番外編 はじめての手がかり
ロイドが追放された場所から半日ほど離れた農村地帯を、エレナとフランは地図の余白を埋めるように一軒ずつ訪ね歩いた。
ロイドはあの時、所持品や所持金をユリウスに奪われていた。ならば、あそこから程近い場所に滞在しているのではないかと考えたのだ。
しかし──井戸端、物見櫓、農具小屋の陰、どこを訊いても『ロイド』という名に反応する顔は出てこない。
無論、彼に関する情報は名前のほかに『少し長い黒髪で黒衣を纏った剣士』という程度しかないので、捜索も難しいのだが。
フランが頭の後ろで腕を組み、ぼやいた。
「ロイド、いないね~。もっと大きな町にいったのかな?」
「町ねぇ……あんまりそういう印象ないんだけどな」
エレナの脳裏に浮かぶのは、喧噪から半歩退いたような男の背中だった。彼なら、人目を避け、誰にも足跡を残さないように暮らしていそうなものだ。
けれど、仕事の多さで言えば、確かに町のほうが理に適っている。最初は村で滞在して、落ち着いてから町に旅立った可能性もなくはない。
昼過ぎ、干し草の匂いが濃く漂う三叉路の先で、小さな農村を見つけた。食べ物と水を分けてもらえないかと尋ねると、村人たちは口々に困り顔を見合わせる。
「すまんがな、今ちっとばかし厄介があってのう」
「厄介事?」
「まあ、見ればわかる……」
畑の畦へ案内され、指さされた先に深い蹄跡が三つ並んでいた。刈り残しの根株が引き千切られ、土塊が散らばっている。
話を聞けば、数日前から三体のオークが近くに陣取り、畑を荒らしては夜明け前に森へ消えるのだという。家畜小屋の板戸にも拳大の凹みがあった。
オークはゴブリンなどと同じく雌がおらず、異種族の女を攫って苗床にするタイプの魔物だ。今はまだ畑以外に被害が出ていないようだが、村には若い女もいる。いつ攫われてもおかしくない。
(どこぞの精子脳クソ戦士を思い出すわね)
ガロの顔が脳裏に浮かび、一気に嫌悪感と不快感に襲われる。
人間でもあれだけ怖いのに、言葉も常識も通じない魔物となれば、その恐怖と嫌悪感は一層強まる。
放っておけなかった。
「この辺じゃ腕っ節の立つ若い衆は、ちょうど出稼ぎに出とってな。わしらだけじゃ、追い払うのがやっとなんじゃ。どうにか──」
ならんかねえ、という老人の擦れた声が重なるのを遮って、フランが鉄槌の柄を軽く握り直した。
「ねえ、エレナ。あたしらでやっつけちゃおっか?」
「……そうね。村の人たちだけで戦うのは危険だわ」
エレナは頷き、杖をぐっと握る。
女をレイプして繁殖など、到底許される生き物ではない。同じ空気を吸っていると思うだけでも不愉快だ。手の届く範囲にいるなら、殺しておきたい。
「おお、じゃあ……!」
「うん、あたしらに任せて! こう見えてあたしら、めっちゃ強いんだから」
フランが小さな胸に手を当て、自信ありげに答えた。
そんな治癒師の調子の良さに呆れつつ、エレナは畑の縁に膝をついて土を指で撫でる。
湿り気、土の締まり、重なる足跡の新旧。爪の間に残る黒土の感触が、昨夜から今日にかけての動きを語っていた。
風下の林へ、踏み荒らされた筋が伸びている。
「あっちね。日が暮れる前にやってしまいましょう」
「だね! オークって夜行性っていうし、今なら昼寝してるかも」
ふたりは足跡を追い、灌木の群れをくぐって薄暗い林床へ入った。樹皮の剥げた幹に、獣臭と脂臭さの混ざった臭いが、僅かに残っている。
「待って、フラン」
そのままずいずい進んでいこうとするフランを止めた。
「なに?」
「闇雲に進んで見つかるのは危ないわ。慎重に進んでいきましょう」
今、エレナたちに前衛はいない。後衛職だけで、膂力が人間よりも高い魔物を相手にしなければならないのだ。
しかも、村の人たちは三体と言っていたが、本当に三体かどうかも怪しい。潜んでいるオークが他にもいるなら、フランと二人だけでは厳しいものがある。
「万象の根源、遍く力……生命の灯火を示せ」
エレナは短く魔法を詠唱し、〈探知魔法〉を発動させた。
