度に、彼は何度も名前を変えた。
聞いた奇行に目を見開けば、母は苦笑し、「けれどあの人はずっと昔から幾つも名前があるみたいよ」と教えてくれた。
彼の名前が定着したのは、いつだったか正確には覚えていない。けれど、ヴィーにはなぜ彼が名前を変えなくなったのか目途はついている。
ヴィーが唯一、覚えられない名前だったから。曰く、長すぎる。
だから彼は随分とその名が気に入ったようで、ヴィーが呼べずにいる度に嬉しそうに笑う。
けれど彼は知らないだろう。
ヴィーが、わざと言えないフリをしていたということに。
そのうちヴィーは、彼の名前が長すぎて忘れたという理由をつけて、一生呼べない理由にした。
代わりに、彼の正式な名前ではないけれど、通称で呼ぶことで己の欲を満たしていた。
涙でぐしゃぐしゃの顔は、よほど汚かったに違いない。目からも鼻からも、顔から出る液体はすべて出して泣きじゃくっていた幼いヴィーに、彼は目をぱっちりと見開き、狼狽えていた。
しかし次の瞬間、ぽんぽん、と頭をなでられ、ヴィーは思わず泣き止んだ。彼が触れてくれるなど、めったなこと以外ありはしない。
「……泣かないでくだサイ」
困ったように笑う表情も、はじめて見る。つい、と視線をあげれば、ヴィーをなでる彼の指は細かに震えていた。
「だっ、だって……っ」
しゃくりあげるヴィーに、彼は目を泳がせる。それでも、頭上の手は離れない。
ぼろり、とヴィーの目から大粒の雫がこぼれた。
先ほどまでとはちがう涙だ。ヴィーにはよくわかっていた。
これは、うれしいのだ。
頭上で狼狽える気配がする。
大声で、ヴィーは当初の泣きわめいていた理由を口にした。
数時間後、見事にヴィーの悩みは解決された。まるで魔法のように。
「あのねっ、ミルが苦しそうなの! お願い、助けて」
幼いころは今よりもっと身体の弱かった弟は、その日もゴホゴホ咳をして苦しそうに発作が治まるのを待っていた。久しぶりに外できょうだいと遊んでいたせいだろう、呼吸は落ち着かずなかなか治らない。
そこで『彼』に『お願い』する。すると、どうだろう。
彼が指をひと振りした瞬間、ミルの呼吸は落ち着いたものに変わり、血の気の失せた顔は赤らみを取り戻していた。
こんなこともあった。
「あのね、フェリが迷子なの! 隠れて遊んでて、いなくなっちゃったの!」
妹は年の割に落ち着いたこどもであったが、暗がりが大の苦手で、日が沈むとだれかと一緒にいないと動けない癖があった。その日、ヴィーはきょうだいとかくれんぼをしていたが、フェリだけが見つからず、とうとう夕闇が迫る時刻になってしまった。
そこで『彼』に『お願い』する。すると、どうだろう。
彼がぴたりと指を刺した物陰にいたフェリ。震える少女に光を灯し慰めてくれた。
そして、こんなことも。
まだ幼いフェリは必然的に母親を独り占め。ミルは身体は弱いものの男児だからと父と剣の稽古。
そして、ヴィーはひとり。
侍女も家庭教師もいるけれど、でも、心のなかはひとりだ。
あまえ方を知らぬというより苦手としている彼女は、ぽーっとしながら《王族の庭》で夕日をながめていた。
無意識に涙がこぼれる。何度も何度もぬぐっても次から次へと流れてくる。
声を出して泣いたヴィー。
ややして、ふ、と頭にあたたかい感触があった。
きょとりとして顔をあげる。ワインレッドと琥珀色のオッドアイがこちらをのぞいている。やさしげで、大好きだった。
「泣いていたの、デスか?」
彼は一瞬戸惑ったように揺れ、しかし笑みを絶やさず問いかけてきた。
ヴィーはこくりと頷く。
「でも、もう平気。あなたが来てくれたもん」
ごしごしと目元をぬぐい、ぐっと口角を引き上げる。
「ありがとう。ネイの魔法は、しあわせのまほう、ね!」
泣きすぎて真っ赤になった眼に腫れぼったい瞼。つう、と目を細めたヴィーに、彼はしゃがみこんで視線を合わせる。
「これから困ったことがあれば、庭師を訪ねなサイ……」
「にわ、し?」
ソウデス、と彼はいつもの笑顔で告げる。
「白髪交じりのおじいさんが、きっとアナタを助けてくれますよ」
彼の言葉通り、翌日から《王族の庭園》にひとりの老人が庭師として任命された。
少々不機嫌な父に苦笑顔の母。けれどヴィーは満面の笑みだ。
(だって、ネイが教えてくれた人だから!)
彼とのつながりが、少女にとってなによりも大事なのだから。
いつからだろうか。
彼が素顔をさらさなくなったのは。
硬く冷たい仮面の下に、そのきれいな対称の瞳を隠した。
いつもいつも、変わり映えのない仮面のような笑みだったのに、ついに本物の『仮面』をつけてしまった。
ヴィーはただ、がっかりした気持ちを押し隠す。その方が、ずっと彼は傍にいてくれる気がしたから。




