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第45話 黒と白が混ざり合う時

「ロイド……まだ、起きてますか?」


 毛布越しに、遠慮がちなルーシャの声が聞こえてきた。

 それは問いかけというより、まるで縋るような声だった。


「……ああ。起きてる」


 返事をすると、背中の向こうの沈黙が、僅かに形を変えた気がした。

 少しだけもぞりと毛布の中で、彼女が動く。そんな僅かな動作からも、彼女の躊躇いと不安を感じた。


「あの……私、何かしてしまいましたか?」


 意を決したかのように、ルーシャが訊いてきた。

 朝と同じ問いかけ。朝と違うのは、声が小さく震えている、ということ。

 そこに、ロイドを責める色はない。答えを探しているだけだった。

 その声音から、今日一日どれだけ彼女が悩んでいたかが伝わってくる。ロイドの胸に、細い棘が刺さった。


「今日一日、ずっと考えていました。でも……どうしてロイドから避けられているのか、全然わからなくて」


 彼女は堰を切るように続けた。喉を締め付ける音が、ほんの少し混ざる。


「だから……私に理由があるなら、教えてほしいんです。私、ちゃんと直しますから」


 ちゃんと直す──そんな言葉を彼女に言わせてしまったことそれ自体が、新たな後悔を生んで、ロイドの腹の中に沈んでゆく。

 彼女の声は、懇願そのものだった。まるで、叱られた子供が親に見捨てられまいと、必死に自分の悪いところを探しているかのように。

 もちろん、ルーシャは何も悪いことなどしていない。彼女が直すべきところもないし、彼女に何か責任があるわけでもなかった。悪いのは、全てロイド自身だ。


「別に、ルーシャが悪いんじゃない」


 背を向けたまま、ロイドは口を開いた。

 もうここまで来たら……話すしかないだろう。いや、話さないことには、もうこの状態をどうにもできない気がした。

 深く突っ込んだ結果、ロイド自身が苦しむことになるかもしれないし、彼女にも嫌な思いをさせてしまうかもしれない。でも、話さないことには、何も始まらないだろう。いや、むしろもっと悪い方向に行きかねなかった。今日一日を通して、それを実感した。

 意を決して、続けた。


「寝言をさ……今朝、ルーシャが言っててさ」

「寝言、ですか?」


 想像もしていなかったのだろう。

 ルーシャがきょとんとしていた。


「ああ。『エリオット』って」

「あっ……」


 背中越しに、ルーシャの息が詰まる。何かに思い当たったのだと察せられた。

 ロイドは息を整え、荒削りのまま言葉を差し出す。


「その名前を聞いたのは初めてだったけど、何となくわかってさ。ルーシャのことを逃がしてくれた奴、だろ?」


 ルーシャはその問いに何も答えなかった。

 無言は肯定だと思い、言葉を紡いでいく。


「ずっと前から、頭の片隅で思ってたんだ。もしそいつが生きていたなら、そいつこそがルーシャの傍にいる人間として相応しくて……俺みたいな呪われた奴は、近くにいるべきじゃないって」

「ロイド……」

「もしそいつが生きてて、本当にお前を迎えに来たら……俺はその時、またひとりになるだろ? だから、今のうちにひとりで立てるようにならなきゃって。そう、思ったんだ」

「それが……今日、私のことを避けていた理由ですか?」


 そう尋ねるルーシャの声は、やや掠れていた。

 掠れていたけれど、いつもより冷たく感じてしまう。

 それは、ロイドが彼女に対して後ろめたさを感じているからだろうか。それとも、本気で軽蔑されてしまったからだろうか。それはわからない。


「ああ。ルーシャに頼りきりじゃダメだ。ひとりで何でもやれなきゃ、将来困るのは俺自身で──」

「どうしてそういうこと言うんですか!」


 ルーシャの怒りにも似た声が、ロイドの言い訳を遮った。

 いきなり大声を出されて、思わずびくりと肩が震える。

 ルーシャが続けた。


「私は……ロイドと一緒にいたいから、今もここにいます。ここでの暮らしも、〝なんでも屋〟さんも……凄く楽しいですから。ロイドと出会ってから、楽しいことしかないのに。それなのに、どうしてそんなことを言うんですか!?」

「ルーシャ……?」


 予想もしていなかった言葉に、ロイドは驚いて振り返った。

 毛布がずれ、視線がぶつかる。暗がりの中でも、頬を伝う光の筋は、はっきりと見えた。


「確かに……エリオットには、修道院の頃からずっとお世話になっていました。私の数少ないお友達でもありますし、特別な存在であることは否定しません。でも、それは……異性として好きとか、そういうのじゃないんです」


