第44話 気まずい空気と彼女の決意
夜の野が、馬の吐息で白くほどけていく。御者台に腰を掛けたまま、ロイドは手綱を緩めすぎないように気を配った。
車輪が轍を拾ってわずかに跳ね、背に薄い痛みが走る。荷台の方からは、食器が触れ合うかすかな音も、いつもの小さな鼻歌も聞こえてこない。聞こえるのは、蹄が土を叩く乾いた音と、車軸のきしみだけだった。
(何か言わないと……)
バーマスティ商会を出てから、何度こう思ってきただろうか。
しかし、喉のあたりまで上がってきた言葉は、そこで形を失う。
そのどれもが正しくないように思えてくるのだ。
『大丈夫か』
『さっきは悪かった』
こういった言葉はすぐに浮かんでくるのに、どれも口へ出すと嘘みたいに薄っぺらくなりそうで。結局、呼気だけが白く宙に溶けていく。
ちらりと後ろを見ると、ルーシャは毛布を膝にかけ、両手を重ねて荷馬車の隅に座っていた。
振り向いて、『寒くないか』とか『腹減ってないか』とか、色々訊けばいいのに、何だか今は、それを訊くことさえ怖い。先ほどの彼女の涙を思い出すだけで、胸のどこかに鈍い波が立つ。だから、何も声を掛けられなかった。
やがて廃村の屋根が暗がりから起き上がり、ひび割れた石垣が月光を返した。門も柵もない広場に馬車を入れ、いつもの杭に手綱を巻き付ける。ロイドが御者台を降りるのと、ルーシャが荷台からそっと地面に降りるのは、ほぼ同時だった。
ふたりの間に「ただいま」と言う習慣はまだ育っていない。ただ、戸口へ向かう足音が二つ、板の床に交互に沈む。
室内は、夜の冷えを孕んでいた。ロイドが炉の灰を寄せて火を起こそうとすると、ルーシャが台所へ回り込んで、小さく頭を下げる。
「お湯、沸かしますね。ついでに……少しだけ何か作ります」
「あ、いや。手伝うよ」
口が勝手に動いた。
とってつけたような響きになってしまったのが、自分でもわかる。
「いえ、ロイドはお疲れだと思うので。ゆっくりしてくださいまし」
柔らかい言い方なのに、距離が一枚挟まっているように感じてしまう。
結局、ロイドはそこで引いた。炉の前の長椅子に腰を下ろし、外套を脱ぐ。
乾いた血の匂いがわずかに立った。右手の痣──〈呪印〉──はもう波を打たないが、皮膚の下の冷えは、どこかでまだ脈打っている。
台所から、包丁がまな板を叩く控えめな音が響く。鍋の縁で湯がかすかに歌い、香草をちぎる匂いが室内に流れた。麦の匂い。塩の匂い。淡い油の匂い。
ロイドは指先をこすり合わせ、そこで「ありがとう」の二文字を丸めて潰した。
やがてルーシャは外套を羽織り、家を出ていった。戻ってきたときには頬に夜気の冷たさを少し纏っており、手には精霊珠を持っている。
浴室小屋の湯舟にお湯を貯めてきたのだろうか。食事の支度と並行して、そこまで準備を済ませてくれていることに、ロイドは申し訳なく思ってしまった。
(それくらいなら、俺でもできるのに……)
いや、それを自分から言い出さなかったのが悪いのか。やってしまった。
やがて椀が二つ、卓に置かれる。薄いスープに麦片と根菜が沈み、ほぐした干し肉が表面に浮いていた。湯気が白く、それがあたたかい。
ロイドたちは、いつも通り向かい合って座った。椀を持ち上げ、口をつける。温度は熱すぎず、喉をやさしく滑っていく。
塩気は控えめで、香草の苦みが後から追う。体の奥に、静かな重みが落ちる。
「美味いよ」
ようやく、絞り出す。
自分の声が、酷く小さく感じた。
「……ありがとうございます。お口に合って、よかったです」
ほんの一呼吸遅れて、ルーシャがぽそりと言った。
ほんのり微笑んでいるようには見える。しかし、彼女の視線は椀の水面に落ちているせいで、それが作られた笑みなのか、柔らかな笑みなのかの区別がつかなかった。
卓上には、スプーンが当たる音と、麦が沈む微かな気配だけが重なる。
ありがとうの一言さえ、喉の奥でつかえて出てこない──そんな自分が、嫌になった。
