16 アザレアの路
* * *
それは、ヴィーが海賊のもとから王宮へ戻れるようになったころのこと。
久しぶりの王城はくすぐったくて、けれどどこか寂しさのある場所だった。
二年ぶりの弟と妹。大好きな父と母。
新しい侍女。けれど彼女たちとは馬が合わず、悶々とした日々を送り。
専属騎士がはじめてつけられ、喜々とした。いつでも騎士は「わたしはヴィーの味方です」と言ってくれるのだから。
日々を穏やかに送っているなかで、けれどずっと会いたいと思う人がいた。
どこにいるの? なにをしているの? はやく、会いに来てよ――
満月の欠けた、三日月の夜。コンコンと、窓をノックする音に目が覚めた。
「ネイ!」
ヴィーはがばりと起き上がってその音の主を確認すると、ぱっと顔を輝かせて走り寄る。
「散歩しませんか」
「さんぽ?」
「はい」
「うん、する」
ス、と白い手袋をつけた手が差し出される。ヴィーが触れるとき一瞬びくりと震えたけれど、彼はそのまま手を重ねるのを許してくれた。
そのころにはすでに、彼は《仮面》をつけていた。
ピエロを模した銀の仮面。赤と青と黄でペイントされ、赤い涙を流す仮面だ。それをつけた彼はいつも道化のように笑っている。
手を引かれ、バルコニーから降り立った夜の庭園。《王族の庭》と薬草園の狭間の道をふたりで歩く。星影も月影もほんのりと輝き夜道を照らしていたし、なにより彼の歩く先々にはぼんやりとした橙色の光が足元を照らすように浮かんでいた。
不思議な光景。けれどもう、見慣れた光景だった。
「ネイはいつも何をしているの?」
興味は尽きない。特に、彼については。だからヴィーは単純で純粋な好奇心を持って尋ねた。
彼は前を向いたまま、口角をあげて答える。
「ん~そうデスねぇ。気まぐれ、かな」
「気まぐれ? 気まぐれになにをしているの?」
「物語をながめているのですよ。イロイロな物語の行く末を」
「どうして?」
「愉しいカラです」
「たのしい?」
「そう、まったく予想できナイ物語は、心をくすぐるでショウ?」
くすくすと声をもらして彼は言う。
ヴィーはつないだ手に少しだけ力を込めた。
「うん、そうね。でもあたし、ネイはなにかを探しているのかと思ってた」
彼は足を止めこちらを向き、仮面の奥で異なった色の両目を見張った。そんなに驚くことだろうかと訝しげに思いつつ、ヴィーはきょとんと首を傾ぐ。
「ネイ? どうしたの」
「い、や……ナンデモ、ありません」
ややかすれた声で答え、ついで視線を前方に戻すと、やや自嘲的に笑って彼は言う。
「ああ。たしかにソウですね」
――ワタシは探しているのかもしれません――
そう口にした彼の表情は、今までみたこともないもので。
ヴィーはぱちくりと目をまたたき、まじまじと目の前の男を見上げた。
「なにを探しているの?」
「それは、秘密です」
再びいつもの表情に戻り、指を立てて口元へ寄せくすりと笑う。
「イヤ、教えて」
「ヒミツですってば」
「イヤイヤ! ヒントちょうだい!」
「じゃあ、《雫》です」
「しずく?」
「はい。けれどもう、あとは全部、秘密です――」
ぷぅ、と頬を膨らませたが、彼はニコニコするだけで答えてはくれなかった。
ヴィーはきっといつか聞いてやろうと決心し、横目で彼を盗み見ながら歩く。
(まだ、遠い……すごく、とおい)
ひょろりと背の高い彼。身長差のせいでヴィーはいつも見上げている。
けれどそれだけではない。存在が、とてもとても遠いのだ。
「あたしね、花言葉を覚えているのよ」
「花言葉、デスカ?」
「うん、そう。ネイにも教えてあげようか?」
「是非」
くすぐったくて、つい含み笑い、ヴィーはつないだ手をさらに強く握りしめた。
びくり、とやや大げさに彼は手を震わせた。
「痛い?」
「ん? ああ、手は大丈夫デスよぉ~」
他愛もない話をつづけながら、歩く。時折目に止まる花の花言葉を紡ぎ、ふたりで夜の散歩をつづける。
薔薇の壁を、アイビーのトンネルを、アザレアの路を。
ふたりで、どこまでも。
どこまでも行けたなら。
行けたなら、いいのに。
「ねぇ、ネイ」
「ナンですかぁ?」
相変わらず視線の合わない彼。仮面の奥のオッドアイを細める彼。
「あたしも探すわ」
にっこりと見上げてヴィーは告げた。
「あたしもネイの探し物を探すわ。きっと《雫》を見つけてみせるわ」
瞠目したような気配がしたが、よくわからない。
ややあって、彼は平坦な声を発する。
「ソウデスカ。では少しだけ期待するとしまショウ」
「すこしだけ?」
「少しだけ」
カラカラと声をたてて彼はつづける。
「止めますか?」
「やめないわ。だって『男は根性で女は度胸』だもの!」
「ハハ! それは海賊の受け売りですね」
「い、いいの!」
「ハイハイ」
夜の散歩をどこまでも。
時間が許す限り、いつまでも。
* *
「お花さん、あなたのお名前は?」
男はくすりと笑い、そっと薄紅色の花弁に指を伸ばす。
「今のワタシには、あなたが眩しく、羨ましく、そして憎らしく思える――」
ふふ、ときれいな笑みを浮かべたまま、男は立ち上がった。手には、アザレアの花。無残にももぎ取られた花がある。
するすると、滑るように男は歩く。足は地につくことなく、少しだけ浮いたままだ。
男の手のなかで、花は握りつぶされた。
「こんな蜜で死ねるなら」
歩を止めぬまま、男は花弁をひとつ、口へ放り込んだ。
男は、王宮の庭園にあるこの花をひとつ残らず焼き払ってしまいたかった。そんな衝動に駆られ、けれどいまだ残しているのはこの花が毒をもっているからだ。
これは、戒め。これは、制約。これは、後悔。
すぐにでも身を消せばよかった。この身を滅ぼすことができなくとも、姿をくらませることはできる。去ってしまえばよかった。
『彼女』のときはそうしたのに。『彼女』のときはできなかった。
気まぐれで紡いだ物語。もはやがんじがらめになって抜け出せない。
――ああ、本当に忌々しい。苛々する。
仮面の下の表情は愉しそうな笑みのまま、彼はいつも思うのだ。
「けれど、まぁ、いい」
足を止め、男は空を見上げた。南の方角から、厚い雲が迫っている。
ケタケタと声を出して笑い出し、次いでその笑みは憫笑へ変わる。
「カワイソウ、カワイソウ、カワイソウ! ああ、だからはやく逃げて」
男は静かに、仮面に描かれている涙を指でなぞった。
「一刻もはやく……ワタシから逃げて――」
* + + + *
だれも知らなかった。気づかなかった。――すでに、賽は投げられていたことに。
一章タイトルより、
【Jacta alea est】=賽は投げられた
おてんば姫のヴィーが、守られるためではなく、自らの道を探すために動き出す。
そして運命は、はかりしれない人々を引き合わせる――そのための前段階。
今章は過去のこともチラチラとりあげており、わかりづらかったろうと思われます。
お付き合いくださり、ありがとうございます。
そしてこれからもどうぞ、ヴィーの賽のゆくえをお楽しみください。