第71話 信じること
「ロイド。そろそろ交代の時間ですよ」
耳元を、柔らかな囁きが撫でた。
胸の奥から静かに浮上していくような感覚のあとで、ロイドはゆっくりと目を開けた。
最初に認識したのは、温度だった。
腕の中に、思いのほか柔らかなものが収まっている。手のひらに触れるのは、毛布よりも細やかな感触で、鼻先には乾いた草と石鹸、それから微かにハーブの匂いが届いていた。
(……なんだ、この……)
状況を理解するより先に、身体が先に目を覚ましていく。
視界を少し引くようにして焦点を合わせると、暗がりの中に白銀色が見えた。枕元に撒き散らされた髪の房。肩口にかかった毛布の膨らみ。その下で、規則正しい呼吸を繰り返している胸の起伏。
腕の中には、ルーシャがいた。
村長の家の一室。藁を敷き詰めた簡素な寝台の上で、ふたり揃って毛布を被っている。どうやらロイドは、彼女を抱き枕みたいにして眠ってしまっていたらしい。
「悪い……結構、寝過ごしたか?」
喉が少し掠れていた。自分でも驚くぐらい、深く眠っていたらしい。
腕をほどくと、ルーシャがこちらを振り向く。暗闇に慣れた瞳が、近い。
「いえ。全然です。でも、ぐっすりでしたよ?」
くすっと笑って、小首を傾げた。
その仕草があまりにもいつも通りで、ロイドは逆に照れくさくなり、頭を掻いた。
昨夜──いや、夕食のあとだったか。
仮眠を取ろうと横になっても、森の気配と瘴気の濃度ばかりが気になって、目を閉じても睡魔が来なかった。そんな話をルーシャにしたら、「では、私が一緒に寝てあげますね」と、悪戯っぽく笑われたのだ。
ルーシャと一緒だと、余計に眠れないだろう。
半ば本気でそう思っていたのに、毛布を分け合ったところから先の記憶が全くなかった。疲れが溜まっていたのか、あるいは彼女の癒し効果のお陰かはわからないが、すぐに眠りに落ちてしまったのだろう。
「ずっと起きてたのか?」
誤魔化すように問いを重ねると、ルーシャは「いえ」と首を横に振った。
「私もさっきまで眠ってました」
言われてみれば、彼女の瞼の縁にも、まだ眠気の名残があった。
ロイドは小さく安堵の息を吐いた。自分だけが遠慮なく寝入っていたわけではないという事実に、妙な救われ方をする。
「そっか。じゃあ、行くか」
「はい」
毛布を押し上げて身を起こす。
足を床に降ろした瞬間、夜の冷気が足首を撫でていく。村長の家といえど、夜の冷え込みはそれなりに強い。ロイドは素早く上着を羽織り、腰に〝ルクード〟を吊った。
ルーシャも修道服風の衣を重ね、その上にいつもの外套を纏う。髪に手櫛を通してから整え、最後に胸元の紐をきゅっと締めた。
戸口の隙間から漏れる灯りは弱い。
村長宅の広間には、年寄りと子どもたちが毛布にくるまって眠っているはずだ。扉を静かに開けると、かすかな寝息と、煮炊きの名残りの匂いが混ざった空気が流れ込んできた。
床板を軋ませないよう、ふたりは慎重に歩く。
広間の端の方には、焚き火番に向かう男たちが仮眠を取っていた。丸めた外套を枕に、片膝を立てたまま眠る姿がいくつも並ぶ。誰もが疲れを抱えた顔をしていたが、それでもこうして交代で目を閉じるしかなかった。
外に出ると、夜が降りていた。
昼間のざわめきが嘘のように、村は静まり返っている。
焚き火がひとつ、村の中央近くで橙色の光を上げていた。見張りから連絡を受けた者が鐘を鳴らす、そのための拠点だ。火のそばには、すでに次の番の男がひとり腰を下ろしており、膝の上で鈴のついた棒を弄んでいた。
「交代だ。何か変わりは?」
ロイドが声を掛けると、男は目の下の隈をこすりながら首を横に振った。
「いえ……北の方が、ちょっと嫌な感じがするぐらいで。さっきから、鳥の鳴き声もしやしません」
「わかった。何かあったら、迷わず鳴らせ」
「へい」
簡単な言葉のやり取りを済ませ、ロイドとルーシャは焚き火から離れた。
火の明かりから数歩離れるだけで、星空が一気に濃くなる。雲は少なく、頭上には針で刺したような星の群れが浮かんでいた。
