12 闇にひそむ吟遊詩人は(2)
過去と現在が入り乱れ気味ですみません。
***
「ヴィヴィ?」
テラスの隅で、ひとり酒を煽るように果実のジュースを飲んでいる少女に男は声をかけた。
彼女はきょろきょろと見回したあと、目を細める。
どこかぼんやりとした表情で、少女は問いかけた。
「だれ?」
「だれでもないよ、ヴィー」
彼は手をそっとかかげ、彼女の瞼に張り付けた。次第に彼女の口はうっすらとひらき、彼が手を離しても目をあけることはない。
「ヴィー、だめだよ」
静かに、ゆっくりとした声で彼はささやく。
「ショールを羽織って」
「なぜ」
「……出すぎている」
「なあに、よく聞こえないわ」
ふ、と息を吐いて、彼は少女に薄紅色のショールを羽織らせた。きめ細やかな織物で、ビーズで刺繍もしてある上等のもの。すっぽりと彼女の肩を、そして胸部を覆い隠す。
「ホントウに、アナタは」
言いかけ、彼は口をつぐみ、少女の胸元にかかる雫形のネックレスに指を絡ませる。
「さあ、これで大丈夫。次はもっと……首まで隠れるドレスにしておくれ」
ぼんやりと宙を見つめたまま首を傾げる少女に、彼はうっすらと笑って頭をなでた。
「あなたの闇は、ワタシがもらいまショウ」
言うなり、彼は一気に距離を取る。
「じゃあ、またね、ヴィヴィ」
つぶやくように。
「物語は、はじまったばかりデス――よ?」
残された少女は、しばしして、ゆっくりと目をあけた。
夢を、みていたようだ。
いまだぼんやりする頭のなか。しかし肩には、あたたかいぬくもりがそのままだ。
切なげに、声をもらす。きっともう、届かないけれど。
「……ネイ……?」
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「ねぇ」
十二になったころだろうか。ヴィーはひとりで図書室へ足を運んでいた。
専属騎士には長期休暇が年に一回ある。そのころはヴィーの騎士も実家に帰り護衛の任務を離れていた。
代わりの騎士がつけられるはずであったが、ヴィーは気にせず場内を闊歩する。朝から読みたい物語があって我慢できなかったのだ。
すると、突然話しかけられた。
ぎくりとして声のした方を見る。壁に身体を預け腕組みしてこちらを見ている青年が目に入った。漆黒の髪はくせっ毛で、コバルトブルーの瞳はきらりと神秘的に輝いている。女性にも劣らぬ美人顔で中世的ではあるが腕はたしかと有名な人物であると、ヴィーはすぐに気がついた。【悪魔の申し子】と異名をとる、《十貴族》と《五騎士》であり王妃の専属騎士でもある男だ。年ころはリオルネと同じくらいだろうか。
彼はゆっくりとした動作で騎士の礼を取る。濃紺の軍服にはみっつのバッチが煌めいているが、そこには見えぬもう一つのバッチがあることを知っている者は少ない。
通称《影》――主に情報収集を得意とする身軽な部隊。決して表に出てこないその《影》をまとめあげるのが目の前にいるこの男だった。
あまくも見えるマスクの裏にはどんな顔があるのか。瞳は少年のように悪戯気に光っている。
「セ、セルジュさん……」
ヴィーはたじたじで彼の名を口にした。
ふ、とコバルトブルーが懐かしそうに細まる。
「セルジュでいいですよ、お姫さま。……この度は王女殿下の専属騎士の代わりを務めさせていただきます、セルジュ・アンジェ・エダジオです。どうぞ何なりとお申し付けください」
つい敬称を付けてしまいたくなる人だ、とヴィーは思った。母がつい「セルジュさん」と呼んでしまう気持ちがよくわかる。直接会話をしたことは数える程度だが、彼の底知れなさは『彼』に似ているのかもしれない。
「よ、よろしくお願いします」
「はい、了解しました――それで、どちらに向かわれるおつもりですか」
ふ、と柔らかに笑んで彼はつづける。どうにもその瞳は「おいコラてめぇ勝手に部屋抜け出して護衛もつけずにうろちょろすんじゃねぇよ。俺サマの手を煩わせるつもりか? つーかすでに煩わされているけどな!」と言っているように見えてしまうのだが……間違いだろうか?
