第41話 敵の正体
南へ延びる街道が、森と谷間に挟まれて細り始める。
切り立った崖が背に迫り、反対側は黒い樹海が道端まで押し出していた。
ここから先は、ひとたび襲われれば逃げ場が乏しい。夕まずめの色が沈み、空の端に早い月が上がりかけていた。
目当ての地点に差しかかると、馬が短く鼻を鳴らした。
道の中央で、荷馬車が片輪を折って横倒しになっている。車軸は裂け、車輪の鉄輪が半ば外れていた。
地面には血が黒く沈み、月明かりで鈍く光る。麻袋は裂け、穀粒がこぼれ、木箱は噛み裂かれたように割れて散らばっていた。焚火の跡が道端にあり、灰の下で赤がわずかに燻っている。
ついさっきまで人がいた──そう告げる温度が、まだここに残っていた。
クロンの報告書によると、商隊は近くの村へ退いたらしい。ここにいるのは、今はロイドとルーシャだけだ。
ロイドは御者台から飛び降り、馬の手綱を枯木に巻き付けた。腰の剣に自然と手が掛かる。冷たい柄の感触が指の節を強張らせた。耳の奥で脈が、少し早い。
「……気配はない、か」
荷馬車の影を踏み、散らばった荷を跨ぎながら周囲を見る。森の縁はすぐそこだ。あそこから奇襲を掛けて商隊を襲ったのかもしれない。
背後でふわりと裾が鳴り、ルーシャが軽く地面に降り立った。フードの縁を指先で整え、周囲へ小さく視線を巡らせる。
ロイドは屈み、泥に刻まれた跡を指でなぞった。
爪痕だ。かなり深い。刃物で付けたように鋭い筋が土を抉っていた。
「何だこの足跡は」
足跡がかなり特徴的だ。いや、足跡それ自体というより、足跡の残り方が特徴的といえようか。
別の箇所では、足跡が途中で途切れ、すぐ少し離れた場所にまた現れている。影から影へ、滑るように飛んだ──そんな動きが目に浮かぶ。
「これは……影に溶けるように移動してるのか? 普通の獣の仕業じゃないな」
「ロイド、見てください」
ルーシャが焚火跡の近くに膝をつき、灰の縁を指差した。
薄い光が指の腹からこぼれ、灰の上で揺らぐ。
冷たい何かが空気に混じり、喉の奥を掠めて嫌な痺れを残した。
「これは……」
「瘴気、ですね。毒が混じった瘴気が僅かに残っています」
「毒に瘴気、それからこの足跡の途切れ、か……影狼かもな。厄介な連中に目を付けられたもんだな」
「影狼? 初めて聞きました」
「普段森の奥地に潜んでるからな。滅多に出くわすこともない」
ロイドは頷いて、簡単に影狼についてルーシャに説明した。
影狼とは、黒毛で闇に紛れる獣系の魔物だ。瘴気を纏っており、普通の刃だと手応えが薄いという。
群れで行動し、リーダー格は大きな体格で分厚い筋肉に覆われている強靭な肉体の持ち主。影に潜むみたいに移動して牙に呪毒があり、噛まれれば痺れて足が止まる。
群れの頭は〈咆哮〉で全体をまとめるし、厄介なことに、ロイドの〈呪印〉に類する呪力にも反応して狂暴化する性質もあるらしい。
(……本当に厄介だな)
説明しているうちに、深刻さが身に染みる。
単体だとどうとでもなるが、足跡や爪痕的に一匹や二匹ではない。この数となると、かなり苦戦しそうだ。もちろん、〝白聖女〟の力を借りれば何とでもなるが──
「どうしますか? 一度村まで行って、商隊の護衛の方たちと協力して戦うのがいいと思いますが……」
ルーシャは唇を結び、僅かに眉を寄せた。
「いや、時間がない。むしろ、その村を襲撃される方が厄介だ。俺たちで囮になって、今夜のうちに仕留めよう」
言い切ると、胸の奥に硬いものが座った。
何故だろうか。彼女の力を借りたくない、という気持ちがやけに強い。
その理由は、明白なのだけれど。
「……わかりました」
ルーシャの浅葱色の瞳が一瞬だけ揺れ、フードの縁を押さえる指が小さく強まる。けれど、すぐに小さく頷いた。
それからロイドたちは、夜営の準備に取り掛かった。
