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第42話 影狼との戦闘

 闇から弾けた影は、焚火の橙をかすめて牙の白だけを残した。

 ロイドは敵の中に飛び込み、呟く。


「──〈盾吼(アトラクトゥス)〉」


 放たれた声波が周囲へと波紋を投げていく。波紋は影に棲む獣の本能を逆撫でし、敵意が一斉にロイドひとりへと向けられた。

 影狼(シャドウウルフ)たちの赤い光点が、ルーシャや馬から、一斉にロイドに焦点を結ぶ。

 スキル〈盾吼(アトラクトゥス)〉……魔物の敵意を自分ひとりに集中させる、固有スキルのひとつだ。知能が高い魔物には通用しないが、知恵より牙の世界で生きる連中には効果が高い。

 そして、狙い通りに影狼(シャドウウルフ)はロイドひとりを標的とし、襲い掛かってくる。

 だが、魔剣の刃は既に走っていた。魔剣〝ルクード〟の黒が月を攫い、ひとつ目の喉を薄い角度で掠める。

 肉の締まり、骨の浅さ、刃渡りの手応え。振り抜きをそのまま左へ滑らせ、茂みから弾けた影を二の太刀で断った。短い悲鳴とともに、草むらの闇へ獣の肉塊が落ちた──かと思った瞬間、右肩の後ろで、耳が風を裂く気配を捉えた。先ほどまで気配がなかった場所から、獣の爪が迫る。


「ちっ……影を移動しやがったか」


 完全に避けることは不可能と判断し、ロイドは膝を抜くように沈めて、刃を背に引き下ろした。鈍い爪が外套の肩を裂き、布が飛ぶ。皮膚に冷たい線が走った。

 ルーシャの悲鳴にも似た声が、耳に入る。


「ロイド、やはりこの暗さでは不利です! 私が魔法で光を灯しますから……ッ」

「大丈夫だ。この程度の奴に──」


 言い切る前に影が底から跳ね上がった。別の個体が僅かな隙を狙っていたのだ。


「忙しない犬っころなこった!」


 ロイドは咄嗟に地面を蹴って後退し、一閃。振り払った刃が影狼の頬を掠め、黒毛が宙に舞った。

 崖の出っ張りを足裏で探り当て、背を預けるように立ち止まる。


(残り一匹はどこにいる……?)


 今視界に見える影狼(シャドウウルフ)は五匹だ。

 残りの一匹は影に隠れて様子を見ているのだろう。目に見える五匹は囮だ。

 残りひとつは、必ず背へ回ってくる。


「……親玉を引っ張り出すには、手下を痛めつけてやるしかないか」


 刃を正眼よりわずかに下げ、正面に睨み合う二匹を視線で往復する。

 こちらから突っ込むのは悪手。焦らせて、突っ込ませる。

 右の草がわずかに沈んだ。


(左は囮で、右が本命か)


 ロイドは刃先で囮の鼻面を軽く突き、飛びかかるタイミングを狂わせる。

 同時に右から迫る本命の顎を迎え撃ち、骨ごと叩き割った。


「まずは一つ」


 返す刀で囮の首筋を断ち切り、その体を踏み台に跳ね上がった。その反動を利用し、もう一匹も屠る。

 焚火の火の粉が、夜風に散った。


「二つ、三つ……」


 斬り伏せるたび、肩と腕の奥に熱が篭る。

 だが同時に、細い針のような痺れが指の付け根に滲み始めていた。爪先で掠められた傷口が熱を帯び、皮膚の下を鈍く走る。

 呪毒だ。浅いとはいえ、蓄積していく。

 四匹目は低い軌道で脚を狙ってきた。刃で払うには間に合わない。

 ロイドは膝を跳ね上げ、脛で顎を蹴り砕いて体勢を崩した。そして、倒れ込んだ背へそのまま黒い刃を振り下ろす。

 血が刃元に跳ねた瞬間──背後に刺すような気配。

 見えない五匹目が、影の筋を破って飛び出してきた。

 ロイドは身を低く沈め、すれ違い様に体を捻って肩で受け流した。

 鋭い爪が外套を裂き、浅い傷が走って熱い痛みが滲む。

 すぐに踏み込み直して斜めに斬り上げると、影狼が甲高い悲鳴を上げて転がった。

 黒い毛並みが焚火の光を吸い込み、闇に沈む。息が荒くなり、肺の奥が冷たく軋んだ。


(残り三匹……やれる)


