第53話 忙しない朝
翌朝は、起き抜けから慌ただしかった。
夜気の冷たさがまだ床板に残るうちに、石窯へ火を起こし、昨夜の残りのスープを温め直して黒パンを炙る。外では霜に濡れた野草が薄く白み、鳥の鳴き声が木立の奥からぽつりぽつりと聞こえてきた。
朝食を済ませるや否や、ルーシャはエプロンの紐をきゅっと結び、台所を陣取った。粉をふるい、卵を割り、牛乳を量り、蜂蜜壺の蓋をひねる。塩壺、香草の束、干し果物の袋──棚から次々と道具と食材が引っ張り出され、広いはずの調理台が瞬く間に戦場みたいに埋まっていく。
煮る、焼く、練る、冷ます。石窯の口には薪が規則的にくべられ、鍋と鉄板が入れ替わるたび、小さな炎が元気よく舌を出した。
今日の訪問客はふたり。ロイドの元パーティーメンバー、エレナとフランだ。昨日約束した通り、下見を兼ねて昼前に来ることになっている。
ルーシャは『おもてなし』を口にした途端、目に見えて張り切っていた。準備の段取りも、昨夜から何度も胸の内で唱えていたらしい。今朝はそれがそのまま手の速さになっている。
「張り切り過ぎて怪我するなよ」
調理台の端で、ロイドは合間を見て声を掛けた。
油のはねや包丁の刃先、熱くなった取っ手。台所には、危ないものが多い。指先が白く粉を抱いているのを見ると、余計に心配になった。
「私、そんなにドジっ子じゃありません」
ルーシャはむっと頬を膨らませた。ふくれた頬も、手際の良い指も、見ているだけで胸の奥が緩む。
くすぐったい幸福感が、朝の室温を少し上げた気がした。
もっとも、忙しなく動き回るルーシャに対して、ロイドはと言えば、案外手持ちぶさただ。室内の掃除は行き届いているし──日頃から彼女が隅々まで磨き上げてくれているおかげだ──洗濯も昨日までに片づいていた。台所を手伝おうとすれば、即座に「殿方を台所に入れるわけにはいきません」と木べらで追い出されてしまった。
となれば、やることは限られてくる。薪の残量を確かめ、丸太を割って、束ねておくくらいだ。
裏手の薪棚で斧を振り、木口に走る年輪の筋へ刃を落とす。乾いた音が二つ、三つ。割れ口を合わせて縄でくくり、壁に立てかけた。
息を整えながらふと視線を巡らせると、裏手の浴室小屋の戸板が目に入る。昨日は帰ってきてから湯を使い、疲れに任せて栓を抜いたきりだった。
(あ、そういや浴室小屋の掃除はまだだったな)
来客があるなら、そこも綺麗にしておきたい。風呂を勧められるようにしておけば、ふたりも道中の埃を落として休めるだろう。
斧を片付けると、ロイドは台所のほうへ回った。ちょうど、ルーシャが泡立て器で卵と砂糖を混ぜ、白い筋が立つまで空気を含ませているところだ。腕は休むことなく動いていた。
「ルーシャ、ちょっとだけ精霊珠借りていいか?」
「構いませんが……何に使うんですか?」
「風呂、掃除しとこうかと思って。どうせならあいつらにも入って行ってもらいたいし」
「あっ、それいいですね! 名案です」
ロイドの提案に、ルーシャはぱっと顔を明るくした。
泡立て器を置いて、今は役目がなかったらしい精霊珠をこちらに手渡す。
「ではロイド。お風呂の方、任せちゃっていいですか?」
「おう。任された」
彼女から精霊珠を受け取ると、ロイドは力こぶを作って応えてみせた。
精霊珠──教会が秘密裏に作り出したとされる、生活用便利魔導具だ。ルーシャを教会から逃がす際に、エリオットがくすねて彼女に託したという。これがあるからこそ、この辺境の地での暮らしが成り立っている。
ロイドからすれば色々複雑な思いを抱いてしまうエリオットだが、結局のところ、彼に助けられているのはロイドも同じだった。この魔導具があるからこそ、この浴室も活躍できるのだから。
浴室小屋の戸を開けると、昨日の湯気の記憶はとうに消え、ひんやりした木と石の匂いが鼻を擽った。石でできた浴槽、洗い場は平らな板石。隅に木桶、掃除用の繊維束、灰入れ、酢の小瓶。町で買っておいた『洗い粉』と呼ばれる薬草の粉末も棚にある。
