番外編 心残りと進むべき道
部屋の鍵を閉めて振り向いた瞬間、足の裏に木の床の乾いたざらつきが伝わった。
二階の角部屋は階下の酒場よりいくらか静かだが、笑い声や盃の当たる音は、床板の節目から微かな震えとなって上ってくる。壁際の小窓を指二本ほど開けると、噴水の水音が夜の空気に柔らかく紛れ、串焼きの脂がはぜる匂いが細く入り込んだ。
冷えた風が頬を撫で、緊張で上がっていた心拍を鎮めた。胸の内側の鼓動はまだ忙しい。呼吸を整えようと、エレナは窓枠に手を置き、肩でひとつ息を吐いた。
背後でばふん、と乾いた音。振り返れば、フランがベッドに飛び込んで、抱き枕みたいに枕を押しつぶしている。軋むスプリングの音が小さく跳ねた。
「にしても、聖女様って本当にいたんだなぁ。心臓止まるかと思ったよ~」
「そりゃいるでしょ。これまで見たことはあったんでしょ?」
「見たことはあったけど、遠くから眺めたくらいだもん。あたしみたいな下っ端神官には近づくことさえ烏滸がましいんだってば」
「まあ……そういうものなのかもね」
エレナにも覚えがある。魔法学院の校長や、卒業生の中の伝説的な魔導師。儀礼の壇上に立つ影は何度も見たが、近くで言葉を交わせたことはない。距離は象徴を磨き、現実は遠目に霞むものだ。
枕に頬を乗せたフランが、にやにやと目だけこちらに寄越した。
「しかも、その聖女様があのロイドの恋人だなんて……ねえ?」
「……からかわないの」
口ではそう言いながら、喉の奥で小さな渋みが広がった。場の空気は少し緩んだのに、胸のざわめきは消えない。
窓辺に戻ったエレナは、椅子の背にローブを掛け直しながら、視界の端にあの夜の影を見た。厚い手のひらが口元を荒く覆う感触。嫌悪と恐怖が一瞬で背中を走り、思わず口に手を添えて深呼吸する。
怒りは容易い。だが同時に、怒りは目を腐らせる。思考を鈍らせ、自由を削るものでもあった。
ユリウスと、ガロ。こうして名前を心の中に並べるだけで、胃の底が熱くなる。
今日、ロイドの前で語った出来事は、言葉にした分だけ刃が鈍ったように思えた。彼の冷静さに晒されて、エレナの中の憤りは、復讐の形ではなく、『距離』の形へ整理されていく。
もう関わらない。そう決めるだけで、肩の一部が軽くなった。
「でもさー、いいの? 〝なんでも屋〟の件、多分あたしに付き合わせちゃってるよね?」
「まあ、確かにね……でも、他にやりたいこともないし、現状それがベストって思ったのも事実よ?」
前の生活に未練がないかって言ったら嘘になるけどね、とエレナは一旦区切って、言葉を紡いだ。
「でも、それはユリウスから離れた時点で多分難しいし。それなら、一番安全で楽しそうな道を選ぶのがいいんじゃないかなって」
「そっか。それならよかった」
フランは安心したように笑い、うつ伏せのまま足をぱたぱたさせた。薄い毛布が小さな波を作る。
彼女に対して、エレナはこれ以上ないほどの借りがある。あの夜、彼女がいなければ、エレナはガロに犯されていた。想像だけで、胃の辺りが固くなる。だからこそ、フランが望む生き方を、エレナはできるだけ支えたかった。恩義ではなく、選択の対価として。
沈黙が落ちる。窓の外で、金串が鉄板の縁に当たって小さく鳴った。
「ねえねえ。今日のロイド、幸せそうだったよね」
フランがひそひそ声で言う。
エレナは窓枠に指を置いたまま、視線だけ落として、小さく頷いた。
「……そうね」
安堵と、少しの悔しさと、取り残される感じ。その全部が、喉の奥のざらつきに混ざっている。
彼がこちらを見ずに隣を見た、あの優しい眼差しの線まで、鮮明に思い出せた。エレナはあの時、ようやく気付いたのだ。自分がロイドのことを心のどこかで想っていたのだ、と。
一緒にいた時、彼は『仲間』で、『パーティーの穴を塞ぐ人』、そして『面倒見がよく頼れる背中』だった。彼の頼もしさ、強さに何度も何度も救われた。フランが「誘惑してこい」などと茶化しても苦笑いで流していたのは、満更でもなかったからだ。
その本心を、今さら掬い上げてしまった。しかし……今更もう遅い。遅いからこそ、静かに呑み込むしかなかった。彼は大切な人を見つけてしまったのだから。
「まあまあ。いつかエレナにもいい人ができるって! それとも、聖女様とガチンコしちゃう?」
「よして。私はそういうの望んでないってば。っていうか、聖女様と戦うなんて不遜過ぎて御免被りたいわ」