夜営といっても、奴らをおびき寄せるための、囮の夜営だ。
倒れた荷馬車を風よけに選び、焚火の跡に火を起こし直す。油布を軽く擦り付けた小枝に火を移し、太い枝へと育てた。
炎が呼吸を始め、橙が荷馬車の板面で踊った。光は心強いが、同時に目印にもなる。ここに餌がある、とわかりやすく連中に示すためだ。
位置取りは、背後に崖。左に荷馬車。右は短い斜面。正面だけが開けている。一見不利なように見えるが、囲まれないための最低限の陣取りだ。
囲まれなければ、ルーシャも馬車も、ロイドひとりで守り切れる。ひとり陣頭に出て戦えば問題ない。
その間、ふたりに会話はなかった。
ルーシャは焚火の影に座り、祈るみたいに指を組んでいた。
その横顔は静かだが、フードの奥で睫毛が一度だけ震えたのが見えた。
(俺ひとりの力で……終わらせてみせる)
ロイドはそう自分に言い聞かせた。
ルーシャの光に頼れば、きっともっと簡単に戦いを終わらせるだろう。〈光の抱擁〉があれば、ロイドは〈呪印〉の力を存分に使える。しかも、影狼の瘴気も薄まって弱体化させることだってできるだろう。
毒だって、彼女の治癒魔法があればすぐに治してもらえる。攻撃を受けることだって、怖くはなかった。
でも……だからこそ、甘えるのが怖いのだ。甘えることに慣れてしまえば、彼女と離れた時に、どう立ち振る舞えばいいのかわからなくなる。
(……大丈夫、大丈夫さ。これまでずっと、そうやって生きてきた)
柄に添えた手が、妙に汗ばむ。
どうしてだろうか。ひとりで戦うと決めた瞬間、妙に緊張してしまう。こんなこと、今までなかったのに。
森の奥で風が抜け、枝が擦れる。鳥の声はない。谷は音を吐き出さず、ただ飲み込む。
それから暫く待って……焚火が一定の呼吸に落ち着いた頃。
「ロイド!」
ルーシャの顔がはっと上がった。フードの中の瞳が、焚火の橙を受けて鋭く光る。
〈探知魔法〉に引っ掛かったのだ。
「来たか!」
「はい。大きな生命反応が、こちらに猛スピードで向かってきてます……!」
「数は?」
「一、二、三……六匹です」
「六匹か。多いな」
ひとりで戦えば、間違いなく囲まれる数だ。
だが、戦えないこともない。斬撃の軌道、足場の癖、逃げ道。
この立地を活かせば、間違いなく倒せるはずだ。
それに、いざとなれば〈呪印〉がある。これを使えば、影狼など敵ではない。
だが、なるべく使いたくなかった。〈呪印〉を使うことは、ルーシャの頼ることに他ならない。
だが、ロイドがそう考えていることを、この白聖女は何となく察したのだろう。不安げにこちらを見て、彼女は言った。
「あの、ロイド? 私もいくつか攻撃魔法には心得があります。何匹かは私に任せて下さって大丈夫ですから」
「……いや、大丈夫だ。お前は、馬を守ってやってくれ」
ロイドがそう答えた時、目の前から気配がして、草が擦れた。
視線を上げると、闇の中に赤い二つの光点が浮かんだ。距離は十間ほど。低い位置で、地を這う高さ。
ひとつ、ふたつ──左右の木立の奥にも、赤が灯る。軌を描くように広がって、全部で……五匹。
(五匹だと? 六体じゃないのか。一匹どっかに隠れてやがるのか)
背筋の汗が冷える。上か、後ろか。或いは、影だ。
奴らは影を使う。見えない一体が、どこかの闇に溶けているのだろう。
「ルーシャ、下がってろ」
ロイドは短く言い捨て、魔剣〝ルクード〟を抜き前へ出る。漆黒の刃が月を受け、淡く瞬いた。
呼吸がひとつ深くなる。足を開き、左の踵を石に掛け、右へと重心を載せる。正面の赤が低く唸り、草が逆巻くように沈んだ。
闇が揺れた。森も谷も、焚火の炎さえも、一瞬だけ息を潜めた。
「さあ来い犬っころ。お前たちの相手は、この俺だ」
闇から影が一斉に弾け──影狼が、ロイドに向かって跳びかかった。