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第38話 小さな依頼

 南の外れへ向かう道は、冬の陽を斜めに受けて白く乾いていた。

 丘をひとつ越えるごとに風が冷たくなり、御者台の手綱を握る指先から、じわじわと感覚が薄れていく。

 二つ目の稜線を下り切ったところで、石垣に囲われた屋敷と、背の低い納屋、それから広く開けた畑が見えた。畝は整然と並び、その端には枯れた向日葵が一本、旗のように黒い円を冬空に掲げていた。

 紹介状を懐で確かめ、門へ回り込む。戸口に立って声をかけると、軋んだ音を立てて扉が開き、皺の濃い手が現れた。

 出てきたのは、骨ばった肩の老爺と、その脇から顔をのぞかせる、目尻の明るい老婦人だ。


「どなたさんだい?」

「バーマスティ商会の紹介で来た〝なんでも屋〟だ」


 ロイドの挨拶とともに、隣のルーシャがお辞儀をした。

 念のため、今日も言葉を発さないようにと言ってある。


「〝なんでも屋〟? なんだいそれ。うちは何も依頼など出しとらんぞ」

「ちょっと相談があってな。紹介状がある」


 ロイドは紙封書を差し出した。

 老爺は眉根を寄せて受け取り、封蝋を割る。

 目を細め、行間を追うようにしてから、ふう、と小さく息を吐いた。


「……ああ、子供商人のところか。あの子は手が早いね。で、うちには種の相談だと書いてあるが」

「ああ。畑を起こしたばかりで、春に備えて種を分けてもらえないかと思ってな」


 ロイドの答えに、脇の老婦人がぽんと両手を合わせる。


「若いのにえらいねぇ。自分で食べるものを自分で作るのが一番だよ。だけどね……」


 そこで老婦人は視線を畑に投げ、少し困った顔で続けた。


「去年、畑を荒らす小動物に種を食い荒らされて困ったのさ。播いたそばから掘られてね。だから、余分な種を渡すのは、ちょっと気が引けるんだよ」

「蒔いても蒔いても、夜のうちに掘られてはかなわん。籾も豆もやられた。種は金と同じだ」


 老爺も頷いた。唇の端に、諦めの線が浮いていた。

 なるほど、そういう事情があったのか。

 老夫婦の手つきからは、何十年も畑を守ってきた様子が伝わってくる。簡単に頷かせようと思う方が無理だ。

 ロイドが返す言葉を探していると、老婦人が「ただね」と声を和らげた。


「代わりに、畑の周りの穴を塞いでくれたら、余った分を譲ってもいいわ。畦の外れにいくつも巣ができてて、どうにも厄介でね」

「穴を塞ぐ、か……」

「そう。柵も直したけど、根元から潜られちゃう。あんたたち、若い力で土を返して固めてくれないかい?」


 条件は明快だった。ロイドは即座に頷く。


「わかった。やらせてもらおう」


 ルーシャも一歩前に出て、ぱっと明るく頭だけ下げた。

 言葉は発せないので、あくまでもお辞儀だけ。その様子に、老夫婦は怪訝そうに首を傾げた。

 老爺が顎で畑の南端を示す。そこは屋敷から離れ、畦道をひとつ挟んだ林縁に接していた。風の通り道になっているのか、落ち葉が吹き溜まり、地面には小さな穴が点々と口を開けている。


