第78話 出発の見送りと約束
村の家並みが途切れ、畑の最後の一枚を過ぎたところで、ロイドは足を緩めた。
その先──瘴気の森へ続く土道の入口近くに、人だかりができていた。
子どもから老人まで、村のほとんどと言っていい顔ぶれだろう。深く被った帽子の縁から覗く皺だらけの額もあれば、親の腰にしがみついたまま不安そうにこちらを見上げる幼子の瞳もある。
(……見送りなんて、頼んだ覚えはないんだけどな)
心の中で苦笑する。
だが、彼らの表情を見れば、ここで文句を言う気にはなれなかった。
「ロイドさん……」
列の前の方から、小さな声がした。
昨日、ルーシャと一緒にシチューを煮ていた女性のひとりだ。袖を捲り上げた腕には、まだ薄く油の匂いが残っている気がした。
「これ、よかったら持って行ってください」
差し出されたのは、手のひらより少し大きな布袋だった。
布越しに触れると、硬い感触がいくつか当たる。乾かしたパンと、軽く燻した干し肉だろう。
「うちからも……少しですけど」
別の女が同じような袋をフランへ押し付ける。
さらに、エレナにも、ルーシャにも。どの袋も、小さいのに詰められるだけ詰め込んだ、といった重さがあった。
「ありがとう。助かるよ」
ロイドは素直に受け取った。
こういう時、下手に断る方がかえって失礼だと知っている。何より──この重さは、単なる食料以上の意味を持っていた。
(自分たちにできることを、ってやつか)
家を捨てて逃げる覚悟を迫られている村人たちが、それでも「持って行ってくれ」と背を押してくる。その気持ちごと布袋に縛り込めたような重さだった。
「ここまでしてもらって、すみません。……どうか、無事で戻ってきてください」
人垣の前に進み出た村長が、深々と頭を下げた。
背中を丸めるその姿は老いているが、その動作には、村全体を代表しているという自覚の重みがあった。
「頭を上げてくれ」
ロイドは、僅かに眉を寄せた。
「命あってのなんとやらってな。俺たちは仕事をするだけだよ。村のことは、あんたの領分だ。引き際を間違えないでくれ」
言葉は、意図的に淡々とした調子にした。
哀れみや慈善の色を混ぜるのは、相手の誇りを傷つけることになる。ここでの関係は、あくまでも依頼人と受け手。対等であることを、ロイドは重視していた。
村長は、顔を上げてしばらくロイドを見つめ、それからゆっくりと頷いた。
「……肝に銘じます」
握られた拳が、小さく震えている。
恐怖だけではない。その震えの奥には、「村を守るのは、本来は自分たちの仕事だ」という悔しさも混じっているのだろう。
ふと、ロイドの前に小さな影が現れた。
まだ十にも満たないだろう男の子だ。母親のスカートの裾を掴んだまま、恐々とロイドたちを見上げている。隣には、泣き出しそうな顔を必死に堪えている女の子もいた。
その前に、ルーシャが静かに膝をついた。
「大丈夫ですよ」
白銀の髪がさらりと肩からこぼれる。
ルーシャは両手を子どもたちの前に差し出し、そっと目を閉じた。
掌の上に、淡い光が集まっていく。
はじめは小さな火の粉のようだった光が、ゆっくりと丸みを帯び、手のひらサイズの珠の形を取る。
柔らかな光は、昼の陽光の下でもはっきりと見えた。
暖炉の火に似た色合いだが、熱はなく、代わりにじんわりとした温かさだけが指先を撫でるような気配を放っている。
「わぁ……」
子どもたちが、思わず声を漏らした。
光の珠はふわりと浮かび上がり、ふたりの目の前でくるりと一周してから、ゆっくりとほどけるように消えていく。
痕跡は、どこにも残らない。
それでも、その場の空気には確かに、何かを触れられたような余韻が残っていた。
「怖くなったら、これを思い出してくださいね。私たちが、ちゃんと戦っているっていう証拠ですから」
ルーシャは、子どもたちと目線を合わせて微笑んだ。
女の子が、不安げな表情のまま、きゅっと唇を噛む。
「……ほんとに?」
「ええ。もちろん」
即答だった。
欺きではない。彼女は本気でそう信じているからこそ、迷いなく言葉にできるのだろう。
実際のところ、今の光の珠には特別な効果はない。