「ごめんなさい」
脊髄反射で謝ってしまうのも悪くないだろう。
「謝罪は必要ありません。僕がちょっとした任務で朝からお姫さまに付けなかったのがいけないのです」
ああ、やはり怒っていたのか、とヴィーは気持ち肩を落とした。
しかしセルジュはくどくどお叱りをするつもりはないらしい。
「では、今後お気を付け下さい。昔より厳重な警備といっても万全ではないのですから」
「ハイ……すみません。それで……図書室へ行きたいのですが」
「わかりました」
それから度々、見かければ声を掛け合う程度の仲になった。顔の整った彼にはもちろんのごとくファンがいる。その筆頭である侍女たちから厳しい視線を受けたが、怖くはなかった。煩わしいだけで。
ヴィーは年の近い人間よりも年の離れた人間の方が好かれやすいようだ。
「リオルネ殿が三日後に王宮へ来られるそうですよ」
セルジュは時々、このようにヴィーの欲しい情報をくれる。
「あと、つい先ほどモーガシアン海賊船長のご子息が城の警備をかいくぐって侵入しているのも見えたし」
このように、いらぬ情報までくれるのが玉にキズだが。
「ねぇ、セルジュは【魔術師】ってどなたかわかる?」
ある時、ふいに何気ない調子でヴィーは尋ねた。時々父や母の口から出る単語が気になっていた。まるで『彼』みたいだと。
「ああ。ヌイスト――今はたしか、ネイセレイユ……なんとかかんとかって名乗っているんだっけ。【吟遊詩人】のあいつだよ」
まったく、と肩をすくめセルジュは淡々と喋る。
「いろんな容姿にいろんな名前で転々としてたけど、今の姿はある意味オリジナルっぽいし、当分変わらないんじゃないかなぁ」
俺も苦労したよ、と彼は言う。
ヴィーは動揺を押し隠す。ぐ、と胸の前に手を当て、薄く笑って再度尋ねた。
「へ、ぇ……セルジュさんは、いろいろ、知っているのですね」
「セルジュでいいってば。……まぁ、少なからず因縁あるし。王宮に姿を現すことが多いから、随分気に入っているんだなーと思うよ。未練がましくもあるけど」
「未練……?」
ずっと、暗黙の了承のような枷があって聞けなかった。『彼』のことは秘密で、だからヴィーもおいそれと口にしてはならぬのだと思っていた。
彼がだれでどんな人間なのか、詳細に知る者などいない。ただわかるのは、『彼』はヴィーを訪ねてくれて物語を聞かせてくれるやさしい人。
母にだけはひそかに彼の話をせがんだこともある。けれど知り得た情報はとても少なく、やっぱり彼の正体は『不明』なのだと思った。『奇妙』で『不可解』で『神秘的』。それが『彼』というものだ。
それなのに、目の前の男はいとも簡単に『彼』の正体を知っているという態度を示す。
知りたいのに、知りたくない。矛盾した感情に心臓は悲鳴を上げる。
だって、まさか。
まさか。
彼の過去なんて。
「そ。あいつさ、陛下のお母上――ナイリスさまが好きだったんだって」
まさかそんな事実、あるなんて思わなかった。
***
小さいころからそうだった。
物語の登場人物で好きなのは、白馬に乗った王子さまなんかじゃなくて、魔法使い。いつも白髪のおじいさんだけど、それでも魔法使いが大好きだった。
「どうして、あねうえは、まほうつかいが好きなの?」
幼い弟の問いかけに、ヴィーはにっこり笑って、
「だって、彼らはいつも、お姫さまを助けてくれるでしょう?」
と断言する。
絵本のなかの魔法使いはいろんな呪文を唱えて、悲しむお姫さまを救っていた。
「でも、いじわるなまほうつかいも、いるよ?」
幼い妹のもっともな言葉に、ヴィーはふふんと鼻を鳴らし、
「それは大概、魔女よ。魔法使いではないの。もし意地悪な魔法使いでも、きっとなにか理由があるのよ!」
とこれまた断言した。
ヴィーの想像する魔法使いはいつも不思議で、そしてやさしかった。
疑うことはない。なぜなら見本が、いつも近くにいるのだから。
『彼はフツウとはチガウ』と、彼のことを知る者は皆口をそろえて言う。
フツウってなに? なにがちがうの?
だって彼は、泣きそうな夜にいつも傍にいてくれるのに――
ヴィーだって知っている。
彼には不思議な力があることくらい。けれどその魔法は決して邪悪などではない。
闇から出でては現れ、闇に溶け込んでは去り、実に神出鬼没で不可思議極まりないけれど、それでもヴィーは彼のことを大切に思う。
(ネイはきっと、いまだにナイリスさま――おばあさまが好きなのだろう)
父王は彼女の生き写しといわれるほどで、つまり祖母は絶世の美女――金に輝くブロンドに、明るい青の瞳をもつ、うつくしい女性。
――珍しいストロベリーブロンドの髪も不思議だといわれる青みがかった緑の瞳もいらない。どうせなら、ブロンドに青の瞳がいい。
(あたしがあたしをいちばんに、『中途半端』だと思っている)
おとぎ話でいちばん好きな登場人物は、やさしい王子さまよりかっこいい騎士よりも、不思議でつかみどころのない、意地悪な魔法使い。
とりあえず、ネイとのお話ということで。