第47話 浮かれ心と油断と、予期せぬ来訪者
陽はとっくに天頂を過ぎ、山の影が長く伸びはじめていた。荷車の軋みが、乾いた道に薄く響く。御者台の板は日差しを吸ってぬるく、手綱に伝う汗が指の節で乾いてはまた滲んだ。
結局、ザクソンの廃村を出たのは昼下がりに差し掛かるかどうか、という時刻だった。
あの後もベッドの中で互いを手放せず、昨夜の続きと言わんばかりに愛に耽り、気付けばお昼前。それから慌てて朝昼兼用の食事を作って食べ、洗濯に入った。少しでも洗濯を早く済ませようとロイドがシーツを洗おうとすると──
「そ、それはダメです!」
「へ?」
「それは私がやりますから! こっちをお願いしますッ」
いきなりシーツをひったくられ、別の洗い物を渡された。
「えっと……何で?」
「そ、それは……もうっ、ロイドなんて知りません!」
何故か、叱られてしまった。
その理由については、やけに恥ずかしそうにしながらシーツをゴシゴシ洗っている彼女をこっそり盗み見たことで、ようやくわかった。要するに……布地の白には、細い淡紅が滲んでいたのだ。それに気付いて何だかこちらも恥ずかしくなってしまったと同時に、罪悪感も覚えてしまった。
もしかして、昨夜、いや、今朝も痛みを感じていたのだろうか。そんな素振りを見せていなかったので、全く気付かないまま求めてしまっていた。とはいえ、さすがにこのタイミングで訊けば、また叱られてしまいそうだ。
そんなトラブルがありつつも、何とか洗濯を終え。すぐに町に発とうとしたのだが、今度はルーシャから「その……お風呂に入りたいのですが」と、おずおずとした提案があった。
昨夜から今朝にかけて流した汗が、どうしても気になったらしい。無論、ロイドも頷くしかなかった。互いに汗をかいていたのは、十分すぎるくらいに知っていたからだ。
ちなみに……さすがにふたりで入る、という話にはならなかった。浴室小屋の戸口で目を合わせ、少し気まずい笑みを交わしてから、交代で湯を使った。
これまでは何とも思わなかったのに、湯屋の戸の閉まる音と湯の音だけでも胸の奥を妙に落ち着かなくなってしまったのは、何故だろう? そんな疑問を感じながらも身支度を整え、ようやく馬を繋いでザクソン村跡地を後にしたのだった。
御者席の脇には、いつものようにルーシャが座っていた。
……いや、『いつものように』というには、あまりに距離が近かった。ルーシャは身体が触れるくらいに身を寄せてくるし、こちらを覗く浅葱色の瞳が、なんとも言えない色に濡れて見えてしまう。
(ええい、落ち着け俺! 別に、こうやって並んで座るのは初めてじゃないだろ!)
ロイドはそう自分に言い聞かせた。
けれど、汗ばむ手のひらに伝うのは手綱の感触だけではなくて。肩先にそっと寄りかかる重み、風に揺れる白銀の髪が袖口へ触れる度、今朝の白い光の下で見た白い肌が、ひどく生々しく蘇ってきてしまった。
「あー、えっと。狭くないか? 後ろなら、もっと足を伸ばせるし快適だと思うんだけど」
何でもないふうを装って訊くと、ルーシャは小さく首を振った。
「そんなことありません。十分快適ですよ?」
こちらの心中などお見通しだと言わんばかりに嫣然と微笑み、身体を預けてくる。
その仕草は妙にあどけなく、しかし、ほんのり赤く染まった頬は、あどけなさだけでは説明がつかなかった。
「そ、そっか。それなら俺は、構わないんだけど」
ロイドはそう言って咳払いをひとつすると、手綱をわずかに締めた。
(……ルーシャって、こんなに色っぽかったっけ?)
