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番外編 エレナ&フラン、グルテリッジの大浴場にて

 丘を削って据えた木柵の門を抜けると、赤褐色の石壁が段々畑みたいに重なって見えた。

 斜面に貼り付いた家々の屋根は日差しを受けて鈍く光り、路地の奥からは行商の驢馬の鈴と、値切り合う声が綱引きみたいにせめぎ合っている。中央の広場では、青緑に曇った銅の噴水が水を跳ね、果物の山と布地の反物、その場で叩いた鋲打ちの革靴が所狭しと並んでいた。酒に赤らんだ傭兵の肩がぶつかり、一方で染め物屋の桶からは薬草の匂いが立ちのぼり、子どもらは白い石灰で地面に印を引いて跳ね回る。

 危うい熱気と稼ぎの匂いが一緒くたになって、ここが辺境の出入口であり、金の集まる場所でもあることを、空気で納得させられる──それが、グルテリッジという町だった。


「やっと着いたぁ」

「結構時間掛かったわね」


 エレナとフランは広場の長椅子に腰かけると、ぐったりと足を伸ばした。農村からグルテリッジまでは乗せてくれる牛車と巡り合えず、殆ど徒歩だったのだ。

 門から広場までは、ほんの数百歩だというのに、疲れからか、足取りは妙に重かった。旅塵が靴にこびりつき、袖口の汗は乾いて固まっている。先日のオーク退治からそのまま歩き通しだ。水は節約して飲んだが、喉の奥はまだざらついている。


「ねえねえ、お風呂あるって! 行こ!?」


 横でフランが、見つけたばかりの張り紙を指さして跳ねた。湯気を模した丸い印と、『旅人歓迎・大浴場』の文字。


「そうね……さすがにこの状態で聞き込みっていうのもどうかと思うし、先にお風呂にしましょうか」


 自分の手首を見る。埃が線を描き、指の間は灰色にくすんでいる。

 髪も肌も、砂糖菓子のようにざらりとして、寝返りを打つたびに砂がこぼれ落ちそうな感覚だった。彼女の提案に頷くのに、躊躇いはない。

 大浴場は、広場の裏手にあった。引き戸を開けると、柑橘の皮を干したような明るい香りが鼻をくすぐる。

 先に支払いを済ませると、籠に衣を入れ、湯気の立ちこめる室へ足を踏み入れた。


「やったー! おっ風呂~!」


 フランが子供みたいにはしゃいで見せた。

 実際に彼女の体型はやや幼いので、子供みたいに見えなくもない。

 ただ、はしゃぎたくなる気持ちはエレナも同じだ。湯の面が柔らかく揺れ、石の壁に反射する光が細かく踊っている。この白い世界は、それだけで心を癒してくれた。


「ほら、湯舟に入る前にちゃんと洗いなさいよ」

「わかってるよ、もう。子供じゃないんだから」


 そんなやり取りをしつつ、まずは洗い場へ。木桶に湯を汲み、肩に浴びる。熱が、固まっていた背を一枚ずつ剥いでいくようだった。

 髪に湯を通すと、砂と汗が一筋に流れ落ちる。思わず目を閉じる。湯の音だけが耳の奥で大きくなる。どこかで小さく笑い声がした。女たちの話し声と湯のはぜる音が、規則もなく重なってはほどけていく。


「やっぱり、エレナって大きいよねぇ……羨ましい」


 横でフランが、こちらをじっとりと見てしみじみと言った。


「ちょっと。じろじろ見ないでよ」


 タオルを胸元に引き上げる。旅の最中は気にする余裕もなかったが、こういう場所に来ると、自分の身体は否応なく目に入る。

 母に似たのだと昔から言われており、嫌でも男の目を引くスタイルだった。そのせいか、魔導学院時代も言い寄られることも多かった。

 当時から同級生からは羨ましがられていたが、個人的に得を感じたことがない。いや、どちらかというと、損だと思ったことの方が多かった。つい最近も、勇者サマの御供、もとい、子宮の中に理性を置き忘れてきた使えない〝精子脳ゴミ男〟に酷い目に遭わされそうになったばかりだ。


