第49話 エレナとフランからのお願い
「やけに来るのが遅いって思ったら、何だい? ここは集会所じゃないんだけど」
入ってきたロイドたちを見るなり、クロンはまさに『嫌そうな表情』そのものの顔つきで言った。眉を浅く吊り上げ、羽ペンの先で受注明細をめくりながらも、視線はじっとこちらを射抜いてくる。
案の定、空気だけで面倒事の匂いを嗅ぎ取ったようだ。このあたりの嗅覚こそが、彼の商人としての有能さを示している。
「来るのが遅れたのは悪かった。朝は色々……まあ、あってな。ちょっとだけ場所を借りたい」
ロイドは言いながら、隣をちらりと見る。フードの庇の奥から、浅葱色の瞳がこちらをのぞいた。目が合った瞬間、ルーシャは頬を淡く染め、すぐに視線を伏せる。わずかに肩が縮む、その仕草まで胸に刺さった。思わず呼吸を忘れるほどに。
クロンはその一連のやり取りを、見逃すまいとする刺客のような目で見定め、薄く目を細めた。
「……まあ、仲直りできたのなら何よりだよ。それで、そちらの女性ふたりは? ハーレム王国でも作るつもりなの?」
「誰が作るか!」
思わず声が跳ねた。自分でも驚くほど強いツッコミに、ルーシャがびくりと小さく肩を揺らす。
抑えきれない照れと、まぎれもない苛立ち。冗談でも、ルーシャがいる前でそういうことは言わないでほしい。
「冗談だよ。それで? 僕は席を外したほうがいい?」
クロンは肩を竦めて、いつもの調子に戻った。ロイドも咳払いをしてから、普段通りに返す。
「いや、居てもらっても構わない」
「それなら、遠慮せず僕はここで仕事を続けさせてもらうよ。お茶は自分たちで勝手に入れてね。鍵は閉めておいてくれ」
羽ペンの先でポットを示し、続けて扉を指す。いつもの『勝手知ってるだろ?』という合図だ。また、エレナたちは自分の客ではないのでお前らでもてなせ、という意味もあるだろう。
ロイドは頷き、扉の鍵を回した。
かすかな金属音が室内に落ちる。外のざわめきが遠のいていくのを耳で確かめると、肩の力が半分だけ抜けた。
ルーシャは黙ったままポットへと歩み寄り、手をかざして魔力を送る。手のひらの下で暖気が膨らみ、澄んだ水面がふつふつと震え始めた。本来は焚き口で沸かすのだが、ルーシャなら少量であれば魔力で湯を沸かすこともできるらしい。
焚き口に薪をくべるよりも静かな熱の立ち上がりが、妙に心地よかった。
「座ってくれ」
ロイドはソファを示した。エレナとフランは短い視線のやりとりだけ交わし、言われるままに腰を下ろす。
続いて、ふたりの正面、普段クロンが客と向かい合う席に身体を沈めた。間に置かれた低い卓が、互いの距離の境界線になる。
間もなく、ルーシャが四人分のカップを盆に載せて戻ってきた。水の音も立てず、注がれた紅茶から香りが立ちのぼる。動きがどこかぎこちないのは、フードを深く被って視界が狭いせいだろう。
「どうも」
エレナが短く礼を言い、カップの取っ手を持った。
「ありがとー……あれ? もしかして、どこかで会ったことある?」
フランが首を傾げ、フードの奥へ視線を差し込もうとする。
ルーシャはハッとして半歩下がり、顔を伏せてから首をぶんぶん横に振る。
そのままロイドの隣に、小さく腰を下ろした。袖口がそっとロイドの手の甲に触れて、体温だけを残していく。
「ロイド。それで、この方は?」
エレナの視線が、ルーシャからこちらへ戻る。青い瞳は相変わらず澄んでいる。だからこそ、嘘やごまかしは通じないような気がした。
「……この子のことを話すのは、そっちの話の後だ。俺を訪ねてきた理由は何だ? 勇者ユリウスたちに何があった?」
「勇者ユリウスだって!?」
背後で、クロンの声が予想以上に大きく跳ねた。羽ペンの先からインクが一滴、無惨にも見積もりの余白へ落ちる。
しまった、こいつにはまだ言ってなかった。ロイドが口を引き結ぶより早く、エレナがソファから立ち上がり、ローブの裾を軽く摘まんで一礼した。
「失礼しました。私、元勇者パーティーの魔導師、エレナ=ルイベルと申します。この度はいきなり押しかける形になってしまい、申し訳ありません」
「同じく、フラン=アーキュリーです」
フランも立ち上がり、頭を下げる。緩い笑顔が、謝罪の言葉と同時にやや引き締まって見えた。
クロンは呆けた顔で、しかし礼は外さずに立ち上がる。机に指先をついて深く頭を下げ、すぐさま己の立場を言葉に戻す。
「僕はクロン。ここバーマスティ商会をひとりで運営してるしがない商人さ」
