第46話 ふたりだけの特別な朝を、もう少し
鳥の声が、遠くで小さく転がった。崖の上を渡ってきた風が、窓の隙間でやわらかく鳴る。寝台の毛布は夜の温もりを抱いたまま、朝の光を斜めに受けていた。
最初に気づいたのは匂いだった。乾いた木綿と、洗い立ての髪の香り、そのどこかに微かに甘い草の気配が混じっている。
そして──胸の前に回した腕の内側には、もっとはっきりとした温もり。あたたかく柔らかで、確かな重みがそこにある。指先が触れるそれは驚くほど滑らかで、ずっと触れていたくなるほど、心地よかった。
眠りの底から浮かび上がると同時に、頬に柔らかなものが触れた。細い呼吸のたび、肩口がふわりと上下する。
(なんだ、これ……?)
瞼を押し開いてみると……真っ先に目に飛び込んできたのは、浅葱色の瞳。それから、白銀の髪と、白い肌。
──ルーシャ=カトミアル。
ロイドにとって最も大切な人だった。
「え!?」
吃驚の声が、勝手に漏れた。
というのも、ロイドの腕の中にいる彼女は、一糸まとわぬ姿だったのだ。そして、柔らかな笑みを浮かべながら、興味深そうにただじっとこちらを見つめている。
驚いて体を引きそうになって、指先が彼女の腰骨をかすめ、その滑らかさにはっと我に返った。
「あっ……」
夢かと思った。だが、頬にかかる髪のさらさらとした感触も、毛布の中の体温も、現実のものだった。そして……この柔肌の手触りも、昨夜散々触れたものに、違いない。
そこで、記憶が光の粒を一つずつ拾い上げるみたいに戻ってきた。
彼女の慟哭とぶつかり合った言葉。抱きしめた時の、彼女の身体の震え。許しと、願いと、告白。
唇が触れた瞬間、右手の痣が別の鼓動を打ったこと。黒と白が融け合い、ひとつになったこと。
あの時は、それどころではなかったけれど……きっと、あれこそが〈共鳴〉だったのだ。ロイドにとっては、人生で初めての共鳴。そして、ルーシャにとっても、おそらく初めてのものだった。
その幸せな余韻は、まだ体の奥に微かに残っている。
「おはようございます、ロイド。今日は私の方が早起きでしたね」
ルーシャはほんの少しからかいの意図を含んだ笑みを浮かべてみせた。
それだけで、胸の奥がきゅっと引き締まる。愛おしい。いつも以上にそう思ってしまっていた。
「……だな」
ロイドは苦い笑みを浮かべた。
いつもはロイドの方が彼女より少しだけ早く目を覚ます。焚き火の灰を起こす前に、白銀の髪を横から眺めて、寝顔を確かめるのが習慣になっていた。
今日は、その役目を彼女に奪われたらしい。
「たくさん、ロイドの寝顔を見れました」
「やめてくれ。どうせ、間抜け面してたんだろうし」
「そんなことありません。可愛かったですよ?」
「か、可愛いって……」
それはこっちの台詞だ、と言い返そうかと思ったが、口を噤む。毎朝寝顔を眺めていたのがバレてしまう。
そんなロイドの本音を知ってか知らずか、ルーシャは愛おしそうに、ロイドの頬にそっと手を添えた。彼女の手のひらは驚くほど温かく、けれど指先はひんやりとしていて、何だか妙に安心してしまう。
こんなふうに、誰かの手のひらが自分の顔に触れるのを、いつから忘れていたのだろう。遠い遠い子供のころに、一度だけあった気がする。覚えているのは香りだけで、顔はもう霞んでしまったけれど──それでも、何だか懐かしい。
ロイドは彼女の指を、そのまま自らの手で包んだ。細く、綺麗な手。昨夜、ロイドの胸の鎖を外したのは、この手だった。
互いの手を取って、見つめ合う。お互い、理由もなく吹き出した。
「なんだか、恥ずかしいですね。明るいというのも、あるのでしょうけど」
「それは……わかる、気もする」
暗闇の中では、ある意味お互いの表情がそこまで見えなかった。手探りで確かめるぬくもり、呼吸の近さ、合わさる鼓動。そんなものだけがあった。