「じろじろ見ないから、触っていい?」

「嫌よ」

「ええ、いいじゃん。減るもんじゃないし」

「何であなたが酔っぱらいのおっさんみたいなこと言うのよ!」

「じゃあさ~、洗いっこしよ?」

「はあ……もう」


 エレナは抵抗を諦め、結局互いの背を流し合うことにした。

 フランの肩甲骨は小ぶりで、触れると鳥の翼の付け根のように軽い。骨張っているというよりは、成長途中の柔らかさをまだ残している。


「はあ、このおっぱい。ロイドにくれてやるには惜しいぜ」

「何でそうなるのよ! くれてやらないわよ」


 そんな軽口を言い合いつつ、泡を流し、髪を結い直す。

 それから、ようやく待ちに待った入浴タイム。浴槽に身を沈め、縁に肘をかけると、溜息が自然にこぼれた。

 体温と湯温が溶け合って境界を無くしていく。心臓の鼓動が静かに整い、頭の中のざわめきが一枚、また一枚と静まる。


「〝なんでも屋〟かぁ……どこに行けば会えるんだろうね」


 フランが湯の中で足をぱちゃりと揺らした。水面に走る波が、向こうの柱に金の線を描く。


「まあ、暫く聞き込みをしていくしかないでしょ」


 そう口に出してみれば、道筋が一本見える気もした。

 けれど同時に、胸の奥が少しだけ重くなる。

 

『黒髪の剣士が女連れでなんでも屋をやっている』


 村で拾った断片が、湯気の向こうでぼんやりと形を持つ。

 黒髪の剣士。そこまでなら、彼の背中に重なる。だが、女連れという文言が引っ掛かる。エレナたちの知る彼は、女を連れて行動するタイプではなかったからだ。


「あら。あなたたち、〝なんでも屋〟を探してるの?」


 斜め向かいの湯の縁から、女の声がした。

 年の頃は二十代半ばだろうか、浅黒い肌に健康な艶がある。髪を高く結い、湯気に濡れた頬に笑窪が浮かんでいる。


「知ってるの!?」


 フランが身を乗り出した。湯が揺れて、縁に小さな波紋がいくつも走る。


「知ってるも何も、〝なんでも屋〟はこの町の救世主みたいなものよ」


 女は誇らしげに言った。その響きに嘘は混じっていない。町の者として実感している口ぶりだった。


「救世主って、どういうこと?」

「昨日、ちょっとした事件があったのよ」


 彼女は、昨日起きた事件について語った。

 ここ最近、影狼(シャドウウルフ)の群れが現れて、輸送部隊や離れの農家を狙いはじめていたこと。荷馬車が襲われ、積荷が切り裂かれ、何人もが怪我を負ったこと。このままでは物流が止まり、日々の食卓にも影響が及ぶ──そんな折に、〝なんでも屋〟が依頼を受け、たったふたりで一夜のうちに群れを討伐したのだという。


影狼(シャドウウルフ)の群れをたったのふたりで、ですって!? しかも夜に!?」


 思わず声が上ずった。

 湯気が一瞬、熱を増したように感じる。

 フランも目を丸くしていた。


「……それ、めちゃくちゃ強くない?」

「ええ、強すぎるわよ。尋常じゃないわ。どこぞの勇者サマも見習ってほしいくらいね」


 皮肉を口にしながら、顎に指を当てる。

 湯の縁がひんやりとして、指先だけが現実に戻る気がした。

 影狼(シャドウウルフ)は、影に身を隠す魔物だ。闇が濃くなるほど強くなる。夜ならば、尚更手がつけられない。単体なら対処法もあるが、群れとなれば厄介さは桁違いだ。

 影から影へ移ろうあの素早さは、前衛が足を止め、後衛が一手で仕留める連携が必要になる。前衛のいない自分たちが遭えば、選択は『逃げる』一択。いや、逃げ切れるわけがない。間違いなく、『死』あるのみだ。


(ふたりでどうやって倒すの? よっぽど強い〈共鳴スキル〉があるとか? でも、ロイドに〈共鳴スキル〉は……)