「しがない? そうでしょうか? その割に、町ではやり手の〝子供商人〟と有名みたいですけど?」
「それ、僕にとっては蔑称だからね? まあ、もう自分でも受け入れてるから、構わないんだけどさ。こんなナリだから、敬語は使わなくて結構だよ」
言いながら、クロンは二人に手で座るよう促し、自分も椅子へと戻って腰を落ち着けた。
目の奥の色はすでに、取引の場での冷静な観察者のそれだ。
「全く。聖……そちらのご令嬢に加えて、元勇者パーティーのお二人が訪ねてくるとは。僕の事務所は一体どうなってるんだか」
聖女、と言い掛けて言葉を飲み込んだようだ。助かる。クロンはフードの影を一瞥し、軽やかに言い換えてみせたのだ。
そこで、フランがきょとんとして訊いた。
「三人じゃないの?」
「へ?」
「だから、元勇者パーティーの人数」
フランが指先で自分とエレナ、そしてロイドを順に指す。合点がいった瞬間、クロンの顔から血の気が引いていくのがわかる。
「ちょ、ちょっと待ってくれ……ロイド、もしかして君って」
「あれ、言ってなかったか? 俺も勇者ユリウスの元パーティーメンバーだ」
「き……聞いてないよおおおお! 初耳だよおおおお! てっきりその子の護衛かと思ってたよ!!」
子供っぽい外見に見合う素直な叫びだった。
思い返せば、この街へ来てから互いに踏み込む余裕はなかった。ルーシャの来歴を話すだけで終わってしまったのだ。今更ながらに、前提を共有してこなかったことを自覚する。
クロンは大きくため息を吐き、棚の引き出しを開けた。
「えっと、お茶菓子でも食べるかい? お腹空いてるなら、近くの料理屋から出前でも取ってくるけど」
「いきなり態度が変わったな」
「そりゃ変わるでしょ。元勇者パーティーの三人に……だなんて。もうちょっとこの事務所も厳かな感じにした方がいいかい?」
肩を竦める仕草に、呆れと同時に妙な覚悟のようなものが滲んでいる。
受け止める器は、やはり小さくはない。
「ありがとう。茶菓子だけで十分だよ」
ロイドがそう言うと、クロンは卓上に焼き菓子をいくつか並べ、「続けて」と顎をしゃくった。
自分は作業机に引き、羽ペンを握り直す。耳は、きっとこちらに半分傾けている。
ロイドは息を整え、視線をエレナとフランに戻した。
「話を戻そう。どうして俺を訪ねてきた?」
ふたりは互いにうなずき、順に口を開いた。
ユリウスがロイドの「死」を王に報告し、後釜に騎士隊長ガロを据えたこと。だがガロは実戦ではまるで役に立たず、戦線も生活も崩れ、歯車がすべて狂い始めたこと。エレナはユリウスに進言して謝罪とロイドの復帰を求めたが、その話を聞いていたガロが逆上し、エレナに手をかけようとしたこと。刹那、フランが間に入り、辛うじて難を逃れたこと。
怒りと恐怖の余熱でふたりはパーティーを脱し、ロイドを探してこの町に来た──というのが、事の成り行きだった。
「……なるほど、そいつは災難だったな」
想像の範疇ではあった不幸が、現実の温度を帯びた瞬間、喉の奥に鉄の味が広がる。
ふたりとも無事でいたことだけが救いだ。
「それで? あんなクソパーティーからようやく抜けられたんだ。わざわざ俺なんか探さなくても、自由を謳歌すればいいだろ」
そう言い切りながら、ロイドは自分の声が乾いているのを自覚する。
突き放したいのではない。だが、わざと距離を置く言い方をしているのもまた、事実だった。
ようやく今日から、ルーシャと新しい関係になって、この生活の目的と方向性が定まったのだ。今更、勇者ユリウスとの問題を持ってこられたくはない。
「それができないかもしれないから、あなたを頼ったんだってば」
エレナの声は平静だが、奥には縋るような気持ちを感じた。
フランがカップの縁を指でなぞりながら、言葉を引き継いだ。
「ロイドは一応『死んだこと』になってるから、身を晦ませるだけでいいかもしれないんだけど……ユリウスが陛下にあたしらのこと何て言ってるのかわかんないからさぁ。王命に反したのは間違いないわけだし」
「確かにな」
言われてみれば、その通りだ。ユリウスが王に報告をどう塗り替えているのか次第で、生き方が大きく変わる。
ちなみに、ロイドが死んだことにされていたのは、今初めて知った。死んだことにされているのなら、このまま辺境で暮らしを続けることも、理屈の上では可能だ。あくまでも、理屈の上では、だが。そこに、ルーシャの素性が明るみに出ない限りに於いて、という条件が加わる。