 ルーシャは涙を拭わず、そこまで言い切った。

 僅かに顔が赤くなって、でも視線を逸らさずじっとこちらを見据える。

 そして、彼女はこう想いを紡いだ。


「だって……私が好きなのは、ロイドですから」


 信じられない告白の言葉に、ロイドの口から「え?」と間抜けな声が漏れた。

 胸のどこかが抜け落ちる感覚。思いもよらない言葉が、心の奥へ鋭く突き刺さった。


「やっぱり、気付いてなかったんですね」


 涙の縁に小さな笑みが揺れた。拗ねたような、呆れたような、照れを一滴(ひとしずく)混ぜた表情。

 いつものルーシャらしいと思わせてくれる、可愛らしい笑みだった。


「私が何とも思ってない男性と一緒にお風呂に入ったり、一緒のベッドで寝たりする女だと思ってたんですか?」


 少しからかうような、咎めるような口調で、彼女が訊いてきた。


「それは……」


 言葉が詰まる。

 確かに、どこかでおかしいとはずっと思っていた。だが、ロイドはそれを『無邪気だから』という理由で処理しようとした。いや、処理したかったのだ。自分が、変な勘違いをして傷つかないために。


「私だって、もう子供じゃありません。男性とふたりで暮らすことの意味も……わかっています。その覚悟も、持っていました。ずっと、最初からです」

「最初からって……マジか」


 気付いていなかった。ルーシャの純粋なまでに真っすぐな気持ちに、ロイドは欠片程にも気付いてやれていなかった。いや、気付こうともしなかったのだ。(あまつさ)え、惹かれる気持ちを必死で抑え込んでいた。

 確かに、妙に優しいなと思ったことなら何度もあった。旅の間はいつもロイドの服まで洗濯してくれていたし、料理も作ってくれた。自ら進んであれやこれやとやってくれていた。それは、この廃村に着いてからも同じだ。聖女様がどうしてここまでしてくれるのか、何度も疑問に思った。それが、まさかロイドに対する想いや恋心から来るものだったなどと、一体誰が考えようか。

 だが、一緒に寝ようと言ってくれた時、一緒にお風呂に入ろうと言ってくれた時……それらのことにも、そういう覚悟がもともとあったとするなら、頷ける。

 だが、そこでロイドにひとつの疑念が生まれた。


「でも……それは、俺しか頼れる奴がいなかったからなんじゃないか? 他に頼れる人がいないから、それで勘違いして、とか。仮に、そのエリオットって奴が一緒に逃げてたら──」

「違います!」


 痛いほど強い否定。

 その浅葱色の瞳が凛と輝く。


「何で、そんなことばっかり言うんですかァ……ッ」


 ルーシャは堪え切れなくなったのか、声を震わせながらしゃくりあげた。

 そこで気付いた。またやってしまった、と。

 自分の中にある不安のせいで、また彼女を傷つけてしまったのだ。


「ロイドだったら、そうなってもいいって……そうなりたいって、思ってるからじゃないですか。そうでないと、あんな恥ずかしいこと、言えません。どうしてそんなこともわかってくれないんですか……?」


 大粒の涙が、頬を伝って毛布へと落ちた。

 じわりと涙が浸みて、広がっていく。


「……私、これまで男性にほとんど触れられてません。大事にしてきました」


 ルーシャは上目遣いでロイドを見つめたまま、そう言った。

 その語尾には奇妙な熱が籠っていて、媚態さえ感じさせる。

 彼女の女としての覚悟が、そこにはあった。


「お前な、それだけ大事にしてきたなら尚更──」

「大事にしてきたから、大切な人に捧げたいって思ってるんじゃないですか!」


 涙をぼろぼろと零しながら、何かを切望するようにこちらを見ている。

 何か、ではない。ロイドは彼女が何を求めているのか、よくわかっているはずだった。そして、いい加減自分自身、それに抗うのにも限界が来ていると感じていた。

 ルーシャと行動を共にするようになってから、ずっと密かに抱いていた感情が爆発しそうになる。

 何とも思っていないはずがなかった。彼女の一挙一動に視線が奪われたし、微かに漂う洗髪剤や香油に胸を高鳴らせていた。聖衣から垣間見えるその白い肌や首筋を知らずのうちに目で追っていたし、風呂上がりに見せるうなじの色気にいつも狂わされそうになるのを必死で抑えていた。

 そんな欲求や本心に気付かないようにして目を背けていたのは、他ならぬロイド自身だ。彼女に相応しい男ではないと自らに言い聞かせて、そして、いつか彼女がいなくなるかもしれないと思い、その本音を押し殺してきた。


「私……ロイドが好きです。私は、ロイドの傍にいてはいけないんですか? ずっと一緒に、いたいです」

 

 ルーシャは懇願するように言うと、恥ずかしさからか、ロイドの胸元に顔を埋めた。


(俺は……バカだ)


 そう思いつつ、そっと彼女を抱き寄せた。細い背が腕の中で震える。

 そこにある、確かなあたたかさと甘い香り。それらが、長い孤独をロイドから剝ぎ取っていく。

 どうしてこんなに想われていたのに、気付かなかったのだろう? どうして見て見ぬふりをしていたのだろう?

