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第43話 喧嘩?

 焚火はまだ小さく息づいていた。風が通るたび、橙の炎がふっと持ち上がり、すぐにしぼむ。道の両脇には黒い塊が点々と横たわり、血の匂いが土の湿り気に重なっていた。谷は音を飲み込み、木々は何も答えない。

 ロイドはやがて深く息を吐いた。肺の底に溜まっていた熱がゆっくり外へ流れる。右腕に刻まれた痣――〈呪印(マリス・グリフ)〉──は、さきほどの鼓動を嘘のように鎮め、皮膚の下の黒みも引いていく。

 だが、肩や腕、わき腹には細かい裂傷がいくつも残り、外套は爪で裂かれた筋を晒していた。


(……結局、ルーシャに助けられてしまったな)


 心の中に、その一文が沈む。沈んで、重さだけが増していく。

 あの光がなければ、自分はどこまで行っていたか。どこで、誰を斬っていたか。守りたいと思っていた少女さえも斬っていたのではないか。

 想像した途端、喉が砂を流し込まれたみたいに乾いた。

 ルーシャなくして、この呪いは制御できない。その現実をまざまざと見せつけられた気がした。

 自己嫌悪が、痣の残滓のように身体の隅々へ広がっていく。

 衣擦れの気配が近づく。焚火の橙に、白銀の髪の縁が照らされた。


「……座ってください。治療、しますから」


 ルーシャが遠慮がちに、消え入りそうな声で言った。


「ああ……頼む」


 ロイドは彼女から視線を逸らし、荷馬車の残骸の横、平たい石の上に腰を下ろした。

 視界の端で、ルーシャがフードを少し外し、肩口に両手を添えるのが見えた。指先から柔らかな光がひらき、破れた外套と皮膚の間へ染み込んでくる。

 温度は高くないのに、骨の近くまで届く。裂けた肉は、糸で縫われるようにゆっくり塞がっていった。薄く痺れていた脛の奥も、苦い痛みが解けるように薄れていく。


「まだ動かないでくださいね。解毒もしないといけませんから」


 短く囁いて、彼女は手のひらをわずかに返した。淡金の光が指の間で形を変え、刺すような痺れの芯を撫で落としていく。

 近くで見ると、髪と同じ色の彼女の睫毛には、光とは別の湿りがあるのがわかった。


(……何を言えばいいんだろうな)


 何かしら声を掛けなければいけないのはわかっていた。それなのに、今はその涙に触れる勇気が出ない。

 結果、ロイドは目を伏せたまま、淡々と光に身を委ねるしかなかった。光の下で、右手の痣はさらに褪せ、ただの古傷のような色合いに戻っていった。

 どれほどの時間が過ぎたのか。遠くから複数の馬蹄が石を叩く音が近づいてきた。灯りがひとつ、またひとつ谷の陰から現れる。

 先頭で小さな影が手綱を絞り、ランタンの明かりに照らされて目を細めた。


「──ふたりとも、無事かい!?」


〝子供商人〟クロンだ。彼の後ろには、肩に槍を担いだ男たちと、荷を積むための空荷車が続いている。援軍を引き連れて駆けつけてくれたようだ。

 谷間に灯りがいくつも咲き、死骸の輪郭がはっきりと浮かび上がった。血の黒は一層濃く見え、焚火の橙は心許ない。


「うわっ……影狼(シャドウウルフ)じゃないか! そりゃ商隊の護衛レベルじゃどうにもならないよ。とんだ連中に目をつけられたもんだ」


 クロンが魔物の死骸を見渡し、頭を掻いた。

 影狼(シャドウウルフ)は森の奥深くに生息する強力な魔物で、人里には滅多に顔を見せない。並みの傭兵や魔物狩りが対処できる魔物ではなかった。勇者ユリウスのパーティーでも、この数の影狼(シャドウウルフ)を相手にするのは難しいだろう。


「……これで全部だ。取り逃がしもない」


 ロイドは立ち上がりながら言った。まだ脚に鈍い重さは残っているが、致命の痛みはない。


影狼(シャドウウルフ)の群れをたったふたりで倒したってのかい。凄いな……想像以上の強さだ」

「仕事だからな」


 ロイドは素っ気なく返した。何となく、今はその誉め言葉に喜べる気分ではない。

 クロンは短く鼻を鳴らし、それから周囲を見渡した。男たちの何人かが「うへぇ」と呻き、死骸を避けながら荷車を寄せる。槍の石突きが石を突く乾いた音が、静けさに棘を立てた。

 会話の間も、ルーシャは口を開かなかった。ロイドの袖口に最後の光を落とし、解呪と解毒に勤しむ。その横顔に残る涙の筋を、ランタンの白がそっと浮かび上がらせる。

 クロンも、ふたりの間の空気を一目で察したのだろう。眉根が僅かに寄っていた。


「それで……報酬はどうする? 今日これから事務所の方に来てくれたら、その場で渡すけども」


 どうしようか、とロイドは視線を横へ送った。

 ルーシャはフードを深く被っており、その表情は窺い知れない。

 ただ、今から町まで戻って、また廃村に帰るのも大変だ。それなら、ここから直接帰った方がいい。


「……今日はいいかな。さすがに疲れた」


 少し考えてから、そう返した。自分の声が、やけに浅い。


「そうかい。まあ、いつでもおいでよ。色も付けとくからさ」


 クロンはわざとらしく肩をすくめ、呆れたように溜め息を吐く。

 そして、一歩だけ近づくと、声を潜めてこう付け足した。


「それと……次来る時までには仲直りしておくようにね」

「…………」


 返す言葉はなかった。ロイドは明後日を見やり、小さく息を吐く。

 仲直り、という表現が正しいのかもわからない。喧嘩をしたつもりはないけれど……でも、クロンからはきっと、そう見えているのだろう。


「よーし、じゃあ皆! 早速生きてる荷物を運び込むよ!」


 クロンは一歩離れると、男たちへ短く指示を飛ばし始めた。

 死骸を奥の斜面へ運ぶ者、荷車を退避させる者、焚火に水を掛けて鎮める者。現場は仕事の音で満ち、谷はようやく人の気配を取り戻す。

 ロイドは馬の鼻面に手をやり、手綱を解いた。馬が疲れた息を吐き、耳を後ろへ倒す。

 荷台の端で、ルーシャが遠慮がちに小さく座っているのが見えた。


「帰るか」


 短く言って、御者台に上がった。


「……はい」


 少し掠れた声が返ってきた。

 会話はそれだけで終わった。御者台と荷台。ふたりの間に、灯りの輪がひとつ落ちる。

 ロイドは手綱を軽く揺らし、馬の肩を叩いた。


(喧嘩、か……そういえば、誰かと喧嘩なんて、したことなかったな)


 クロンの言葉を思い出し、ふとそう思い至る。

 これまでの人生で、誰かと喧嘩をする程仲良くなった人などいなかった。だからこそ……こうして仲が拗れた時に、どうすればいいのかわからない。それが異性ともなれば、尚更だ。

 谷が終わり、道が広がっても、話は始まらない。

 ふたりを包むのは、月の白と車輪の音と冷えた夜気、そして沈黙だった。

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