第37話 種がほしい
食卓に残る湯気を横目に、窓の外では霜が朝日でじわじわと消え始めていた。
「ふぁあああああ……」
ロイドはひとつ大きな欠伸を噛み殺して、結局噛み殺しきれずに吐き出した。喉の奥が震え、視界の端がじんと滲む。
「あれ? ロイド、昨夜はよく眠れませんでしたか?」
匙を置いた瞬間、向かいの少女がきょとんと目を瞬かせる。
「……ちょっと寝つきが悪くてな」
言ってから昨夜のことを思い出し、内心で苦笑した。
火を落として寝台に潜り込んで暫くすると、そっと背中に温もりが寄り添ってきた。
ルーシャの小さな頭が肩甲骨のあたりに収まって、呼気が衣越しに擽ったかった──どうやらルーシャ眠ると抱きつき癖があるらしい──が、もちろん本人にその自覚はない。言えるわけがなかった。
「そうだったんですか。では、眠りを促す薬草を煎じておきますね」
ルーシャは心底からの善意で言い、にこりと笑った。
いや、原因はそこじゃない、と喉まで出かかったが飲み込む。
「そいつは頼もしい。よろしく頼むよ」
ロイドは肩を竦めるだけに留め、木椀を手に取る。
昨夜の残りに香草を足したスープは、根菜の甘みが腹にじんわり染みた。
パンは厚めに切って炙り、果樹の実を割って添えてある。切り口の透明が陽に透け、蜂蜜をひと筋垂らすと、細やかな贅沢の匂いが立った。
匙と匙の間を埋めるみたいに、自然と畑の話になる。
「そういや、畑だけど……春に何を植えようか」
「修道院ではお豆やハーブをよく育てていました。あ、でもお野菜があるといいですね!」
ルーシャは手のひらを胸元で軽く合わせ、声を弾ませた。
「なるほど」
耕したばかりの畑の土色が、脳裏に浮かんだ。
昨夕、ふたりで肩を並べて起こした土は、いくつかの畝として形を得たばかりだ。
そこに色々な作物が実ると思うと、テンションも上がってくる。
「だったら、それを目指すか」
ロイドは頷く。だが、現実は別の顔を見せた。
「……でも、種がないな」
ロイドの指摘に、ルーシャも「あっ」と小さく声を漏らした。その様子が妙に可笑しくて、ロイドの頬が緩む。
「じゃあ、今日のうちに町へ出るか。昨日の報酬もまだ受け取ってないしな」
「はいっ。クロンさんに、種のことも相談してみましょう」
食器を流して家の火を落とし、外へ出た。空気はまだ冷たいが、陽射しは昨日より柔らかい。
馬の首筋を撫でて手綱を取ると、廃村を縁どる林の影が揺れた。木立を抜けるうち、車輪が土から石へ移る音が、耳に軽やかになる。
*
グルテリッジはいつも通りの匂いで迎えた。焼きたてのパン、獣脂、鉄、香草。通りの向こうで子どもが走り、鐘楼の小さな鐘が時を刻む。
荷馬車を広場脇に付け、バーマスティ商会の扉を押すと、卓上から顔を上げた〝子供商人〟が、いつもの軽い笑みを浮かべた。
「やあ、昨日はお疲れ様。依頼人も大満足。好評だったよ」
まずは労い。言葉は軽いが、目は仕事の重さを測る秤を忘れない。
ロイドは頷き、懐から依頼書の控えを出して卓に置いた。
「そいつはよかった。ちょっと別口の相談があるんだが、いいか?」
「なんだい?」
「畑跡を再利用するって言っていただろ? 昨日、いい感じに整えられたんだけど、肝心の種がないんだ。どこで手に入る?」
今朝町に着いて市場を覗いてみたが、野菜そのものは売っていても、肝心の種は売っていなかった。
クロンは「ああ、それね」と納得した様子で、顎に手を当てた。
「ここグルテリッジでは、農家を保護するために種そのものの販売は行われていないんだ」
「あんたんとこでも扱ってないのか?」
「種そのものはうちでも扱えない。ただ、町の農家に分けてくれそうな人ならいるよ。去年の天候で収量にムラがあってね、余りが出た家がいくつかあったはずだ」
「どなたか紹介していただけないでしょうか?」
ルーシャがクロンに訊いた。