 あまりにも愚か過ぎる。昨日も一昨日も、その前も……普段通りに接している中で、きっと彼女は心の中で孤独を感じていたのではないだろうか。ロイドがその想いに気付いていなかったばかりに。

 彼女がここまで言ってくれたのだ。ここで想いを口にできないのは、男として終わっている。


「……俺も。俺も、同じ気持ちだよ。誰かと一緒にいて、こんなにあたたかいって思えるなんて……初めてだったんだ。けど、ルーシャは聖女で、俺とは身分が違うと思ってた。こんな感情抱いちゃいけないって、自分で鎖をかけてた。それに、俺は日陰者だし……上手く人と心を通わせられない。そんな時に『エリオット』って名前が出てきて、色々不安になったんだ」


 言葉にすると、自分の心の形が見えてきた。

 自分が何に対して怯え、何故彼女にそっけなくしていたのか。その理由が、自分でもバカバカしいと思えるくらいに、はっきりとした輪郭を帯びてくる。


「俺、怖かったんだ。ルーシャがいなくなるかもしれないって……それを想像したら、耐えられなかった。だから、敢えて突き放して……独りになった時に耐えられるように、距離を置こうって思ってた」


 ルーシャは首をいやいやするように横に振って、その細い腕で強くこちらを抱き締めてくる。

 あたたかかった。抱き締め合うだけで、こんなにも胸を軽くするのかと初めて知った。


「独りになんてしません。いえ……私が、もうロイドなしでは生きていけないんです」


 頬が触れる。涙の湿りがわずかに冷たくて、その下にある体温がやけに熱い。

 そして、ロイド自身も体温がどんどんと昂ってきた。

 その気持ちを汲み取ったかのように、ルーシャが蠱惑的な視線をこちらに向けてくる。その視線は、否応なしに男の本能に訴えかけてくるものだった。


「それに……私は、もう聖女じゃありませんから。ロイドも……変な遠慮、しないでください」


 好いている女に、そう言われて我慢などできるはずがなかった。


「後悔しても、もう遅いからな」

「あ……っ」


 捨て鉢にルーシャの上に覆い被さると、彼女の口から歓喜の声が小さく漏れる。

 この暗闇の中でもなお、その浅葱色の瞳は潤んでいて、こちらをそっと見上げていた。頬を紅潮させ、泣きそうな顔なのに、どこか艶めかしく見えてしまって。ロイドの理性など、もはや風前の灯火に等しい。


「後悔なんて、するわけないじゃないですか。だって……ずっと前からもう、覚悟を決めてたんですから」


 ルーシャは嫣然(えんぜん)として笑った。その刹那、涙の粒が光り、夜の中で星みたいに揺れた。


「ずっと前からって……全く、困った聖女様だ」

「はい。だって私、偽者ですから」


 そんな言葉を交わし合って、互いにくすりと笑った。

 それからほんの少しの沈黙が訪れる。

 ルーシャは神妙な面持ちになると、じっとこちらを見ていた。ロイドも、そんな彼女を見つめ返す。

 これから何を訊かれるのか、何となくわかった。


「ロイド……私のこと、好きですか?」


 質問は、予想通りのものだった。

 その浅葱色の瞳を見据え、ロイドも本心を包み隠さず伝える。


「ああ。ずっと……最初から、好きだった」

 

 視線が交わると、自然と引き寄せられるように互いの口元が重なった。

 唇の形を確かめ合う様なぎこちない愛撫から、すぐに貪るような動きへと変わっていく。ルーシャの熱と吐息、感触を全身で感じ取りながら、その舌先で互いの気持ちを確かめ合った。

 そうしている、右手の痣が心臓とは別の脈を打つ。皮膚の下で黒が波になって走り、同時に、彼女の中にある白い印が淡く呼応した。

 黒と白。相反するはずの色が、ひとつの輪を描くみたいに重なっていく。黒は鋭さを失い、白は冷たさを溶かし、お互いの境目が消えていくのがわかった。

 この感覚は、ロイドにとって初めてのものだった。そして、きっとルーシャにとっても。

 ただ、初めてでも、これが何かはわかる。

 これこそが……〈共鳴〉なのだ。

 呪いは呪いのまま、祝福は祝福のまま。どちらかがどちらかを覆うのではなく、ふたつがちょうどよく重なって、はじめて鳴る音色。そんな感覚だった。

 ルーシャの指先がそっとロイドの腕に触れ、痣の上をなぞる。それに応えるようにして、彼女の手を優しく握った。

 ふたりはそのまま何度も唇を重ね、そして互いの体温に触れ合いながら、新たな道へと進んでいく。

 胸の奥に初めての音色が静かに響き──それは、ふたりにしか奏でられない調べとして、いつまでも続いていた。

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