 魔剣を構え直しながら、自分に言い聞かせる。

 甘えない。任せない。背中を見せない。ふたりで積み上げてきた連携の形さえ、今夜だけは封じる。

 ルーシャに頼れば楽だろう。もっと綺麗に終わるはずだ。

 だが──それでは駄目だ。

 ちらりと視界の隅で、心配そうにこちらを見ているルーシャが入った。

 もし、これから自分ひとりで生きて行かなければならない時。『彼』がルーシャを迎えに来た時。

 彼女に頼り続ける生き方をしていては、詰んでしまう。生きられなくなってしまう。

 朝の穏やかな時間も、昼にわたわたと一緒に〝なんでも屋〟をやる時間も、夜背中越しに言葉を交わしながら眠りにつくその時間も、いつか全てなくなってしまっても大丈夫なように。

 今から少しずつ、ひとりで生きて行く術を身につけなければならない。

 その時、風が吹き抜けて焚火が一瞬だけ霞んだ。

 血の匂いが濃くなる。森の奥で、ひとつだけ重たい気配が息を吸った。

 谷が息を止めたように静まり──直後、森の奥から雷鳴のような響きが地を震わせ、腹に重く響いた。


『グオオオオオオオオオ!』


 影狼(シャドウウルフ)の咆哮が空気を震わせた。

 灰が波打ち、荷馬車の板がきしむ。

 闇から現れたそれは、他の影狼(シャドウウルフ)と姿は似ていても、迫力がまるで違った。

 盛り上がった肩、煤を思わせる毛並み。焚火の橙を呑み込むように光る赤い目。

 最後の一匹──リーダー格の影狼(シャドウウルフ)だ。

 喉の奥で鳴る低い唸り声が群れ全体を支配し、他の影たちが一斉に狂暴化した。

 襲い来る影狼(シャドウウルフ)の群れの攻撃に、ロイドは一気に防戦一方となってしまった。


「クソがッ……ここで大将のお出ましかよ」


 攻撃を受け、呪毒の爪を受けるたびに、右手の痣がずきりと鼓動した。

 皮膚の下で黒い墨が温度を持ち、掌の中心からじわじわと広がる。指の節の間から、見えない煙が抜けていく感覚。〈呪印(マリス・グリフ)〉が、影狼(シャドウウルフ)の持つ瘴気に影響を受けていた。


「ロイド、無茶です! 連携を──」

「下がってろ!」

「もう、何を意地張ってるんですか! 今日のロイド、おかしいです!」


 ルーシャの悲痛な叫びが、鼓膜に響いた。

 彼女が怒る理由もわかる。自分でも、どうしてこんなに意地を張ってしまっているのか、わからない。

 一緒にいて幸せだったのに。毎日が満たされていたのに。どうして彼女が離れていくことを、恐れているのだろう?


(あれ……? そもそも俺は、何でルーシャと一緒にいるようになったんだ?)


 ふと、彼女との出会いを思い出す。

 偽聖女と言われ、追われている彼女。無実を主張する彼女を、助けたいと思った。

 それが、切っ掛けだったはずだ。


『私は、あなたの力を〝呪い〟だなんて思ってませんよ?』

『だって……あなたが力を使う時は、必ず誰かを守る時じゃないですか』


 いつか、彼女に言われた言葉が脳裏に蘇ってくる。

 確か、〈呪印(マリス・グリフ)〉について話した時に言われたことだ。

 そして、彼女はこう言ってくれたのだ。


『たとえ誰かがそれを〝呪い〟だと言っても、あなたが誰かを守るために使っているなら、それは〝優しさ〟だと思います。少なくとも、私はその〝優しさ〟で救われましたから』


 そうだった。

 こう彼女に言われたから、ロイドはこれまでの報われなかった人生が、救われた気がした。

 彼女を助けたいと思った。幸せになってほしいと思った。

 それなのに、どうして彼女の気持ちを無視するようなことばかりしているのだろう?

