第8話 聖女が追われる理由とは?
草地に吹く風が、少しだけ温もりを帯びてきた。夜が明け始め、あたりはほのかに金色に染まりつつある。
簡素な朝食を終えたロイドは、膝を立てた姿勢で空を見上げていた。隣ではルーシャが、空になった水袋を軽く握りつぶしながら、黙ってその様子を見ている。
「……それで」
沈黙を破ったのはロイドだった。
「どうしてルーシャは追われてるんだ? 〝偽聖女〟って、どういうことなんだよ。そんな話、聞いたことがないぞ」
さっきは「長くなるから」と誤魔化されたが、ここまで距離を稼げた今なら、少し腰を据えて話しても問題ないだろう。幸い、追手が来る気配もない。馬も野に放したし、神官騎士の装備品類も遺体と一緒に森の奥に埋めた。
すぐにあの簡易墓も動物に荒らされたり、神官騎士の遺体がゾンビになって這い出てきたりするのではないかと思ったのだが、ルーシャ曰く、大地母神の加護を掛けてあるので、その心配もないらしい。教会側が神官騎士たちの帰還がないことに気付いても、あの遺体を発見するのは困難だ。〝偽聖女〟の行方を探るのは、さぞ難航しているだろう。
ルーシャは小さく息を吸い込むと、視線を足元に落とした。
「そうですね……お世話になるのですから、ロイドには全て話しておいた方がいいですよね」
そう言った声は、静かだったが、どこか決意を含んでいた。
それから、彼女は自らの生い立ちについて簡単に説明してくれた。
曰く、ルーシャ=カトミアルは幼い頃から『神託を受ける少女』として教会に預けられたそうだ。神聖魔法の才能に特化していたというのもあるだろう。大地母神リーファの声を聞ける特別な存在として、神殿で厳しい修道生活を送っていたらしい。
その語り口は淡々としていたが、言葉の端々にこびりついた記憶の重さがにじんでいた。
そうして厳しい修行とともに修道院生活を経て、彼女は〝白聖女〟となったのだが……つい最近、新たな神託を受けた。それが、彼女が〝偽聖女〟として扱われるようになった切っ掛けだ。
「いつものようにお祈りをしていた時、突然、リーファ様の御声が聞こえたんです。リーファ様の御声はとても静かでしたけど……でも、はっきりと『今の教会は、道を見失っている』と、そう仰られたんです」
ルーシャは両手を組み、胸の前でそっと握りしめた。
「私は、それを司祭様にお伝えました。でも……受け入れられなかったんです。教会の在り方を否定する神の声なんてあり得ない、と」
「異端とされたってわけか」
「はい。それから、すぐに地下牢に幽閉されました。魔女として、粛清されることになったんです」
「地下牢に幽閉されて粛清って……酷いな」
話を聞いているうちに、辟易としてきた。
ルーシャの立場からしてある程度予想できた話ではあったが、思った以上に教会という場所が腐敗しているらしい。自分たちに不都合な神託が下れば、その神託を魔女の戯言として扱い、この世から消し去ろうというのか。それこそ、罰当たり以外の何者でもないだろう。
「どうやって逃げたんだ? 地下牢に入れられてたんなら、簡単には抜け出せないだろ?」
「はい。ひとりだけ、私の言葉を信じてくれた方がいたんです。その方の手引きで、なんとか逃げ出すことができました」
「なるほどな。本物の聖女を信じた真の信徒がちゃんといたわけだ。ちなみに、そいつはどうなった……?」
訊くと、ルーシャは「わからないです」と肩を落とした。
「私はこっそり逃がしてもらっただけで……そこから先の状況は、何もわからないんです。何とか上手く誤魔化すから、と言ってくれてはいたんですけれど」
「まあ、そうだよな」
ただ、ルーシャの逃走はバレて〝偽聖女〟の通達が出て追われている状況を鑑みれば、その信徒の命はもう残っていないだろう。
ルーシャはそっと顔を上げた。
「今、教会には私の代わりに〝白聖女〟として、別の女性が立てられています。見た目も似せられているので、今のところ誰も偽者だと気付いていないみたいですが……」
「そっちこそが、本物の〝偽聖女〟ってわけか」
「そうですね。本物の偽者って、わけがわからなくなってしまいますね」
彼女は少し茶化すように言って笑みを浮かべてみせたが、その笑みには疲れが見えた。偽者として扱われて逃げ続けてきたのだから、それも当然だ。だが、それでも何とか場を和まそうとするあたりに、彼女の人の良さが窺えた。
ロイドはしばらく沈黙を守り、焚き火の残り火に視線を落とす。
「……まさか、教会がそんなところだったと思わなかったよ。災難だったな」
その一言は、短いながらも、ロイドなりの誠実な同情だった。
ルーシャは一瞬驚いたように目を瞬かせ、次いで柔らかく笑った。
「確かに大変でしたし、怖かったですけど……でも、こうしてロイドに助けてもらえましたから。きっと、私の選択も……それから、彼の選択も、間違ってなかったんだと思います」
その笑みは、どこまでもまっすぐで、曇りがなかった。
ロイドは、何も言えずに視線をそらした。
その〝彼〟というのは、きっと彼女を逃してくれた存在のことを言うのだろう。元からルーシャと親しかったのか、或いは真なる信徒故に、ルーシャを信じたのかはわからないけれど。
ただ、こんな笑顔を向けられるようなことをしたつもりはない。偶然出くわして、ただ助けただけだ。助けた流れというのも、殆どその場の勢いみたいなものだった。
ただ、ロイドはあの時、何かに導かれるようにして、ルーシャを助けた。そして、ロイド自身、初めて呪いの暴走から救ってくれる人物と出会えている。
もしかすると、それが大地母神リーファの導きだったというのだろうか。
「それに、私……ずっと、世界とか教会のためじゃなくて、誰かのためにこの力を使いたいって思ってました。だからさっき、ロイドのために力を使えて……私、幸せだったんです」
ロイドの思考を肯定するように、ルーシャが言った。
嫣然とそう言う彼女はあまりに可愛らしくて、可憐で。太陽の光に溶け込むようで、あまりにも綺麗だった。
無意識のうちに、胸がドクンと脈打つ。
(糞ッ……落ち着け、俺)
不意に自覚した鼓動に、ロイドは小さく舌打ちしたくなった。
これは良くない。彼女は〝白聖女〟と称えられる人物で、女神の神託を預かる者だ。惚れるとか、好きになるとか、そういう感情を抱いていい相手ではない。それに、こんな呪い持ちの放浪者が聖女にこんな感情を抱くことそのものが、不遜だ。
眩しすぎるその笑顔から目を逸らして、そっと空を見上げる。
空はもう、完全に朝を迎えていた。




