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第40話 緊急依頼

 グルテリッジの外れで石畳に車輪が乗り、荷馬車は町のざわめきに飲み込まれた。

 昼の気配と夕飯の支度の匂いが交じる時刻だ。焼きたてのパン、獣脂、鉄の匂い──そして今日は、やけに怒鳴り声が多い。人の流れがせかせかとして、いつもより硬い足音が響いた。

 バーマスティ商会の看板が角の先に覗いた。横手の繋ぎ杭には既に二台の荷車が並び、商会の扉は落ち着きなく開け閉めを繰り返している。荷袋を抱えて出てくる者、書付を握りしめて飛び込む者。いつもなら軽口のひとつも飛び交う玄関先が、今日はどこか張り詰めていた。


「……大変そうですね」


 隣でフードの縁を指で整えながら、ルーシャが小さく言った。フードの影からのぞく浅葱色の目が、落ち着かない人波をそっと追う。


「……教会絡みじゃないといいんだけどな」


 ロイドは手綱を巻き取り、馬を杭に繋ぎながら答えた。

 言葉を口にするだけで、胸の鼓動が一段強くなり、鼓のように意識を攫っていく。

 もし教会の影が伸びているなら、ここで時間をかけるのは悪手だ。視線だけで周囲を掃き、徽章や法衣の気配がないか探った。


(教会関係者はいない、か?)


 それらの気配がないことに、ほんの少しだけ気が緩む。

 ルーシャの指がフードの縁をもう一度なぞった。彼女の動きも、いつもよりわずかに硬い。


「行くぞ」

「はい」


 ロイドは扉を押した。

 真鍮の取っ手が冷たく、金属特有の乾いた感触が指に残った。

 中は外より騒がしい。帳場の手前に臨時の机が出され、クロンが紙束を捌き、墨を飛ばしながら伝票を走らせている。

 机の奥で、クロンが書類の堆を広げたまま顔を上げた。


「……やあ、ふたりとも。早速来てくれたんだね」


 クロンがこちらに気付いて、ペンを持つ手を上げた。いつもの軽口は、今日は出てこない。

 目の下に影、しかし視線は澄んでいる。子どもじみた体躯のくせに、こういう時だけは年季の入った商人に見えるのがこの男の厄介さだ。


「御覧の通り、騒がしくてね。今日は茶を淹れてあげられそうにない」

「何があった?」

「まあ……ちょっと大変なことになってね。助けてほしい」


 前置きなしの一言。ロイドは無言で頷き、卓の前へ進む。

 ルーシャはロイドの半歩後ろ、フードの陰で表情を抑えたまま頭を下げた。


「これを見てくれ」


 クロンは紙束から被害報告の数枚を抜き、卓に並べた。墨の色がまだ新しい。


「実は、近隣の街道にかなり厄介な魔獣が出没していてね。夜になると商隊や農家を襲い、食糧や物資を奪っていってるんだ。護衛が太刀打ちできずに、うちへSOSを寄越した」

「魔獣、か」


 ロイドが紙束を手に取ると、ルーシャが身を寄せて覗き込んだ。

 夜の刻、荷馬車の車輪跡が泥地で乱れている図。折れた矢。噛み跡。正体は書かれていない。現場の書き手は怯えているのか、筆致が走っては戻る。


「依頼人は商会のお得意様の輸送商隊さ。今夜のうちに動くつもりだった荷が足止めを食ってる」

「で? 俺たちは何をすればいい?」

「今夜中に現場へ急行し、被害を食い止めてくれ。この報告書からもわかる通り、もう彼らも限界だ」


 ロイドは報告書の角に指先を置いた。紙がわずかに湿っているのは、誰かの手汗か、外気のせいか。

 頭の中で地図が広がる。被害地点は町の南東、樫並木の先から泥炭地の手前にかけて点在。橋を渡る前後。夜狙い。群れか、単独か。匂いの強いものだけを奪っているのか、それとも無差別の可能性もある。


「今回の依頼は、危険度が高い。普段なら僕のすることじゃないと断るところなんだが……彼らを見捨てれば、町全体の物流に影響しかねない」

「領主は? こういう時の領主様だろう」


 税を納めてもらう代わりに、住民の生活環境を守る。

 それが、地を治める者の役目でもあるはずだ。


「もう頼んださ」


 クロンはうんざりだという様子で肩を竦めた。


「でも、どうにもあいつらは腰が重くてダメだ。手続きだなんだと言って全然動きやがらない。こっちは今すぐ動いてほしいってのに」

「……なるほど。そこで俺たちの出番ってわけか」

「そういうこと。危険な依頼にはなるけど、その分報酬も弾む。どうか、僕を助けてやってくれないか」


 クロンの声音にいつもの軽さはない。計算ずくで引くべきところは引く商人が、言葉の端だけほんの少し湿らせた。

 町の物流が滞る前に、どこかで手を入れなければならない──それは理屈ではなく、感覚としてもわかる。

 これまで何度も、クロンには世話になっている。廃村での暮らしに必要なものを繋いでくれたのも、町に余計な噂が立たないように目を配ってくれたのもクロンだ。恩を数えれば、指が足りない。断る理由は、どこにもなかった。