 それに……もしここで変に意地を張ったまま、やられてみろ。

 誰が、この影狼(シャドウウルフ)どもから彼女を守るというのだ。


(何をやってるんだ、俺は……!)


 ルーシャの口から男の名前が出てきて、その男との関係に恐怖した。

 自分の今が全て奪われ失われるのかと思い、彼女との関係も否定しようとした。

 でも、今もしここでロイドが影狼(シャドウウルフ)にやられてしまったら、それどころではない。


(ルーシャを守れないで……何のために、こんなクソッタレた力があるんだよ!)


 ロイドは目を閉じ、右手の疼きを意図して呼吸に合わせた。

 胸の奥で鍵を少しだけ外す。黒が皮膚の下で膨らみ、血の流れに混ざって身体中へ広がっていった。

 黒い瘴気が刻印から噴き出すように現れ、瞬時にロイドの身体を包み込む。視界の縁に赤黒い膜が張り、世界の輪郭が鋭く、軽く、雑音が遠ざかった。


「はあああああああ……!!」


 気合いの声とともに、全身を包んだ瘴気が一瞬で収束し、ロイドの体内に吸収された。

呪印(マリス・グリフ)〉の解放……本来ならば、ルーシャの加護を得てからでないと、暴走の危険がある。だが、今はそれを言っている場合ではない。

 それに──もしもの時は。そんな甘えも、きっとあった。

 自らに力が満ち溢れて、一気に敵の懐に飛び込んだ。

 踏み込みが、一気に深くなる。

 影狼(シャドウウルフ)も先ほどとは速さが打って変わったことに、動揺を見せていた。

 そして、変わったのは速さだけではない。

 振るう刃も速くなり、空気を置き去りにする。

 影狼の爪が届く前に肩を裂き、牙が噛みつく前に喉を断つ。

 黒炎の瘴気が魔剣にまとわりつき、毛皮と筋肉の抵抗をいとも簡単に焼き溶かす。

 手応えは殆どないに等しい。まるで、紙を切っているかのように、すぱすぱと肉を斬り裂き、肉塊の倒れる音だけが重く響いた。

 しかし──その代償もまた、あった。もはや、倒した数を数えることさえなくなっていた。

 意識が黒に溶け、思考が呑まれていく。

 いつもの暴走の時と似た感覚。

 ああ、またか、と心の奥底で思うも、もう遅い。

 剣の動きと脚の踏み込みと呼吸がひとつに溶け、火の周りを巡る円のように止まらなかった。

 笑っているのは風か、自分の喉か。冷たいのに、妙に熱かった。軽いのに重い。世界の色は遠ざかり、眼前の黒だけが鮮明に迫る。

 影狼(シャドウウルフ)の咆哮が響いた。応じるように痣が焼け、黒炎が濃く立ち上る。

 大きな影狼が、横から突っ込んできた。受け流す角度をほんの少しずらし、肩で滑らせる。背に重みがずしりと伸し掛かった。

 膝が抜ける直前に、ロイドは右手の瘴気を地面を叩きつけた。

 その反動で跳ね上がって後ろに回り、魔剣をその大きな背中へ突き立てる。

 バキグチャッ──骨が砕け、肉が潰れる生々しい音が夜を裂いた。

 黒い巨体が地に叩きつけられ、土が大きく波打つ。

 もう、敵が残り何体いるのかさえわからなかった。頭のあるのは、僅かな快楽と、ぞっとするほどの軽やかさ。

 斬る。折る。落とす。黒い影を、赤い影を、全部壊してしまえば──楽になる。もうそれしか考えられなくなっていた。

 視界の端を、白が走った。白銀の髪が風に流れ、浅葱の瞳が一瞬こちらを捉えた気がした。

 誰だ……? 敵か、影かの判断さえつかなかった。

 斬れば静かになる。全部、斬ってしまえばいい。

 そう思って、剣は振り上げていた。握りが手に溶け、腕がひとりでに動く。その刹那──

 

「ロイド!」

 

 名を呼ばれ、意識が一瞬戻った。

 ふと自分の身体を見下ろすと、背から腕が回されている。

 後ろから抱き締められているようだ。


「もうやめてください!」


 泣き叫ぶような彼女の声とともに、周囲に柔らかな光が満ちた。

 光は焚火の橙とは違った。熱の色ではなく、朝の縁の色、ともいうべきだろうか?

