第55話 町娘な聖女様
戸口が内に引かれた瞬間、湯気と甘い香りが顔に触れた。木の温もりと火の匂い、焼きたての生地の香ばしさが層になって、はらりと胸の奥に落ちてくる。
「いらっしゃい。お待ちしていました」
軽い足取りで台所から現れたのは、白いエプロンをつけたルーシャだった。髪は後ろでゆるくまとめられて、完全に家事にいそしむ町娘の装い。普段の清冽な雰囲気に、家の空気がほんの少し混ざって、和らいで見えた。
その姿を見て、エレナとフランの目が、呆気にとられて、ぽかんとしていた。彼女たちが知る〝白聖女〟と、目の前の〝エプロンの彼女〟が合致せずに、困惑しているのだろう。ロイドはもう見慣れてしまったが、何となく気持ちはわかった。自分が客人としてここを訪れていれば、きっと彼女たちと同じような反応をしていたと思う。
はっと我に返ったフランは、喉の奥で小さく悲鳴を呑み込んだように肩を跳ねさせ、慌てて懐の小袋を取り出した。
「せ、聖女様! 今日はお招きいただき本当にありがとうございます! こちら、つまらないものですが……」
勢いよく頭を下げ、焼き菓子の詰まった紙包みを差し出した。紙の端からバターの香りがふわりと漏れる。
「わあ、焼き菓子! ありがとうございます。あとでいただきますね。それと、フラン」
「は、はい!」
名を呼ばれて、フランの背筋が軍人みたいにぴんと伸びた。敬礼でも打ちかねないほど、きりりと顎が上がる。その真面目さが可笑しくて、ロイドは喉の奥で笑いを呑み込んだ。
「そんなに畏まらないでください。今の私は、ただのルーシャですから」
「そう言われましても……」
困ったようにきょろきょろと視線を泳がせ、それからフランは助けを求めるみたいにロイドのほうを見た。お調子者がすっかり縮こまってしまう様子は、見ていてなかなか愉快だ。教会で育まれた序列が、骨に染みているのだろう。
「どうぞ、上がってください」
促されるまま、エレナとフランが家の奥へと入った。
奥では鍋がことことと小さく歌い、石窯の中で生地が膨らむ微かな破裂音が弾けていた 。
「すみませんが、もう暫くお待ち頂けますでしょうか? まだお料理ができていなくて……」
ルーシャが申し訳なさそうに眉を寄せ、言葉の最後を少しだけ曇らせた。
「ぜ、全然! 気にしないで」
「いくらでも待ちますので!」
エレナは慌てて手を振り、フランは胸の前で両手をわたわたさせた。ふたりの声が重なって、ロイドの口角が勝手に上がる。
強気な印象のエレナだが、こうして恐縮しているところを見ると、実は結構緊張しているのだろう。新たな一面を見たようで、何だか嬉しかった。いや、きっとロイドは、仲間のことを見ているようで見ていなかったのだ。昨日からのやり取りで、それを嫌という程痛感する。
「ありがとうございます。お好きなところに座ってください」
ルーシャがちらりとリビングのテーブルを見やる。テーブルの横には、昨日はなかった椅子が二脚、仲間入りしていた。廃屋からギリギリ使えそうなものを掘り出し、ルーシャが〈修繕魔法〉で直したやつだ。座面には新しい布が張られ、木肌には細かな傷跡が木目のように走っている。
そこで、ロイドはふと台所の方から湯気がリビングにまで流れ込んでいることに気付いた。
「あー、ルーシャ。挨拶もいいけど、台所、放置してて大丈夫なのか?」
「い、いけません! お鍋に火をかけっぱなしでした!」
はっと目を見開いたルーシャが、スカートの裾をつまみ、ぱたぱたと台所へ駆け戻っていく。木の床板が心持ち軽く鳴った。
フランとエレナは呆気にとられた様子で、視線を同時にこちらへ送ってくる。
「……せ、聖女様が、エプロンして料理してるんだけど」
「何だか現実味がないわね……」
「ここでは毎日の光景だよ」
ロイドは肩を竦めて見せた。嘘はひとつもない。
初めて一緒に暮らし始めた夜から、台所に立つ彼女はこうだった。
ふたりは家の中を遠慮がちに見まわしながら、テーブルへ近づいた。壁に掛けた小さな棚、窓辺の草花、水をたたえた陶器の壺、火の精霊像──どれもありふれた生活の道具ばかりだが、外の荒れた風景を見てきた目には、それが少し不思議に映るのだろう。
「ここ、本当に廃屋だったの? 普通の家にしか見えないんだけど」
「ねー。なんか、外が廃村だからここだけ別世界に思えちゃう」
「最初は周りの廃屋と変わらなかったよ。でも、まあ、ルーシャの〈修繕魔法〉のお陰で何とかなったけどな」
あの日の汗の匂いと、木屑の粉っぽい感触が思い出の底から浮かぶ。
この廃村についた初日。とりあえず一番家としての形を守っていて、雨風が防げそうという理由でここを選んだ。ボロボロだった家が少しずつ息を吹き返していく様が、今では少し懐かしい。
最初はテーブルも椅子もベッドも何もなくて、毛布にくるまってこのリビングで眠っていたのだ。
「聖女サマサマねえ」
エレナがロイドの顔を見て、呆れ半分、諦め半分みたいな笑みを浮かべた。
「……何だよ」
「何でもないわ」
エレナが手のひらを返す仕草をして、溜め息を吐いてみせた。
一方で、フランはというと、椅子の前で落ち着かず足踏みしていた。
「て、てかあたし椅子に座ってちゃダメだよね!? お、お手伝いとかした方がいいのかな!?」
「いいっていいって。客人にそんなことさせたら、俺が叱られる」
「聖女様が叱るっていうのも、想像つかないんだけど」
「ああ見えて、ルーシャは怒ると怖いんだ」
苦笑いを浮かべて、頭の後ろをかいた。
冗談めかしてみせたが、半分以上は本当だ。一昨日、自分の拙い距離の取り方で彼女を傷つけ、ひどく気まずい空気を作ってしまった。悲しそうな彼女の瞳は、剣を向けられるよりも堪える。あの瞬間に戻るのだけは二度と御免だ。
そんな折、台所から湯の弾ける音がした。続いて、控えめな声がリビングに届く。
「あの、すみませんロイド。お料理を運ぶの、手伝っていただけないでしょうか? たくさん作り過ぎてしまいまして……」
「あいよ」
ロイドは苦く笑い、立ち上がった。
ふたりの日常の手付きに、客ふたりが再び呆気にとられた顔で目を合わせるのが視界の端に入った。