だが、北の空だけは違う。
森の方角の上空だけ、星の数が目に見えて減っている。そこにだけ、薄く色のない幕がかかっているような、そんな暗さだ。瘴気の陰りと夜空のコントラストが、嫌でも眼に入った。
夜気は冷たい。遠くでは川の音が続いていて、時折森の方角から、何かの鳥とも獣ともつかない鳴き声がした。瘴気に侵されて声帯がおかしくなったのか、どの種にも当てはまらない濁った鳴き方だ。
柵へと向かう道を、ふたり並んで歩く。
藁や枯葉を踏む小さな音しか、夜気を乱すものはなかった。言葉を交わさなくても、不思議と沈黙が重たくはなかった。
その沈黙を、ロイドが破る。
「……エレナとフラン、間に合うと思うか?」
自分で言って、少しだけ驚いた。
いつもなら、心の中だけで繰り返していた名前だ。口に出して誰かに問う、という発想が今までなかったことに、言ってから気付く。
「思います。ふたりとも、ロイドの力になりたいと思っているはずですから」
ルーシャは、迷いなく答えた。
その声には、根拠の薄い楽観ではなく、どこか確信めいたものが宿っている。
「力になりたい、か……そんなふうに思ってくれてるなんて、考えたこともなかったな」
ぽつりと漏らす。
ロイドにとって、自分はずっと独りだった。誰かの力になりたいと思ってもらえるという思考自体が、あまり頭にない。
ルーシャが、少しだけ歩幅を緩めた。
ロイドの顔を覗き込むようにして、そっと尋ねる。
「勇者パーティーにいた時は、どうだったんですか?」
「う~ん……」
彼女の問いに、ロイドは一拍だけ沈黙した。
足下の土を見ながら、遠い過去を辿る。焚き火の灯りと、冷えた鎧の匂いと、剣を研ぐ音。夜番の時の会話。色々なやり取りがあったはずなのに、記憶に残っていることはあまりなかった。
「仲間というより、仕事の関係だったかな。必要最低限のことしか話さない、みたいな」
当時を思い出して出てきた言葉は、思いのほか淡白なものだった。
決して仲が悪かったわけではない。互いに役割を果たし、必要な時には背中を預け合っていた。それでも、踏み込まない線が常に間にあったと思う。
きっと、それこそがロイドが誰とも〈共鳴〉できなかった原因でもあると思うのだが、当時はそんなことなど考えもしなかった。
「でも、今は違いますよね?」
ルーシャの声は、諭すというより、そっと確認するような響きだった。
「そうだな……」
ロイドは、夜風をひとつ吸い込んでから答えた。
ロイドとルーシャ。それから、エレナとフラン。
肩書きだけを並べれば、〝元勇者パーティーの後衛〟と、追放された黒剣士、そして偽聖女の烙印を押された聖女という、奇妙な取り合わせだ。
だが、今の方がずっと「仲間」という言葉がしっくりくる。互いの弱さや迷いを見せ合って、それでも一緒に歩くことを選んでいる、そんな感じだ。
「それなら、ロイドもちゃんと信じてあげてください。ふたりは、絶対に来てくれますよ」
ルーシャが柔らかな声音で言った。それはまるで、わかりきったことを訊くな、とでも言うように。
その横顔が、暗闇の中でもどこか明るく見えてくる。村人たちに向けて「大丈夫ですよ」と言った時と同じ、誰かの不安を追い払う光のような表情。
「わかった。信じるよ」
ロイドは、空を見上げるように顎を上げた。
頭上の星と、北の空の暗がり。その境界線のどこかに、彼女たちがいる気がした。今この瞬間も、どこかの夜道を急いでいるかもしれない。
エレナの苛烈な魔法と、フランの確かな足捌き。
あのふたりがここに加われば、この村を守り切る算段も、ぐっと現実味を増すだろう。
それでも──たとえ間に合わなかったとしても。
ロイドは、その時はその時で、できる限りの手を打つ覚悟は固めている。囮になることも、村を捨てる選択を迫ることも、その全てを視野に入れた上で。
けれど今は、ただひとつだけ。
ルーシャの言葉を信じる。そう、決めた。




