第5話 光の抱擁
ロイドの意識は、まるで深い沼に沈んでいくように暗く濁っていた。
身体の芯を焼くような痛み。右腕に纏わりつく黒炎が肉を焦がし、骨を軋ませて、魂までも引きずり込む。
いつものことだ。〈呪印〉が暴走する時は、こうなってしまう。これまで通りなら、このまま暴走が収まるまで周囲のものを傷つけ続けていただろう。
だが、今回は違う。少女の悲痛な声が微かに聞こえ、かろうじてロイドの意識を繋ぎとめていた。
「お願いです、目を開けて下さい!」
とても綺麗で澄んでいて、透き通った声。彼女の呼び掛けはただただ必死で、それでいて健気だった。
肩にふわりと触れた小さな手の温もりが、ロイドの感覚を現実へと引き戻していく。
胸元に触れた微かな香り。花のような、淡く甘い香りが鼻先をくすぐった。
ロイドはゆっくりと目を開けた。
すると──ぼやけた視界の中に、長い白銀色の髪を持つ女が入ってきた。その浅葱色の美しい瞳はこちらを覗き込んでおり、憂色に染まっている。
そこで、意識が覚醒した。
「女……ッ。今すぐ、ここから離れろ」
ロイドは何とか身を起こし、右腕を押さえながら彼女に言った。
右腕には、漆黒の紋様──〈呪印〉が浮かび上がっている。瘴気がまだ完全には収まっておらず、黒炎が燻ぶるように揺れていた。
「俺は……お前まで、傷つけたくないんだ」
必死に堪えるように歯を食いしばり、汗が額から滴る。
暴走は終わっていない。油断すれば、また意識が飛んで周囲を攻撃してしまうかもしれない。
せめてこの少女だけは巻き込みたくなかった。
しかし、彼女は怯むことなく、ロイドをじっと見つめていた。その浅葱色の瞳には、確かな意志が宿っている。
「これ……〈呪印〉ですよね?」
少女がロイドの右腕を見て、ロイドに訊いた。
「えっ……?」
その言葉に、思わずロイドは目を見開いた。この紋様を見て〈呪印〉だと即座に言い当てた者は、今まで一人もいなかった。
だが彼女は、怖がるでもなく、戸惑うでもなく……むしろどこか落ち着いた声音で、こう言った。
「……大丈夫です。私に、任せてください」
それは不思議な安心感を伴う声だった。
遠い記憶にある、母に呼び掛けられるような感覚というのだろうか。優しくて、でも芯があって──ロイドの中の暴れ狂う何かが、ほんの少しだけ、鎮まった気がした。
「大地を統べる母なる御方よ……この者を救いたまえ。〈光の抱擁〉」
少女はそう呟くと、胸の前で小さく十字を切って、そっとロイドを抱き寄せた。
その動作には、一切の躊躇いがなかった。疑念も怯えも恐怖さえも。目の前の男が恐ろしい力を暴走させた存在であることなど、まるで意に介さないように。ただ、今は目の前の誰かを救いたいと、そう願う祈りだけが、彼女の中に在った。
そして、次の瞬間──白く、やわらかな光が少女の腕から広がり、ロイドをそっと包み込んだ。それは熱くも冷たくもない、どこまでも優しい光だった。
ロイドの右腕に纏わりついていた黒炎が、その光に触れるたびに、ゆっくりと静まり始める。焦げ付くようだった痛みが、次第に和らいでいって。焼かれていた肉も、軋んでいた骨も、張り裂けそうだった魂までもが、少しずつもとに戻っていくようだった。
「もう少しの間、辛抱して下さいね。大丈夫ですから」
まるで母が子を宥めるような優しさに満ちた声とともに、少女はロイドを抱き締める力をほんの少し強める。
それから間もなくして……〈呪印〉の暴走は、完全に止まった。
「そんなバカな……!?」
ロイドは身体を起こし、吃驚の声を漏らした。
本当に何ともない。暴走の気配は完全に消え失せており、まるで暴れ狂う猛獣が、従順な仔犬にでもなったかのようだった。
まさか、本当に止まるとは思わなかった。
これまでに幾度となく制御不能に陥り、誰にも止められなかった〈呪印〉の暴走。
それが、いま──この少女の抱擁と、祈りの光によって、確かに落ち着きを取り戻している。
信じられないような思いで、ロイドは少女を見上げた。
「……落ち着きましたか?」
ロイドの身体を覆っていた光が完全に消えると、少女はゆっくりと身体を離し、浅く息をついた。
「……ああ」
ロイドは自らの両手を唖然と眺めた。
体内を暴れ回っていた〈呪印〉の瘴気はまるで嘘のように静まり返っている。黒炎はすでに消え失せ、ただ焦げたような痕跡だけが、右腕に残っていた。
「でも……どうやって? これまで誰も、この暴走を止められたことなんてなかったのに」
その疑問に、少女はふっと目を伏せ、嫣然と微笑んだ。
そして、誇らしげにこう答えたのだった。
「こう見えて私、〈解呪〉は得意ですから」
「……得意?」
ロイドはぽかんとした顔で訊き返す。
これまで、〈呪印〉が暴走しないように何人もの治癒師や神官たちに依頼してきた。しかし、何れもその手には負えなかった。もちろん神官も〈解呪〉でこの力を封じようとしてくれたが、どうにもならなかったのだ。それなのに、こんな若い少女が完全に抑えつけた?
まるでとんでもない冗談を言われたかのように、ロイドは呆然としたまま彼女を見つめるしかなかった。
「そういえば、自己紹介がまだでしたね」
少女はロイドの反応にくすっと笑い、そっと自らの胸に手を置いた。そして、浅葱色の瞳をロイドに向けて、こう続けたのだった。
「私、ルーシャ=カトミアルっていいます。少し前まで、〝聖女〟と呼ばれてました」