まず、精霊珠に魔力を加え、手のひらの上で水の気配を呼び起こした。珠がかすかに震え、涼やかな水が糸のように湧き出す。それを木桶に受け、もう一杯、もう一杯と溜める。水流を弱めにして、洗い場の石面と浴槽の中へ薄く撒いた。乾いた汚れが湿り、木目が色を濃くする。
洗い粉をひとつまみ、灰を少量、酢を数滴。桶の中で棒でかき混ぜると、微かな泡立ちと草の匂いが立った。
繊維束で石面を円を描くように擦れば、足裏のざらつきに絡みついていた皮脂や土が薄く白濁して落ちていく。継ぎ目の目地は麻縄をほぐしたブラシで掃き、排水溝の口に詰まった髪や葉を指でつまみ出した。
浴槽の縁は布で撫で、木枠の浮いたささくれは小刀で軽く均す。仕上げに精霊珠で新しい水を呼び、洗い残しをまとめて流した。
最後に、乾きやすいよう小窓を開け放ち、戸口も半手幅ほど開けて風の通り道を作っておいた。小屋全体がふっと息を吸い、湿り気を吐き出すように空気が動く。
(よし、おしまい)
ロイドは手のひらについた水気を振り、精霊珠を布で拭ってから家へ戻った。
玄関を開けた瞬間、甘い匂いが胸いっぱいに広がる。焼き上がる寸前の生地と溶けた砂糖、溶かしバター、煮詰めた果実──幾つもの香りが層になって鼻腔を擽った。
腹が鳴る。パンを食べてから、それほど経っていないのに。
台所を覗くと、ルーシャは石窯の前で膝を折り、鉄板の上に並んだ小さな菓子の膨らみ具合を真剣に見つめていた。額の前髪が少し汗で貼りついている。
「終わったよ。これありがとう」
ロイドが精霊珠を差し出すと、彼女はぱっと顔を明るくして振り向く。
「お掃除、お疲れ様でしたっ」
その一言だけで、不思議と報われた気持ちになった。
自分としては当たり前のことをしただけなのだが、それなのに彼女はこうして褒めてくれる。子供の頃からあまり褒められたことがなかった人生だったので、ただ褒めてもらえるだけで、達成感を覚えてしまうのだ。
きっと、彼女は子育ても上手いのだろうな、などと思い、すぐに誰との子だと想像して、頬が熱くなった。
ルーシャがきょとんとして小首を傾げる。
「どうしたんですか? 顔、赤いですよ?」
「い、いや! 何でもない」
また「えっちなことを考えている気がします」などと指摘されかねないので、咄嗟に平静を装った。
誤魔化すようにして、石窯の中を覗きこむ。
「いい匂いだな。朝食食べたばっかなのにもう腹減ってきたよ」
「ふふっ、もう少しだけ待っててくださいね」
くすくす笑いながら、ルーシャは鉄板を取り出し、手早く網の上へ移した。焼き色はこんがり狐色、端がわずかに艶めいて、触れればサク、といい音がしそうだ。奥の鍋では野菜のスープが静かに泡を立て、別の鍋では果実のコンポートが甘い香りを濃くしている。
窓の外に目をやると、木立の間から射す光が少し角度を変えていた。木陰が短くなり、野の影色が薄くなる。
「時間、そろそろでしょうか?」
ルーシャが陽の向きと砂時計を交互に見て言う。
そうだった。待ち合わせの時刻は正午の少し前。十一時頃に街道の分岐で、という約束だ。ここから歩けば、道すがらの見回りをしながらでも十分に間に合う。
「そうだな。迎えに行ってくるよ」
「はい、いってらっしゃいませ!」
エプロン姿で手を止め、彼女が弾む声で見送ってくれた。白い布に粉が淡く散って、頬にも小さく付いている。
指でそっとそれを拭ってやると、「ありがとうございます」とルーシャがはにかんで笑った。
当たり前の日常と幸せ。その光景に、胸のあたりで何かがぽっと温かく灯った。
こんな光景がいつまで続くのか、それはわからない。けれど、続けるために今日もやることをやる──それだけははっきりしていた。
「すぐ戻るよ」
そう言い置いて戸口へ向かい、腰の鞘を確かめ、外套を引っかけた。
外に出ると、朝の涼しさはとうに退き、風は森の匂いを運んでいた。鳥の影が二つ、頭上を横切っていく。
ロイドは一度だけ家を振り返り、エプロン姿で立つ聖女が小さく手を振るのを見届けると、街道へ向けて歩き出した。