ほんの少し魔力を込めて形を与え、温度と明るさの加減を工夫しただけの、小さな幻のようなものだ。
だが──それでも、あるのとないのとでは、全然違う。
縋れる何かがある、というのは、それだけで人を強くする。
夜、眠れないほどの恐怖に襲われた時、その光を思い出せるかどうか。その差は、きっと馬鹿にできない。
だからこそ。
(これで、失敗するわけにはいかないな)
もし失敗すれば、ルーシャの言葉が嘘だったことになる。彼女を嘘吐きにはできない。
「ちゃんと戦っている」と約束した彼女の言葉を現実にするのは、自分たちの仕事だ。
その決意を、ロイドは胸の奥で改めて固める。
「……修道女さん」
子どもたちの母親が、涙声で呟いた。
「ありがとう……うちの子たち、昨日からずっと怯えてて……」
「こちらこそです。シチュー、ご馳走さまでした」
ルーシャは丁寧に頭を下げた。
その様子を、エレナとフラン、それにロイドの三人は少し離れた場所から眺めていた。
「ほんっと、ああいうのは真似できないわね」
エレナが、肩をすくめる。
「祈りの言葉でも唱えればいいんじゃないか?」
ロイドが軽口を叩くと、彼女はすぐに睨み返してきた。
「私がやったら、絶対空気が凍るでしょ」
「わかるー。エレナなら子どもに向かって『大丈夫よ、どうせ皆いつかは死ぬから』とか平気で言いそうじゃない?」
フランが、鉄槌を担ぎながら楽しそうに笑う。
「言わないわよ、そんな物騒なこと」
「でも、実際今回のは危なそうな仕事だしねー」
そう言いながらも、ふたりの表情には柔らかな笑みが浮かんでいた。
ルーシャがあの場に立つことで、全体の空気が少しだけ軽くなる。それを、ふたりともちゃんと感じ取ったようだ。
「お待たせしました」
ルーシャが立ち上がり、三人のもとへ戻ってきた。
その頬にはわずかな紅潮が残っている。緊張と、少しの照れと、それから……何かを託された実感の色。
「いい仕事してくれるな」
ロイドはそんな言葉を、わざとらしくない程度の軽さで口にした。
「えっ? い、いえ、私はその……」
慌てて否定しようとするルーシャの言葉を、フランが笑いでかき消す。
「そうそう。ルーシャがああやってくれたおかげで、あたしたちもカッコつくんだしさ。……ね、隊長?」
「誰が隊長だ」
言い返しながらも、ロイドの口元にも自然と笑みが浮かんでいた。
村人たちの視線が、一斉にこちらへと集まる。
「頼んだぞ……!」
「気を付けて!」
「絶対に生きて帰ってくるんだぞ!」
声が、波のように押し寄せては引いていく。
その一つ一つが、背中に重ねるように乗ってきた。
ロイドは肩越しに村を振り返る。
畑。煙の上がる小さな煙突。家の前でこちらを見守る老人たち。子どもを抱きしめる母親。
どれも、さっきまでと何も変わらない日常の風景──のはずなのに、今はどこか違って見える。
どこにでもある村だ。でも……だからこそ、守らなきゃいけない。
そう思えば、足は自然と前へ出た。
「行くぞ」
短く告げて、ロイドは軽く手を上げた。
エレナはほんの少しだけ顎を引いて応え、フランは大きく腕をぶんぶんと振ってみせる。ルーシャは胸の前でそっと手を合わせ、祈るような仕草で一礼した。
四人それぞれのやり方で、村人たちの声に応える。
そして、もう振り返らなかった。
土の道を踏みしめるたびに、靴底に残る感触が変わっていく。
踏み固められた村の道から、柔らかな草地へ。やがて、草に混じる土の湿りが増し、空気の匂いに鉄錆びのような瘴気が混ざり始めた。
背後から届く声は、少しずつ遠ざかっていく。
「ロイド」
隣を歩くルーシャが、小さく名前を呼んだ。
「……どうした?」
「絶対に、守りましょうね」
「ああ。当たり前だ」
短く返して、前だけを見据える。
森の入口は、すぐそこだ。木々の影が、昼の光を削り取るように濃くなっていく。風の向きが変わり、鳥の声が遠のいた。
村人たちの生活の音を背中に感じながら、ロイドたちは瘴気の森へと続く道へ足を踏み入れる。
四つの足音が重なり、やがて村のざわめきと入れ替わるように、森の静寂の中へと溶けていった。