「ここだ。見ての通り、土が脆い。いくら埋めても、次の朝には掘り返されてる」

「確かに、通い穴が多いな」


 ロイドはしゃがみ込み、指先で土をすくった。

 乾きと湿りが交互に層を作っている。

 獣の匂いがかすかに鼻を掠めた。モグラ、イタチ、それから小さな野鼠。足跡は新しくはないが、風向きが変わればまた動くだろう。


「状況はわかった。後はこっちで何とかやってみるよ」

「そうかい。宜しく頼んだわよ」


 老夫婦はロイドたちに背を向け、家の方へと帰っていった。

 魔法を使うにせよ、ルーシャと話すにせよ、あのふたりがいては邪魔だ。ふたりきりで任せてもらった方がいい。

 ちょうど老夫婦が離れた頃合いで、ロイドたちはほっと息を吐いて、顔を見合わせた。


「じゃあ、こっちからぐるっと回って、ひとつずつ見ていこうか」

「はい」


 ロイドは鍬とスコップを手に取り、穴の縁から一尺ほど外側に刃先を入れた。

 土を返すと、空洞が連なっている部分が見える。そこへ枯れ枝を押し込み、行き止まりを確かめてから、崩れないように土を落とした。


「ルーシャ、ここの締め、頼めるか?」

「はい。深くまで固めないようにしますね。表面だけ……」


 ルーシャは老夫婦がもう家に入っていることを確かめると、そっと膝をついた。

 両手を土へ添え、短く息を吸う。彼女の指先から微かな光が染み込み、崩れた縁がしゅんと落ち着いていった。地の粒と粒の間に、糊のような力が通ったのが、手のひらに伝わってわかる。