「エレナも負けてないと思うけどなぁ」
「胸だけ、とか言わないでしょうね?」
エレナの視線が鋭く跳ねると、フランの目が泳いだ。
沈黙の遅れが、答えそのものだった。エレナは額に手を当て、わざとらしく大きく溜め息を吐く。
「……やっぱり私、明日王都に帰ってやろうかしら。〝なんでも屋〟は独りで頑張ってね」
「冗談だってば! ごめん~!」
慌てて上体を起こすフランに、エレナは肩を震わせる。
笑いの奥に、僅かな痛みがまだ残っていた。笑いが痛みを削るのか、痛みが笑いに形を与えるのか、わからない。けれど、どちらでも良かった。今は、前に置くべき石を一つずつ選べばいい。
「明日は、朝一でロイドの住んでる廃村? に行きましょう」
「ロイド、住んでる場所を〝子供商人〟にも言ってないんだってね。何でだろ?」
「……万が一を考えてるんでしょうね。それだけ、ロイドは教会のことを警戒してるのよ。〝子供商人〟もそれがわかってるから、私たちが場所の話をし始めた時に席を外したんじゃないかしら?」
今日のことを、ふと思い返してみる。
商会の机の向こう、子供じみた顔立ちの商人は、こちらが『明日の待ち合わせ場所』の話題に触れた瞬間、羽ペンを置いてすっと席を立った。ロイドも声を潜め、クロンに聞こえない分量だけで道の名を告げたのだ。
この線引きは互いのためにある。ロイドはクロンを危険に晒さないよう口を閉ざし、クロンもまた、いざという時に自分が守りきれないと知っているからこそ、聞かないままでいるのだろう。互いの信頼があるからこそ、あえて距離を置いているのだ。
「あたしらも注意しなきゃね」
「ええ。そのあたりの打ち合わせも、明日ロイドたちとしましょう」
話を終える合図のように、階下の酒場で誰かが歌い始めた。
節回しの甘い民謡が、木材を伝って薄く揺れる。窓を指一本分だけ閉め、エレナは床に置いた荷袋を開いた。
昼間の大浴場で買った小瓶──柑橘とハーブの香りを合わせた保湿オイルを取り出す。栓を抜くと、さっきまでの湯気の記憶がよみがえった。
寝台の端に腰を下ろし、掌に一滴。両手で温め、頬と額にそっと置いた。旅の風でざらついた皮膚が、ゆっくりと呼吸を取り戻していく。指先がこめかみを通ると、さっきまでの痛みが少し遠のいた。鏡はない。けれど、触れることで輪郭は確かになる。
「あたしにも貸して~」
フランがベッドの上で手を差し出すので、オイルを少し譲ってやる。
彼女は鼻先をくすぐるように匂いを嗅いで、嬉しそうに目を細めた。
「こういうの、贅沢って感じがして好き」
「必要経費よ。肌が荒れてると呪文の発音が乱れるもの」
「え、そうなの!?」
「気分の問題」
ふたりでくすりと笑う。
笑い声は低い音で重なり、すぐに消えた。
灯を落とす前の癖で、エレナは窓辺にもう一度立つ。夜風はさっきより冷えて、噴水の音も少し澄んでいた。
喧噪は危うくもあり、救いでもある。群れに紛れて、息ができるから。
(どう生きるかを決めないとね)
心の中で呟いて、息を吐く。
ロイドが『守るべきもの』を選んだように、エレナは『歩く道』を選ばなければ。
蝋燭の火を指で覆って吹き消す。薄闇が広がり、窓の外の明かりが、格子の影を床に落とした。
寝台に戻ると、隣のフランが毛布を半分持ち上げた。
「……ねえ、エレナ」
「なに?」
「これからも、宜しくね」
「ええ、こちらこそ」
短い返事に、色々な意味を詰め込む。ロイドが生きていたこと。彼が誰かと並んでいたこと。自分たちがここにいること。全部が、今日の『よかった』の欠片だ。
毛布が喉元まで引き上げられ、遠い歌声が細くほどけていく。目を閉じる直前、フランが寝返りを打ちながら口の中で何かをもごもごと言ったが、言葉にはならなかった。
灯が落ちた部屋は、思っていたよりも静かだ。床板の鳴りは止み、噴水の水音だけが細い糸になって耳にかかった。まぶたの裏で、赤い夕陽がゆっくりと色を抜き、黒髪の背中と白い横顔が重なって消える。
エレナはゆっくりと息を吐き、眠りの底へ身を沈めた。明日、朝一で廃村へ向かう。そこで話すべきことは多い。
だが、今夜は、それを枕にして眠ろう。保湿オイルの微かな香りが、夢の手前で柔らかく漂った。
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