 そこまで考えてから、脳裏に赤い影がよぎった。火ではない。血潮のような光だ。

 黒髪の男が、ひと振りで空気を裂いた瞬間。レッドドラゴンが逃げ去っていったあの夜の、狂気の熱。忘れるはずがなかった。


「あっ」


 自分の声に、少し遅れてフランの「もしかして」が重なった。目が合う。


「もしロイドの力を解放したら……」

「……ええ。影狼(シャドウウルフ)ごときなら、跡形もなくなるでしょうね」


 ロイドの隠された力・〈呪印(マリス・グリフ)〉。彼の肌に刻まれた、制御不能の力。〈共鳴(きょうめい)〉を拒む異端としての烙印でもある。

 だが、その力を目にしたのは事実だった。最悪の切り札。使えば戻れなくなるかもしれない剣。それでも、群れを相手にするなら、あの狂気は理に適ってしまう。


「あら、知ってるじゃないの。そのロイドって人よ、〝なんでも屋〟って」


 女がぱちりと瞬きをした。

 湯気越しの視線が、こちらの反応の速さを面白がっている。


「やっぱり!」


 フランが湯の中で手を打った。湯がぱしゃりと跳ねて、彼女の前髪に水玉がひとつぶら下がる。

 胸の奥で、何かが強く打った。彼の名と、彼の可能性。希望の音に似ている。だが、同じだけ不安の音でもある。


「その〝なんでも屋〟ってふたり組って聞いたけど……」


 自分でも声が硬いのがわかる。

 湯で温まった身体と、不意に冷えた胸の中の温度差が、言葉に出た。


「ええ、そうよ。剣士のロイドさんと、修道女の二人組。たまに町で見掛けるわよ? 女の子の方はいつもフードで顔を隠してるけど、顔を見た人はすっごく可愛いお嬢さんだったって言っていたわ」


 やはり、村で聞いた情報と殆ど同じものが出てきた。

 エレナとフランは、自然と目を合わせる。


「すっごく可愛い修道女、ねえ……?」

「ん~、女かぁ」


 互いに、顔の筋肉が微妙な位置で止まった。

 笑うのでも、渋面を作るのでもない。判断できない感情が、表情筋を宙ぶらりんにする。


(あのロイドが女と組むかしら?)


 思考は否定に傾く。

 彼は群れない。誰とも距離を取る。少なくとも、自分の知る彼はそうだった。

 だが同時に、影狼(シャドウウルフ)の群れを討てる『ロイド』という名の剣士が、他にどれほどいるのか。世界は広いが、偶然がそう何度も続くとは思えなかった。


「ねえねえ、その〝なんでも屋〟さんって、どこに行けば会えるの?」


 フランが身を乗り出して訊いた。

 彼女の率直さは時に事態を動かす。こういうところは、エレナにない彼女のいいところだった。


「さあ……? 町では見掛けるけど、どこに住んでるのかはわからないのよね」

「え? 個人で依頼を引き受けてるんじゃないの?」

「いえ、違うわ。町の人は〝子供商人〟に困り事の相談をしていて、その〝子供商人〟を経由して〝なんでも屋〟は依頼を引き受けてるって話よ」


 ますます、首を傾げるふたり。

 子供商人って、何なんだ。そんなおままごとみたいな職業がこの町にはあるのだろうか。

 フランが重ねて尋ねた。


「子供商人って? 子供が商いしてるってこと?」

「ああ、ごめんごめん。子供みたいに童顔な商人さんがいるのよ。この町じゃ有名なやり手商人よ」


 子供商人──言葉の響きは冗談めいているが、紹介ぶりからして実際の子どもではないとわかる。やり手というその一言が、この町での影響力を物語っていた。

 フランと視線を交わし、互いに頷いた。そこに行けば、〝なんでも屋〟に近づける。遠回りのようで、最短だ。


「その〝子供商人〟さんとは、どこで会える?」

「バーマスティ商会に行けば会えるわよ。町に事務所があるから、そこに行くといいわ」

「ありがとう、お姉さん!」


 フランがぱっと笑い、エレナも続いてぺこりと頭を下げる。女は「いいのよ」と手を振って、湯の縁へ顎を乗せた。

 湯から上がると、張り詰めていた筋肉がふっと緩んだ。髪を拭き、軽い油を手のひらに延ばして毛先に馴染ませる。鏡の中の自分は、思っていたよりも疲れていた。目の下の影は薄くなったが、瞳の奥の翳りは消えない。

 脱衣所を出ると、外の空気がひんやりと肌を撫でた。夕暮れが近い。噴水の水音は少し低く響き、屋台の呼び声は昼よりも太くなる。火の用意が始まり、串焼きの匂いが通りに満ちた。

 宿を取る前に、商会の位置だけでも確かめたい。そう思ったが、フランの靴音が一歩、遅れた。振り返ると、彼女は湯上がりの頬を手のひらで扇いでいる。


「ね、宿だけ取って、早速行ってみない?」

「ええ、そうね。それがいいかも。一応、寝床だけでも確保しとかないとね」

「あっ、やっぱご飯も食べよ。お腹空いた!」

「はいはい。わかったわよ、もう」


 エレナは苦笑いを浮かべて、彼女に同意した。

 全く、この子の無邪気さときたら、本当に同い年かと疑いたくなる。だが、こんな彼女がいたからこそ、あの勇者パーティーでも、そして脱退してからも明るく過ごせたのだろう。

 エレナにとっては、これ以上ない相棒だ。


(さて……どうなることかしらね)


 その〝なんでも屋〟のロイドがロイド=ヴァルトかどうか。

 エレナたちの未来は、その一点にかかっていた。

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