「完璧だな。この調子でやっていこうか」


 刃を入れて土を返し、穴を潰して表土を締める。呼吸と手順が揃っていくうちに、ふたりの動きは自然とリズムを刻みはじめた。

 時折、枯れた茎を束ねて詰め、表から踏んで密度を上げる。畦の角には小石を並べて、獣の鼻先が入り込みにくいように斜面を鈍く整えた。

 半周ほど進んだところで、落ち葉の山がもぞりと動いた。細長い胴がひとつ、影からするりと出てくる。琥珀色の目、尖った鼻先。イタチだ。


「……一応、駆除しておくか」


 ロイドが反射的に腰の剣へ手をやる。相手は素早い。ここで逃せば、夜にまた来るかもしれない。

 しかし、袖を小さく引かれた。


「ダメですよ。あの子たちも生きていくために必死なんですから」


 ルーシャが優しく諭すように言った。

 そう言われてしまうと、もう剣を抜く理由はなくなってしまう。

 視界の端でイタチがこちらを窺い、素早く落ち葉の海に消えた。


「……そうだな」


 刃を下ろし、代わりに地面を見た。

 彼らの通い道は決まっている。鼻先が触れて気持ちの悪い臭いや、足裏に嫌がる感触を用意すれば、畑から遠ざけられるかもしれない。


「駆除じゃなくて、『畑に近づけない工夫』をするのはどうだ? 柵の根元をもう少し深くして、脇に忌避草を植えるとか。香りの強いものなら、あいつらも嫌がるだろ」

「あ、それいいですね。修道院の菜園でも、薄荷やローズマリーを畝の周りに植えていました。動物だけじゃなく、虫も嫌がりますから」

「なるほど。じゃあそれでいくか。ここが出入口になってる筋に束を埋め込もう。風で臭いが走るようにすればいいだろ」


 近くの藪から蔓をとり、細い束で仮の柵を編んでいく。根元の浅いところは石を置き、蔓の上に土を載せて固定した。

 ルーシャは腰の袋から香草の束を出し、ほんの少し魔力で香りを引き出してから、周囲の土と一緒に浅く埋め込んだ。

 強すぎない。けれど、風が変われば確かに鼻を刺す。そんな絶妙な加減に仕立てあげてくれた。


「ここは枝も倒しておこう。背の低い障害でも、足を止める」

「わかりました」


 ふたりは黙々と手を動かし続けた。

 陽が傾くにつれ、土の色が濃くなっていく。暑くはないので、汗はかかない。けれど、肩と腕の筋肉だけは、確かに仕事をしたと告げてくる。

 最後の穴を落とし、土をならし、束ねた香草を埋め込んだ。ぐるりと一周を終えると、畑は午前よりも整って見えた。


「終わりました!」

「お疲れ、ルーシャ。ありがとな」

「いえ。ロイドもお疲れ様です」


 ふたりは土を払って立ち上がり、笑顔を交わした。

 屋敷まで戻ると、老夫婦は戸口で待っていた。こちらを見る表情に、探るような緊張が薄い。


「見てきなよ、お前さん」


 老婦人に促され、老爺が畦道へ降りる。

 土の表面を杖の先でつつき、締まりを確かめ、香草の埋め込み位置に目を細めた。戻ってくるなり、短く頷く。


「……うむ。ようやってくれた」


 老婦人が、皺の間をふわりとほどいて笑った。


「あなたたち、思ったより誠実だね」

「頼まれたことをやっただけだ。大したことはやっていない」


 ロイドは視線を畑へやった。落ち葉の海の下に潜んでいた細い影を思い出す。剣で片が付く話だけではない。自然の中では、生かす術と遠ざける工夫が要る。それを、改めて学んだ気がした。


「種を、分けてもらえるんだよな?」

「もちろんさ。約束は守るよ」


 老婦人は家の中へ消え、ほどなくして麻袋をいくつか抱えて戻ってきた。

 指先の仕事が見て取れる丁寧な縫い目。口を開ければ、乾いた匂いと、別々の色がのぞいた。丸い豆、褐色の粒を含んだ麦、それから小さな香草の種。ひとつひとつ、紙の札が結わえてある。


「豆は丈夫だよ。麦は、秋から冬にかけて耐えられる。香草の種は、風を嫌う。うちで余った分だけど、質はいいよ。ただ、この種は土を選ぶからね。大事にしてやってちょうだいね」

「ありがとう。大切に育てるよ」


 ロイドの言葉に同意するように、ルーシャがこくこくと頷いていた。

 礼儀正しい彼女からすれば、声でお礼を伝えられないのは不便だと思うが、まあそれも仕方がない。


「春先にまた困ったことがあれば、おいで。手が空いてたら手伝いくらいはするよ」


 老爺はそっけないが、言葉の底に温度があった。

 ロイドは深く頭を下げ、袋を慎重に荷台へ積んだ。

 御者台へ戻ると、老婦人がふと思い出したように手を叩く。


「ああ、それと。あんたのとこの畑、森に近いなら、柵の角に鈴を下げるといいよ。風で鳴るだけでも、連中は警戒するから」

「覚えておく」


 手綱を握り、礼を言って屋敷を後にした。

 門がゆっくり閉まる音が背に流れる。陽は山のほうへ傾き、畑の畝に長い影が落ちていた。

 町へ戻る道は、人通りが少なくなっている。広場を過ぎるころには露店の幌が下り始め、鐘楼の鐘が夕刻を告げた。

 視線を気にする必要もない。ロイドは荷台にいたルーシャへ声をかける。


「前、空いてるぞ。来るか?」

「いいんですか? それでは」


 彼女は嬉しそうに御者台へ上がり、隣に座った。フードの縁を確かめ、薄い息を吐く。


「春になったら一緒に蒔こうな」

「はい! 芽が出るのが楽しみです」


 その横顔は、どこか子どものように無邪気だった。

 ロイドは袋へ視線を落とす。豆の重み、麦の軽さ、香草の細かさ──どれもが、土の中で形を変えていく未来の重さだ。


「収穫できる頃、俺たちはどんな暮らしをしてるんだろうな?」


 思わず口をついて出た。自分でも驚くほど自然に出た言葉だ。

 隣でルーシャが少しだけ首を傾げ、すぐにふわっと微笑む。


「きっと、今と変わりませんよ。こんな風に、一緒に働いて、ご飯を食べて。私は……そうだったらいいなって思ってます」

「だな。平穏なのが、一番だ」


 剣を振るう日もあるだろう。逃げ道を確かめる夜もあるだろう。

 それでも、朝には土を撫で、昼に釘を打ち、夕に湯を沸かす。そういう日々の先に安息があるならば、少しずつでもそこへ近づいていけばいい。

 暮れていく夕日が、丘を赤く舐めた。風が背中の外套を押し、ふたりの肩がふっと触れ合う。

 ルーシャは身じろぎもせず、そのままほんの少し、ロイドに身体を預けた。御者台の木が小さく鳴り、車輪は途切れのないリズムで石を踏んでいく。

 ロイドは手綱を緩め、廃村へ続く道に馬の鼻先を向けた。

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