隣の彼女をちらりと盗み見て、そんな感想を抱く。
ルーシャはどちらかというと天然で、それが故に天真爛漫さやあどけなさが彼女の魅力だった。しかし、一夜にしてそれらの魅力に妙な色っぽさが加わったように感じる。こう、何気ない仕草や表情のせいで、いつ何時でもドキドキさせられっぱなしになってしまうのだ。
それはきっと、まだこの変わってしまった関係に慣れていないロイドと異なり、ルーシャはもう馴染んでいる、というのもあるのだろう。要するに、こと恋愛に於いては彼女の方が大人で、そして肝っ玉が据わっていた、ということだ。
自分も精進しなければ、と改めて思わされた。
そんなこんなで馬車に揺られるがまま、丘を越えて畑を抜け、やがてグリテリッジの外郭が見えてくる。低い木柵と見張り台。小川に架かった古い石橋。市日の前日なので街道は空いており、荷馬車はまばらだ。町に入る手前で検めの男に軽く合図を送られ、ロイドはいつも通りに右手を挙げて返した。
夕方より少し前の陽は、町並みの壁を斜めに撫で、看板の字を半分だけ白くした。
バーマスティ商会の前まで来ると、馬の歩調を落とし、通りの端にある馬繋ぎ場へ寄せる。繋ぎ金具は使い慣れた角張った鉄製だ。
ロイドは手綱を杭に巻き、結び目を確かめてから軽く馬の頬を撫でた。馬は短く鼻を鳴らす。
「お疲れ。水でも飲んで、ゆっくり休んでてくれ」
毎日のように働いてくれる馬にそう言い置いて、御者台から降りた。いつもなら、息を揃えるようにルーシャも地面に降り立って、そのまま並んで商会へ向かう。今日も例外ではなかった……はずだった。
だが、商会の扉の前に立った時、ロイドはふと隣を見て、予期せぬ胸の高鳴りを覚えた。
フードの影から見える、控えめな唇の線。昨夜と今朝、何度も何度も触れて、重ねて、そこからこぼれた息と微かに漏れた艶やかな声──それらが一気に脳裏を蘇ってしまった。今着ているベージュのワンピースの下に触れた熱も、指の腹に吸いつくような肌の滑らかさも。
(って、バカか俺は! 落ち着け。仕事の話をしに来てるんだぞ、俺は)
自分に言い聞かせ、平静を装う。
ダメだ。全くもって、いつも通りではなかった。思考が雑念に溢れすぎている。いや、ルーシャを見るだけで雑念が嫌でも溢れてくるのだ。
ただ、それだけきっと、彼女との繋がりがロイドにとっては特別なものだったのだろうとも思える。こんなに誰かと深く繋がりあったことなど、これまでの人生でなかったのだから。
「ロイド……? どうかしましたか?」
怪訝そうな声。フードの奥から浅葱色がこちらを覗いた。
心臓が、余計に跳ねる。
「い、いや。なんでもない」
言いながら、自分の声が僅かに上ずるのがわかった。
そんなロイドを、彼女は訝しむように見つめていた。
「……何だかロイド、えっちなことを考えている気がします」
「な!? そそそ、そんなことはッ」
反射的に否定した。耳の後ろが熱くなるのを自分でわかる。距離を取ろうとして半歩引いたら、扉に背中が当たり、ぎし、と古い蝶番が鳴った。
何でわかったんだ。聖女のスキルに読心術でもあるのだろうか。恐ろしすぎる。
「もう、ロイドったら。冗談ですよ?」
ルーシャは一転、くすくすと笑って肩を震わせた。
からかわれただけだったようだ。それなのに、図星を衝かれたせいで、反論の言葉が何も出てこなかった。
(ああ、ちくしょう。もう今日はダメだ……報酬だけもらって帰ろう)
自嘲気味に息を吐き、気持ちを切り替えようと扉の取っ手に手をかけた、その時。
自分がどれほど浮かれていて、警戒心を薄めていたかを思い知らされた。ロイドは、自分たちの背に立つ気配に気付きもしていなかったのだ。
「……やっと姿を見せたわね、〝なんでも屋〟さん。いえ、元勇者パーティーのロイド=ヴァルト、と言った方がいいかしら?」
背中に、女の声が突き刺さる。
よく通る声、それからどこか聞き覚えのある声でもあった。
反射的に腰の魔剣に手をやり、振り返った。
「誰だ──え!?」
予想だにしていなかった者の姿が、そこにあった。
視界に入った二つの影を捉えた瞬間、ロイドは目を見開く。
「張ってた甲斐あったねー。てかロイド、本当に女の人と一緒にいたんだ。びっくり~」
もうひとつ明るい調子の声が重なった。軽口めいた響きに、背中の筋肉だけが余計に固くなる。
通りの逆側、庇の陰から現れた女がふたり。どちらも、見間違えようがなかった。
「どうして、お前らが……?」
狼狽するロイドの隣で、ルーシャがわずかに肩を竦め、フードの端を指で押さえた。
目の前に現れたのは、青髪の美しい女魔導師と、まだ幼さの残る緑髪の女回復術師。
勇者パーティーでともにした、エレナ=ルイベルとフラン=アーキュリーに他ならなかった。