 それに、教会絡みではなかったことに、重石が一枚分だけ軽くずれた感覚があった。安堵、と言っていいのかどうか、自分でも判然としない。

 しかし──緩んだのは、ほんの一瞬だった。視線が癖で横へ滑る。ルーシャの浅葱色の瞳と目が合った。


『エリオット……どうか、無事でいてください』


 今朝の寝言が蘇って、視線は反射のように逃げた。

 卓上の紙の白さが妙に眩しい。


「ロイド……」


 ルーシャは不安げに眉を顰め、小さく名を呟いた。

 その声音に困惑が滲み、ロイドの胸にひやりと触れる。でも、敢えてそれには気付かなかったことにした。

 短い沈黙。紙の擦れる音と、外の馬の嘶き。それがやけに耳についた。


「あー……何かあったのかい?」


 軽く流しそうで流さない角度の声が、卓の向こうから落ちる。

 クロンの目は、笑っていなかった。帳場で金を数えるときの目だ。


「いや、何もないさ」


 ロイドは顎を僅かに引き、応じた。

 声が冷えすぎて、喉が自分のものではないみたいに感じた。ルーシャが小さく肩を窄め、視線を落とす。彼女の睫毛の影が長く、白い頬に落ちた。


「まあ……生きてれば色々あるよね。見ず知らずの人間が一緒に暮らすとなれば、尚更だ」


 クロンは片眉を上げ、肩をひとつ竦めた。

 それ以上は踏み込まない。紙束をあらため、数枚を揃えてルーシャに手渡した。


「詳しい地図はこれだ。夜になる前に辿り着けるかどうか、急いでくれ」

「わかりました」


 ルーシャは両手で受け取り、卓の端で地図と報告の数枚を丁寧に重ねた。

 細い指が紙の角を揃え、墨の滲みに目を細める。彼女は腰の小さな革袋から短い鉛筆を取り出し、被害地点に印をつけて周囲の地形にも小さな矢印を書き入れていく。

 風の抜ける方向。橋の位置。林の切れ目。野営に向いた地面の固さ。必要事項だけを、手早く、しかし確かに。

 彼女はこういった細かい作業が得意だ。ロイドだけだと、どうにも大雑把に概要だけ頭の中に入れて後は現場判断とするのだが、こうして細かい情報を整理してくれると、その判断も捗る。

 いや、それだけではない。索敵だって、彼女の〈探知魔法(ディテクション)〉に頼ってしまいがちだ。治療も、守りも……それから、もし〈呪印(マリス・グリフ)〉が暴走しても、彼女の〈光の抱擁(ルクスリア)〉が抑えてくれる。


(……また、頼るのかよ)


 胸の奥のどこかが、わずかに疼いた。

 頼るのは、悪いことではない。連携とはそういうものだ。

 けれど、今朝のあの一瞬から、頼ることが妙に怖く感じるのは、何なのだろう?

 甘えて、身を預けて、そしていつか失う未来だけを先に思い描いているのか。

 ……馬鹿げている。戦場なら、こんな迷いは命取りだ。


「なるべく早くに出発してくれ。現場までは南東へ半刻強、丘を抜けて樫並木の先。日没前に足場を選べるかどうかが鍵だね」


 クロンが淡々と続ける。

 卓の端から小型の信号用笛と、油を含ませた布の包みが差し出された。


「笛は合図用。三短一長が『撤退』、長二つが『位置知らせ』。あと、これ。松明を長持ちさせるための油布。現地で木が湿っているかもしれないからね」

「ああ。助かる」


 ロイドは笛を首紐に通し、油布の包みを外套の内ポケットへ押し込んだ。重みはほとんどないが、頼りにはなる。


「護衛の生き残りは?」

「二人だけ。うち一人は足を痛めて町に戻った。もう一人は現場近くの村で応急の詰所にいる。合流できれば情報が拾えるはずだ」

「わかった」


 必要なことだけを訊き、頷いた。余計な言葉は、今は要らない。

 卓から身を引くと、クロンが最後に小袋をひとつ押しやった。硬い音。緊急時用の前金だ。


「依頼を頑張ってくれるのは嬉しいけど、引き際だけは間違えないでよ? うちは死んだ英雄より、生きて戻るお得意さんの方が大切だからね」

「心得た」


 ロイドは短く答え、踵を返した。

 外へ出ると、風が先ほどより冷たかった。陽は西へ傾き、屋根の縁に薄い金が流れている。

 馬は鼻を鳴らし、蹄を一度だけ石に打った。ロイドは手際よく綱を解き、御者台へ上がる。足元で木がきしむ。荷台に回ったルーシャが、革筒を閉じる前に、一瞬だけこちらを見た。けれどすぐ視線を落とし、書き物を仕舞うと音を立てないように腰を下ろした。


「商店で食糧と備品を買っていこうか。それからすぐに出発だ」

「あっ……いくつか沈静作用のあるハーブも買っていきたいです。怪我人も多いと思いますので」


 ロイドは頷いて応えた。

 彼女の返事は柔らかい。けれど、その柔らかさが、どこか胸に刺さった。

 御者台から後ろを振り返るのが怖くて、前だけを見た。馬の首に軽く鞭を当てる。車輪が転がり、石畳の上で規則正しい音を刻みはじめた。

 商会の前を離れると、通りは思いのほか空いていた。人波は市場の方へ吸い寄せられ、こちらは影が長い。

 屋根と屋根の間に鳥が飛び、棟の上でからすが鳴く。耳に入るのは、硬い蹄の響きと、遠い笑い声。だがふたりの間には音がなかった。

 言葉を探すほど喉は固まり、声になる前に形を崩していく。

 

(俺って奴は……どうしてこうも不器用なんだろうな)


 自分でも呆れてしまう。

 きっと、こうしたところが誰とも〈共鳴〉できない理由でもあるのだろうけども。

 風が吹き、乾いた草がざわりと身を寄せ合った。その音だけがふたりの間で長く伸びて──ロイドの胸の奥に残る迷いを、余計に際立たせるようだった。

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