〈探知魔法〉とは、周囲の生命反応を探知する魔法だ。こういった索敵に、大きく役立つ。
エレナの頭の中に、生命反応が浮かんでくる。
「……いたわ。あっちよ」
エレナが指差した方角へ、ふたりで身を潜めつつ進んでいく。
やがて、泥に半ば埋もれた大岩の陰に、三体のオークがいた。粗末な毛皮をまとい、豚と猪を掛け合わせたような鼻面を鳴らす。ひときわ大きな個体はごろりと横になって鼻息を鳴らし、残る二体が槍を抱えて周囲に目を光らせていた。
三体という情報に間違いはなさそうだ。〈探知魔法〉も、他に大きな生命反応を検知していない。
エレナは〈探知魔法〉を解除し、小さく息を吐いた。
「どうする? いきなりやっちゃう?」
背丈ほどの灌木の影に身を沈め、フランが唇だけで囁く。
「……そうね。魔物相手に正攻法がどうの、なんて言ってられないものね」
「じゃあ、先にあの見張りを速攻で倒しちゃおう。あのリーダーっぽいのに集中したいしね」
「ええ。異論ないわ」
今の自分たちに、前衛はいない。寄られれば、一気に形勢は不利になるだろう。奇襲を拒む理由などなかった。
エレナは指先に魔力を集め、フランは小さく印を結ぶ。
空気がわずかに乾き、草いきれの中で光の粒がきらりと震えた。
合図は、視線の交差ひとつ。
「万象の根源、遍く力……汝、我が敵を拘束せよ」
エレナの短い詠唱と同時に、見張りの一体の足元がぱっと硬化し、〈拘束陣〉が炸裂した。
足首から膝まで石の枷が噛みつき、見張りの一体が転びかける。
「大地を統べる母なる御方よ……敵を撃て!」
そこへ、フランの〈聖光撃〉が直撃する。
もう一体がこちらに気付いて振り向くが──
「万象の根源、遍く力……〈電撃〉!」
その喉元へ、エレナの掌から走った雷が青白く刺さった。ふたりの巨体が同時に倒れ、地面がどん、と低く揺れる。
土埃にむせて飛び起きたボス格が、血走った目でこちらを見た。筋肉が波打ち、握った棍棒が唸る。半歩でも間合いに入ったら、骨ごと粉砕されるだろう。
フランが横目でエレナを見、顎を引く。
「一気に片付けましょうか」
「そうだね」
頷き合うと同時に、喉奥で共鳴の言葉を重ねた。魔力の波形を合わせ、フランの速度強化と魔力強化をひとつに束ねる。
胸の奥で脈動が弾け、ふたりの身体から淡い光が迸った。
「「──共鳴・双閃〉!」」
光はひとつに収束し、次の瞬間、眩い閃光となってふたりを包み込む。
フランの身体を駆け巡る魔力は疾風のように加速し、筋肉の繊維一本一本に火が灯るかのようだった。同時に、エレナの魔力も波を打つように拡張し、普段なら到底扱えない膨大な熱量が喉奥で燃え盛る。
空気が震え、地面がざわめき、見えない力の渦がふたりの周囲に奔った。
これは強化魔法がただ重なったものではない。お互いの心拍が、呼吸が、意志そのものが一つに重なり、相乗して増幅した力だった。
〈共鳴スキル〉──ただの増幅魔法とは異なり、その持つ力を何倍にも引き上げる、人間族が編み出した必殺技だ。
オークのボス格もそれを感じたのか、その豚のような顔に恐怖の色を走らせる。
「知ってると思うけど、あたしも近接戦闘はそこまで得意じゃないから。なるべく早めにね?」
フランが短く言って、鉄槌を構え直した。
「ええ、わかってるわ」
エレナの返事とともに、フランの靴裏が土を蹴る。
その動きは目で追う間もなく鋭く、鉄槌の面が棍棒の腹に叩きつけられた。鈍い音とともに、巨腕の軌道がわずかに逸れる。
フランは回転して肩を滑り抜け、二撃目で膝を掠めた。光の膜が彼女の全身を薄く覆い、棍棒の擦過を弾いていく。
エレナはその背中を視界の端で捉えつつ、地面の魔素の流れを掬い上げた。熱の源を一点に集め、乾いた枝葉に火種を走らせる。空気が焼け、焦げた脂の匂いが鼻を刺す。
「フラン、退いて!」
エレナの声とともに、フランはオークの足に一撃をくれてやってから、その顔面を強く蹴った。後方へと高く跳び、自らは退避する。
さすが、元勇者パーティーの相棒。連携も完璧だ。