クロンは「ああ、構わないよ」と言いながら、カウンターの引き出しを引く。
細長い紙束の間に指先を滑り込ませ、白紙の一枚を抜き取った。
「ひとり、種をくれそうな農家に心当たりがある。紹介状を書こうか?」
「本当ですか!? ぜひお願いしますっ」
ルーシャの顔が、ぱっと明るくなる。
クロンは肩を竦め、ペンを走らせた。
「いやいや、このくらいのことなら全然。お安い御用さ。でも……ちょっと気難しい人でね。一度、尋ねてみてくれないかい?」
さらさらと走った文字は小気味よく並び、最後に商会の印が押された。紙面から立ちのぼるのは、乾いたインクの匂い。
クロンは封をして、手渡すでもなく、テーブルに置いたままロイドを見た。
「……あと、教会の件。少し探りを入れてみた」
「──!?」
ロイドとルーシャの顔が、同時に上がる。
クロンの瞳は真剣なものだった。
彼は声を潜めて言った。
「一応今のところ、偽聖女がどうの、という話はこの町には出ていないみたいだ。暫くは、落ち着いて暮らせるんじゃないかな」
その言葉に、ふたりがほっと安堵の息を漏らした。
ただ、あくまでも暫定の状況でしかない。この平和もいつ崩れるかわかったものではなかった。
油断は禁物だ。
「――で、報酬だね。昨日の分。中身、確認して」
クロンは声音をもとに戻して、小袋がひとつ、こつりと卓に置いた。
小袋の中を覗き込んで確認すると、依頼書に記載された額とぴったり同じだった。
「確認した。問題ない」
「では、この依頼に関してはこれでおしまい、と」
クロンは細い笑みを深め、テーブルの上に置かれた紹介状に視線を落とした。
「紹介状は町外れの南側、丘を二つ越えたところの農家宛てだ。旦那は無口で、奥さんは言葉が早い。言葉より手を動かす人たちだよ。……ああ、それと」
ふっと視線をルーシャのフードに滑らせた。
彼女はここに来る時、いつもの通りフードを深く被っている。白い光を控えるように、と昨日もクロンから釘を刺されたのはロイドの方も覚えている。
「今日は人が多い。用心して行ってきな。変に目立たないこと。君たちなら大丈夫だと思うけどね」
軽口の終わりに、少しだけ真顔。
ロイドは「心得た」と短く返し、紹介状を懐に差し込んだ。
商会を出ると、通りの陽射しが眩しかった。荷馬車の荷を確かめながら、ルーシャがこちらを見上げる。
「クロンさん、優しいですね」
「あいつからしたら、優しさも商売道具だろうさ」
「もう、ロイドったら。ひどいですよ?」
ロイドの軽口に、ルーシャは肩を揺らした。
「よっと」
ルーシャが荷馬車に乗ったのを確認してから、ロイドも御者台へ上がった。
手綱を握る前に、ふと後ろの彼女を見る。
ルーシャはいつものようにフードの縁を指でそっと整えていた。
「寒くないか?」
ふと、そんなことを訊いてみる。
彼女は小首を傾げた。
「……? はい、大丈夫です。いきなりどうしたんですか?」
「いや、何となくだ。今日は少し寒いからな」
ロイドはそんな言い訳をしてから、馬の首筋を軽く打つ。
車輪がゆっくりと回り出し、石畳のリズムが腹に伝わる。南の外れ、丘を二つ。紹介状の紙が衣の内でかすかに鳴った。
なんとなく、昨夜の背中の温もりを思い出してしまって、訊いてしまった──とはさすがに言えない。
(それにしても、種か……この俺が)
剣ではなく、土の中に未来を差し込む仕事。
刃を握るのとは違う緊張が、手のひらに広がる。やがてあの畝に緑の糸が並び、夏には葉が影を作るのだろうか──そんな未来を、ぼんやりと思い描いた。
「行こう」
「はいっ」
ふたりの返事は短く、しかし足並みは揃っていた。
町外れへ向かう道は一本だけ。曲がり角のたび、ルーシャの外套が陽を弾き、小さな光の粒が跳ねる。
丘の頂では風が強く、遠くに次の丘の稜線が薄く伸びていた。
荷馬車は、紹介状の宛先へと、静かに揺れながら進んだ。