 柔らかいのに、骨の髄まで届く。手のひらから、腕から、胸から、右手の痣へ。黒い炎の根を優しく包み、暴れる脈に薄布をかけるように撫で、沈め、解いていく。

 赤黒い膜が薄れていって、遠くにいた音が戻る。風の擦れる音、灰の落ちる気配、崖の上で小石が転がるかすかな響き。鼻先に土と血の匂いが、それから油布の微かなにおいが立つ。


「あ、れ……? 俺は……?」


 ロイドは刃を半ばまで下ろし、周囲を見た。

 闇に沈んだ黒い塊がいくつも横たわっている。焚火の影の外、荷馬車の車輪の向こう、崖際。

 大きな一匹は背に深い裂け目を抱え、もはやぴくりとも動かない。

 敵は全て、死に絶えていた。


「ルーシャ……?」


 背に回っていた腕が、まだそこにあった。震えは小さくなっているが、背中からは彼女の嗚咽が聞こえてくる。

 彼女が肩が小さく上下する度に、こちらにその動きが伝わってきた。


「どうして……どうして私のこと、頼ってくれないんですか?」


 ルーシャは、絞るようにして声を出した。


「どうして避けるんですか……? これまでふたりで頑張ってきたのに。これからも、ずっと一緒に頑張っていきたいのに……どうして、私のこと、無視するんですか……ッ」


 嗚咽を堪えながら、そう想いを紡いだ。

 無視をしたとか、避けたとか……そういうつもりはなかった。

 ただ、ルーシャに頼り過ぎている自分と、そして彼女がいなくなった時のことを考えて、もっとひとりで何とかできるようにならないと、と思っただけで。でも、彼女からすれば、無視されているも同然だったのかもしれない。

 剣を鞘に納め、僅かに震える右手を見た。

 先ほどの暴走が嘘のように、〈呪印(マリス・グリフ)〉は静まっている。まるで、最初からこうあるべきだというかのように。


「……悪かった」


 振り向いて、その細い身体を抱き締めようとした。

 肩に腕を回して、額を寄せた時……ふと、気付く。

 手の甲が、月光に濡れて光った。返り血で真っ赤だ。

 いや、手の甲だけではない。外套は肩から腹にかけて裂け、黒い毛と血が張り付いている。ロイド自身も身体のいたるところに怪我を負っていた。

 彼女のフードにも、赤が点々と飛んでいる。


「ほら、ルーシャ……汚れるぞ。離れろ」


 そう言って、差し伸べた手を止めた。自分の声がやけに遠い。

 ルーシャは小さく首を横に振った。

 嫌だ、離れない、という意思を示すように。けれど一拍遅れて、そっと腕を解き、半歩だけ離れた。

 離れながらも、指先はロイドの外套の端にまだ触れていて、触れていることに気づくと、慌てて指を結んだ。

 顔は上げない。涙の筋だけが、焚火の橙に細く光っていた。

 謝らなければならない。

 そう思うのに、ロイドは何も言えなかった。言葉はいくつも喉元まで来て、形になる前に崩れ落ちていく。

 今の自分がどれほど、彼女を傷つけたのか。彼女の声がどれほど、自分を救ったのか。全てわかっているのに、指一本分の距離を埋める言葉が見つからない。


(……俺は、間違ってた)


 心の中でだけ、遅すぎる自認に至る。

 だが同時に、朝の彼女の寝言が、まだ薄い刃のように胸のどこかを引っ掛かっていた。

 それに、この涙だって自分のためだけではないのかもしれない。そんな劣等感、それから孤独や怖れといったものが、まだ根深く胸の隅に残っていた。

 依頼は無事、完了した。

 けれど、焚火に照らされた彼女の涙は、まだ消えていない。

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