「万象の根源、遍く力……炎よ、全てを呑み込め。──〈火嵐〉!」
詠唱の最後の拍に、世界が赤く裏返った。
岩陰から吹き上がる炎柱が渦を巻き、オークの全身を包み取る。毛皮が瞬時に爆ぜ、皮膚が焼け、叫びは風に引き裂かれて消えた。
やがて炎の渦がほどけ、黒炭が崩れて土に落ちた。林のざわめきが、ゆっくり音を取り戻す。
エレナは胸の前で両手を解き、余燼を風に流した。〈共鳴スキル〉も意図して切ってある。
「ふぅ……っし。いい感じに決まったね」
フランが鉄槌を肩に担ぎ、汗を拭った。
「ええ、完璧よ。怪我は?」
「ないない、無傷だよー。あたし、戦闘のセンスあるかもね」
「じゃあ、これから前衛お願いね。私は苦手だから」
「やだってば」
そんな軽口を交わしながら、ボス格の焼け跡から棍棒の金具を証拠代わりに外す。見張りの二体には、首飾り代わりの骨札がかかっていた。袋に収めると、ふたりは林を抜けて村へ戻った。
畦に顔を揃えた村人たちが、こちらを見るなり息を呑んだ。爆発音とともに、焼け跡の臭いが風に乗って先に届いたらしい。
村人たちの歓声が、ふたりを迎えた。
「それは、あのオークどもの……!」
「女の身でオーク退治なんて、できるものなのか」
「あんたら、まさか本当に倒したのか!?」
「すげえお嬢さんたちだ!」
村長格の老人が目尻を湿らせ、手を合わせた。
「いやぁ、感謝しておるよ……この近くには〝なんでも屋〟なんておらんのでなぁ」
「〝なんでも屋〟?」
聞き慣れない言葉にエレナが訊き返すと、村長は「おお」と頷いて話を継いだ。
「なんでも、グルテリッジの町にそういう職の二人組がいるそうなんじゃ。魔物退治もするし、稀少アイテムの採取もやってくれるらしい。町の困り事を何でも解決する、と前に出稼ぎに行ってた奴が言っておったよ」
「二人組、か……」
「ロイドではなさそうね」
一瞬ロイドかと思ったが、その可能性をエレナは即座に否定した。
ロイドが誰かと組む、ましてやわざわざ町場で看板を掲げる──そんな姿は、どうにも想像し辛い。彼なら何でもひとりでやってのけそうだ。
しかし、老人は「それじゃ!」と手のひらを打った。
「え? それって?」
「そのロイド、という名前じゃ。確か剣士の方の名はロイドというらしい。見た目は若いが、妙に落ち着いてて、剣の腕が立つそうじゃ。もうひとりの修道女の方は、名前を伏せてるらしいんじゃがの。大層美人さんとの噂じゃぞ」
「剣士でロイドですって!?」
剣士とロイドという組み合わせに、エレナの声が上ずった。
特徴がこれほどまで重なることは、なかなかない。
しかし、フランが唇を窄めて眉を寄せた。
「でも、女の人とふたりで行動するかな? だって、あのロイドだよ?」
「それも、そうなのよねぇ……」
期待はすぐに溜め息へと変わった。
常識の方が勝つ。ロイドが女性と組むということが、あまりに想像できなかった。
だが、心のどこかでは彼であってほしいと願っている自分もいた。それに、ここまでの旅で初めて拾った『ロイド』という名の手がかりだ。無視をするわけにもいかないだろう。
ふたりはそれから村の広場で簡素な報酬を受け取り、パンとチーズを籠に詰めてもらう。
陽は傾き始め、井戸の縁の影が長く伸びた。ふたりは村の外れまで歩き、舗装の甘い街道に靴を戻す。
「グルテリッジって、あんまりここから遠くないわよね?」
「歩いて数日ってとことじゃないかな?」
「……行ってみる?」
「行ってみよっか。他にアテもないしね」
フランもエレナと同じ発想だったようだ。
決まってしまえば、背中の重さが少し軽くなる。風が畑の波を渡り、刈り終えた麦の株が夕陽に鈍く光った。
エレナは肩の外套を合わせ、遠くの地平に目を細める。
たどるべき線が一本、はっきり描かれた気がした。
ふたりは荷を背負い直し、グルテリッジの方角へ、同じ歩幅で歩き出す。
靴裏が土を押す音が、ゆっくりと重なった。新しい足跡の列が、薄茜の街道にまっすぐ刻まれていく。