ところが朝は、全てを見せてしまう。差し込む光は優しいのに容赦がなく、頬の赤みも、ほどけた髪も、その白い肌も、はにかむような笑顔も。毛布の端を摘まんで彼女の肩に掛け直しながら、胸の奥で落ち着きのないものが跳ねた。
窓の外では、霜の残りが陽にきらめきはじめていた。ガラス越しの光は、室内を照らし、床板の節目を柔らかく潰す。
「今日は、どうしましょうか?」
彼女の問いかけは、まるで日常の最初の頁をめくる合図みたいに聞こえた。
昨夜のあれこれは、ここで「いつもの続き」に繋ぐ必要がある。そうしなければ、きっとふたりは今日一日中、ここで毛布の中で過ごしてしまうだろう。何となく、そんな気がした。
「そうだな……朝食を食べて、洗濯して、それから……昨日の報酬を貰いに行かないとな」
口に出してみると、酷く普通の一日だ。
だが、この普通が新しく見える。食卓の位置も、井戸の把手の冷たさも、クロンの事務所の二階に昇る狭い階段も、全部、少し違って見えるだろうと、何となく思った。
彼女は目を細めて頷いた。
「予定がたくさんですね」
「ああ」
言ってから、沈黙が落ちた。
毛布の中の温度が、ふたりの呼吸に合わせてゆるく上下する。開け放しておいた窓の隙間から、外の冷気が足首を撫でた。
いつもより、日が高い。普段よりも起きるのが遅いのは、何となくわかっていた。身を起こさなければ、洗濯も朝食もできやしない。それがわかっているのに、体が動かなかった。
いや、違う。動きたくないのだ。
今朝はきっと、これから幾千も訪れるはずの『ふたりの朝』の一回に過ぎない。今夜もまた同じ寝台で眠るだろうし、明日の朝もこうして目を覚ます。
それでも──こうしてふたりで迎える『最初の朝』は、今日しかないのだ。
彼女も同じことを思っている気配があった。視線がふと合うと、彼女は何か言いかけて、唇を閉じた。白銀の髪が肩先から胸元へ流れ落ち、毛布の上に一筋の光を作る。
胸が痛いほどに満たされる、という矛盾した感覚を、この時初めて知った。
気付けば、ロイドはこう言っていた。
「なあ、ルーシャ」
「なんですか?」
「もうちょっとだけ、こうしてたい」
言いながら、自分でも子供じみていると思う。そんな戯言は、空腹や洗濯物の山の前では簡単に押し潰されてしまうだろう。けれど、今だけは譲りたくなかった。
彼女は驚いたように目を瞬かせて、それから、ほわっと顔が綻んだ。
「……私も、同じことを思ってました」
安堵したかのように、ルーシャの肩の力が落ちる。
そんな彼女が愛おしくて、ロイドは彼女の額に自分の額をそっと合わせた。皮膚越しに、静かな熱が行き来する。
毛布の中で、彼女の手が探るように動いて、指を絡めてきた。細い指は、思いのほか強くロイドの手を握る。言葉はいらないのだと、指先だけで伝わってきた。
「ロイド……」
愛おしげに名を呟き、ルーシャが瞳を閉じた。長い睫毛が、光を受けて薄く影を作る。
ロイドも目を閉じた。頬に彼女の吐息がかかり、鼻先に甘い匂いが届く。ゆっくりと距離を詰めて……唇が触れた。
触れるだけの、短い口づけ。けれど胸の奥のどこかが、昨夜の音色を思い出して、微かに震えた。黒と白が、音も立てずに重なっていく感覚だけが、静かに続く。
一度唇を重ねれば、それが何かの合図のように、また何度も重なり始める。彼女を抱き締める腕に力が入り、それに応えるようにして、ルーシャもロイドの首に自らの細腕を回した。
窓の外で、風がまた鳴る。鳥の声がもう一度転がり、廃村の屋根に朝を散らした。
日常は、すぐそこに待っている。だけれど、ほんの少しだけ──ほんの少しだけ、ふたりの特別な朝を、延ばしたかった。
ふたりで分け合う初めての朝はあまりにも柔らかく、そしてそこには、確かな幸せがあったのだから。