「ロイドって、私たちより陛下に近い存在じゃない? それで……もしよかったら、なんだけど。私たちと一緒に、陛下に報告に行ってもらえないかしら? 勇者ユリウスは保身のために嘘ばかり吐いていて、王命を反故にしているのは私たちじゃなくてユリウスだって。それなら、あなたも私たちも、王命からも『死んだふり』からも解放されて、元の生活に戻れると思うの」
「……そういうこと、か」
求められているのは、王に通じる保証人。自分が顔を出せば、ユリウスの虚偽報告は崩れる。エレナとフランの安全も、王の庇護の下で担保される──一応は、それが道理だ。けれど、道理だけでは動けないことが、この世にはある。
「お願い、ロイド。迷惑なのはわかってるんだけど、あたしたちも今はもうロイドしか頼れる人がいないんだよ」
フランが身を乗り出す。指先がこちらへ伸びかけ、そのまま膝の上で止まった。
頼られるのが嫌だったことはない。むしろ、過去の自分なら飛びついていただろう。
だが──ちらりと隣を見る。同じタイミングで、隣で俯いていたルーシャがそっと視線を上げた。
浅葱色の瞳が、隣のロイドを真っすぐに捉える。伏せた睫毛の影から覗くその光に、昨日の涙と今朝の温もりが重なった。
(そう、だよな)
彼女を守ると決めた。言葉にした。
ならば、選ぶべき道はひとつだ。
「……悪いけど、俺は力にはなれない」
沈黙が硬い石のように落ちた。エレナの眉がわずかに跳ね、フランの口元から笑みが消える。
昔のロイドなら、ここで首を縦に振った。頼まれれば断らない。そういう性分だった。でも、今は違う。
「理由は、聞かせてもらえる?」
エレナの声には責めはない。ただ、説明を求めているだけのようだ。
ロイドは頷き、言葉を飾らず、正直に答えた。
「まず……俺が陛下と近い存在だという話だけど、それは誤解だ。それは、俺じゃなくて、もう滅んでしまった俺の〝一族〟の話。俺個人としては、陛下と何も繋がりはない」
「で、でもッ。陛下からあたしらの補佐役を直接任命されたんでしょ!?」
フランはカップを握りしめたまま、声の震えを押し殺すようにこちらを見つめた。緑の前髪が頬に垂れ、縋るような眼差しが揺れる湯気越しに突き刺さってくる。
ロイドは胸の奥でひとつ息を整えた。
「あれだって、いきなりだった。それまで、俺は王族との繋がりなんてないと思ってたよ。一族の末裔ってだけで、ただ監視されてただけっぽい」
「そんなぁ……」
フランの肩が、しゅんと落ちる。エレナも唇を結び、目を伏せた。
彼女たちの思い描いた道筋が、一つ消えるのが見て取れた。だが、話はこれで終わりではない。
「それから、もうひとつ。仮に、お前らの予測通り俺が陛下と連絡を取れる立場だったとしても、そうするわけにはいかないんだ」
「どうして?」
「俺は……この子を、守るって決めたから。この子に危険が及ぶようなことは、正直避けたい」
ロイドが隣を見ると、ルーシャはこくりと頷いて、小さく息を吸った。
それから、フードの紐へ手を伸ばす。ぎゅっと結び目を解き、庇を指で摘まみ、ゆっくりと持ち上げた。
月光の色を含んだ白銀色の髪が、さらりと広がった。真白な肌、美しく整った顔、長い睫毛、そして浅葱色の瞳。瞬間、部屋の空気が僅かにに吸い込まれたように静まった。
ふたりは白銀髪の少女を見て、彼女が誰か思い当たると、顔色をさっと青ざめさせる。
「えっ……?」
「う、嘘でしょ!?」
エレナの目が揺れ、フランは椅子の背にもたれかかりそうになって慌てて体勢を戻した。驚愕の色は隠せない。
それもそうだ。彼女たちもまた、こんなところにいるはずがない人物を、今真正面から目にしているのだから。
ルーシャは姿勢を正し、両手を膝の上に重ねた。そして、深く頭を下げる。
「名乗るのが遅れて、申し訳ありません。ルーシャ=カトミアルです。少し前まで、聖女をやらせて頂いておりました」
紅茶の湯気が、一拍遅れてテーブルの上に揺れる。
ロイドは胸の奥でひとつだけ小さく息を吐いた。ここから先の会話は、もう後戻りのきかない段階へと入っていく。
だが、それでいい。彼女を守ると決めたなら、必要な真実は自分の側から開示するべきだ。
クロンの羽ペンが、いつの間にか音を止めていた。エレナはごくりと喉を鳴らし、フランは唇をわななかせて、ルーシャを見ていた。
夕刻の光が窓枠の角で薄く崩れ、四人の影を同じ方向へ伸ばす。誰もが次の言葉を待っていた。