第39話 寝言で男の名前
夜の底がまだ寝床の隅に残り、薄い朝光が板壁の節を淡く洗っていた。
冷えはあるのに、背中だけが不自然に温かい。そこにいつもの重み──小さな額と、指先の微かな感触があった。眠っている間、彼女は必ずといっていいほど背中に寄り添ってくるのだ。
ロイドは息を殺し、そっと寝返りを打った。敷き布が鳴らない角度を選び、腕を枕から抜く。
目の前に、いつも通りの寝顔があった。頬にかかる一束の白銀の髪が、吐息に合わせて細く揺れる。長い睫毛は静かに影を落とし、薄い唇はわずかに開いて、規則正しい呼吸が漏れていた。
(……可愛いな)
思ってはいけない言葉が、抵抗も虚しく胸の内側に浮かぶ。
否定する理由は、もう残っていなかった。これまでずっと「護るべき対象」と自分に言い聞かせていた。聖女様だから、頼ってくるから、居場所がないから──理由はいくらでもあった。だが、こうしてふたりで生活をして、何度も朝を迎えるうちに……そういった理由より先に、胸が動く瞬間が増えていた。
指先で、頬にかかった髪をそっと払う。
触れた気配に、一拍遅れてルーシャの眉がきゅっと寄った。夢の中で何かから身を守るように、細い指が寝台の縁を探り、次の瞬間、小さな雫が目尻からこぼれた。
「エリオット……どうか、無事でいてください」
寝言にしては、あまりに明瞭だった。
名を呼ぶ声に、ロイドの心臓が一度だけ酷く跳ねる。
(エリオット……?)
その名前は初めて聞いた。だが、誰なのか想像はつく。ルーシャを教会の地下牢から連れ出した〝彼〟だ。
教会はルーシャの神託が教会の意に反するとして、彼女に〝偽聖女〟の烙印を押し、粛清しようとした。しかし、〝彼〟はルーシャのことを信じ、彼女を地下牢から逃した。自分の命も省みず、だ。
その人物がいなければ、ルーシャはここにいない。いや、もう生きてはいなかっただろう。
頭の片隅に、ずっとその男の存在は常に残っていた。だが、考えないようにしていたのだ。
今があまりにあたたかく、幸せだったから。そのことについて考えれば、今が壊れてしまう気がした。
もし、その人物が生きているのなら。もし、どこかで彼女の無事を祈っているのなら。そう、考えてしまう。
そもそも、教会に逆らい、命を賭けて守ろうとしたほどの相手だ。こんな呪われた一族の末裔なんかより、彼の隣にいる方が相応しいに決まっている。
そう思った瞬間、胃のあたりに冷たい重しが落ちた。
(何やってるんだ、俺は)
彼女の髪から手を離し、視線を天井へ逃がす。木目がやけに遠く、線が波立って見えた。
背中の温もりが急に重くなる。これは奪っていいものなのか──いや、最初から答えはわかっていた。
いつ暴走するかもわからない〈呪印〉なんてものが身体にあって、挙句に勇者パーティーを追放された身で。こんな日陰者が、聖女たる彼女の隣に相応しいわけがない。
そう自分に言い聞かせて、感情をごまかしてきただけだ。
「んんっ……あっ」
細い吐息が変わり、ルーシャの瞼がふるふると開いた。
視線が合う。
彼女は一瞬きょとんとしてから、ふわりと笑った。いつもの、朝一番の笑顔だ。
「……おはようございます、ロイド」
「ああ。……おはよう」
口は動いたが、なんだか自分の声が冷えた水のように感じられた。
「……?」
そんなロイドの雰囲気に、ルーシャが首を傾げた。
問いの形をした、その小さな沈黙。
それに耐えられず、ロイドは目を逸らした。寝台から体を起こし、火棚に残した灰の底をかき、朝の火を起こす。
乾いた薪がぱちりと弾け、火の粉が小さく跳ねた。
その間に、ルーシャもいつもの手順で朝食の準備をしていた。
朝食は、昨日のスープの残りに麦片と果樹の実、それから香草を混ぜたもの。
テーブルに向かい合って、ルーシャの作ってくれた朝食を口にする。
いつもなら他愛ない話をするのだが、今日は全く言葉が見つからない。
ルーシャが時折こちらを気にするように見ていた。いつもなら気にもならない視線が、今日は棘のように刺さった。
「ロイド……?」
静かに呼ばれても、目が合わせられない。
暫く耐えきれない沈黙が続いた後、彼女が躊躇うように口を開く。
「あの……もしかして私、ロイドに何かしてしまったのでしょうか?」
「いや、何もしてないよ」
「じゃあ、何で何も話してくれないんですかッ。全然、目も合わせてくれませんし……」
「別に、いつもと変わらないだろ」
素っ気なく返してしまった。返した瞬間、喉が痛くなる。
違う、そうじゃない。ただ、どう言えばいいのかわからないだけだ。言葉にすれば、何かが元に戻らなくなる。そんな予感だけが先に立って、結局誤魔化すような台詞だけが口を滑っていく。
「……そうですか」
ルーシャは唇を結び、木椀の中を見つめた。
それからは、無言が続いた。
椀の底が、すぐに見えてしまった。食べる速度がいつもより早いのは、きっと自分のせいだ。
片付けを済ませ、外の冷気に触れて頭を冷やそうと扉を半ばまで開けたとき、羽音が頭上を掠めた。
くぐもった「くるっ」という鳴き声。戸口の梁に降り立ったのは、細い革の足環をつけた伝書鳩だ。
クロンに『緊急時の連絡はこれでするから持っていけ』と渡されていたもの。今日、初めてその役目を果たした。
ロイドは足環から小さな筒を外し、蓋をひねる。折りたたまれた薄紙を開くと、簡潔な文字があった。
『至急、商会まで。危急。詳細口頭』
クロンの筆跡だ。余計な飾りは一切ない。
何かあったのだろうか? それとも、教会がついにルーシャの居場所を掴んだとか?
背筋に緊張が走った。
「……クロンからだ。緊急の連絡があるらしい」
屋内に戻って告げると、ルーシャはすぐに立ち上がり、不安げな表情を浮かべた。
「緊急? 用件は書いてないんですか?」
「ああ。もしかすると、教会絡みかもしれない」
それからふたりはすぐに準備をして、外へ出た。荷馬車の具合を確かめ、馬具を手際よく装着する。
ロイドは手綱を握り、御者台に身を置いた。荷台の方で小さな物音。ルーシャがいつもの席に腰を下ろしたのだろう。
ふと、今朝の寝台の温もりと、寝言の残響が重なって、思わず奥歯を噛んだ。
車輪がきしみ、廃村の間を抜ける。冬の光は弱く、木立の影は長い。いつもなら通り過ぎるたびに見える小鳥の影を、今日は見ようともしなかった。風が頬を刺し、指先が冷えていくのに、手袋を直す気にもなれない。
背中の方で、柔らかな息が動いた気がした。何か言いたげな気配。だが、ルーシャは言葉にしなかった。こちらも、振り向けない。振り向けば、あの笑顔がある。問いかけがある。何かを壊す言葉が、きっと喉まで来てしまう。
そんな気がしてしまった。
(落ち着け。今はそれどころじゃないだろ)
自分にそう言い聞かせる。
だが、頭の片隅ではいつまでも彼女の寝言が浮かび上がってしまう。
エリオットの顔は知らない。声も知らない。
ただ、確かなのは、彼がルーシャの中で大切な人である、ということ。
自分を助けてくれた人の無事を祈るのは、当たり前だ。
それなのに……それすら受け入れられない自分の心が、酷く醜く思えた。