言葉の形はわかっているのに、口へ出す術だけがわからない。いや、その勇気が出なかった。
食べ終える頃には、室内の空気に湯気の湿り気がほんの少し混じっていた。
片付けが一段落すると、ルーシャが振り向かずに告げた。
「お風呂、入れておきました。先にどうぞ」
やはり、彼女は食事の支度と同時に風呂の準備まで済ませてくれていたらしい。
いつもなら「ルーシャから入ったらどうだ」「いえ、ロイドが」などという、ささやかな押し問答が起きる。だが今日は、そのやり取りができる空気ではなかった。
いや、どうにも彼女に逆らえない自分がいた。
「……わかった。ルーシャもすぐに入れよ」
「はい」
短く答えて立ち上がる。背中で、皿が重なる小さな音がした。
外気は冷たかったが、浴室小屋の中は白い湯気で満ちていた。
かかり湯をしてから石鹸で身体を洗い、皮膚の表面から血の臭いを洗い落としていく。
十分に洗ってから湯舟に身を沈めると、疲れが石を水に入れた時のように重く沈降していった。
風呂は気持ちいい。今日一日の身体の疲れが癒されていくのを感じた。
しかし、心の方は、全く癒されてくれない。
(どうすればいいんだ? もう、わからなくなってきた)
堂々巡りが、湯面に映った灯りを分解する。
謝ればいいのはわかる。だが、何に対して謝ればいい?
暴走しかけたこと? それとも、頼らなかったこと? 頼らなかった理由を、彼女に言えるのか? 言ったところで、それは言い訳にしかならないのではないか。
いっそ全て飲み込んで「ごめん」で済ませるか? ……いや、それでは逆に、軽過ぎる。
湯を掬って顔に当てた。熱は思考を鈍くするはずなのに、今夜ばかりは雑音が増えるばかりだ。
(仲直りって……どうやるものなんだろうな)
思い出そうにも、そもそも経験がない。誰かと衝突し、怒らせ、溝を埋めた記憶。手繰っても糸は出てこなかった。
これまで、そこまで深く人と関わることがなかったのだから、当然だ。
結論も出ないまま、指先がふやけ、湯の縁に肘を預けた腕が重くなる。やがて観念して湯から上がると、肌寒さが背を撫でた。
寝間着に着替えて浴室小屋から出ると、ちょうどルーシャが洗い桶を抱えて家から出てきた。
一瞬目が合いそうになったけれど……彼女の視線はロイドの肩のあたりを滑っていき、地面に落ちた。
「えっと……お風呂、私も頂いてしまいますね」
「……おう」
その気まずい空気に、ロイドは頷くことしかできない。
タオルで髪を乱暴に拭きながら、家へ戻る。板の廊下がひんやりと足の裏へ登ってきた。
寝室は、いつも通りに整えられていた。片側の枕が少しだけ低く、彼女の眠る位置を示している。
寝台に体を横たえても、目は天井の節目を追っていた。
(謝るのは……明日、起きてからにした方がいいのかな)
問いの形をした思考が、胸の内側で頭をもたげては沈む。
体は疲れているはずなのに、眠気だけが寄りつかなかった。右手の甲に、もう疼かない痣の輪郭だけが鈍く残る。
一時間くらい経った頃だろうか。戸口が僅かに鳴って、ルーシャが寝室に入ってきた。髪はしっとりともふわりともせず、いつものように髪を真っすぐ下ろしていた。
彼女はロイドの視線を避けるように、そっと明かりを落とし、寝台の自分の側へ身を滑り込ませる。
背中合わせに横たわり、毛布一枚の距離がひどく遠く感じられた。布が擦れる音が、やけに耳につく。
普段なら、彼女は躊躇いがちに、ロイドを抱き枕代わりに後ろから抱きついてくるところだ。しかし、今夜はその気配がない。
何か話そう。そう思って言葉が喉の高さまで上がってくるのに、形を作らないまま空気と混ざっていく。沈黙が、寝室中を覆っていた。
しばらくして、背中越しに、浅い呼吸がひとつ深まった。躊躇いの気配が、毛布越しに伝わる。
そして、意を決したような小さな声が、闇に触れた。
「ロイド……まだ、起きてますか?」