第36話 畑を作ります!
グルテリッジから戻った荷馬車は、午後の陽に影を長く引きずりながら、ザクソン村跡のはずれで軋む音を止めた。
乾いた風が草の穂先を撫で、空には鷹が点のように浮かんでいる。ロイドは荷台から降り、見慣れた廃屋の並びを抜けて、昔は畑だった一角へ足を向けた。
そこは、記憶より荒れていた。背丈の低い潅木が島のように点在し、根を深く張った多年草が地表を縄のように縛っている。土は踏み石みたいに固く、表面に散った小石が陽を弾いた。
「また日が暮れるまで少しあるし、早速畑を起こしてみるか」
自分に言い聞かせるみたいに、ロイドは声にした。
「思ったより大変そうですね……」
肩を並べたルーシャが裾を摘みあげて雑草の海を覗き込み、素直に息を呑む。
日が暮れるまでに終わるのだろうか。結構怪しい気がする。
明日から始めてもいいのだけれど、どうせなら話を聞いた日のうちに、できるだけのことはやっておきたい。
疲れた体に鞭を打って、小さく息を吐いた。
「まあ、やれるだけやってみよう」
ロイドはそう言って、商店で買ったスコップを握った。
まずは、足場を何とかしないといけない。
石を退け、根の走りを読む。刃先を土へ差し、体重を載せて押し切った。厚い土塊が、ぐっと音を立てて反転する。
最初の一突きで、腕に重さが跳ね返ってきた。石だ。刃をずらしてもう一度。今度は根っこが引っかかる。スコップの先で優しくほぐし、指で千切った。
腰に来る作業だが、嫌とは言っていられない。それに、ゆっくりやってもいいのだし、自分のペースでやっていこう。剣の間合いと違い、こちらの相手は、急がずとも逃げないのだから。
「ここ、少しだけ柔らかくしますね」
ルーシャが膝をつき、土に手のひらをかざした。
ふわりと光ると、土の粒子がきしむような音を立て、少しずつほぐれていく。魔法で畑ごと耕すこともできるらしいのだが、彼女はあまりそれをやりたくないと言っていた。やり過ぎれば、土の息が乱れるからだ。
老婦人の「土も生き物だよ」という言葉を、彼女は大地母神リーファ教の教えから既に知っていたのだろう。
「助かる。そこから一列いこう」
「はいっ」
息を合わせ、列を刻む。ロイドが起こし、ルーシャがほぐす。或いは、ルーシャが根を気配で見抜いて、ロイドが刃を入れて断った。ふたりの影が、少しずつ畑らしい形の上を行き来する。
土の腹から、古びた道具や陶片が顔を出した。
鉄の赤が鈍く光る古い鍬の先に、絵付けの破片になった陶器、それから焦げ色の木片。
ロイドはそれらを手にとり、手のひらで埃を払った。
「ここで、誰かが毎日耕してたんだなぁ」
感慨深げに口に出すと、時間の手触りが増す。
ルーシャは破片を覗き込み、笑った。
「絵が可愛いですね。お皿、でしょうか?」
「だろうな。……よし、危ないから金属は一旦まとめて端に出しておこう」
集めた錆の塊は、今度鍛冶屋に持っていけば何かに生まれ変わるかもしれない。
廃村は、ただ残骸があるわけではない。使い道を見つけられる目さえあれば、ちゃんと今を生きる道具になる。
額の汗が顎を伝い、土に落ちた。振り上げたスコップの影が夕日を横切っていく。
土起こしに区切りをつけると、ふたりは廃村の外れへ向かった。
老婦人の助言の二つ目——肥やしを手に入れなければならない。古い納屋跡の裏手には、風で飛んできた落ち葉や枯れ草が年を重ね、半分堆肥のようになった山がある。これを上手く使えないだろうか、という話になったのだ。
「あ、結構良さそうですね」
ルーシャが袖をまくり、手箕代わりの板で枯れ草を掬った。
ロイドは麻の袋を広げ、山の下の方、黒く湿った層を重点的に集めていく。指でつまめば、すぐに崩れて強い臭いがした。土の食事にちょうどいい。
「でも……ちょっと臭いが強いかもですね。あっ、そうだ」
何かを思いついたようにルーシャが小袋から摘み出したのは、香草の束だった。この前、町で買ったものだ。
「これ、混ぜておきますね。これならそこまで臭いも気にならないと思いますし」
ルーシャは言って、香草を混ぜた。すると、臭いは柔らぎ、風の匂いに溶けていく。
さすが修道院育ち、生活の工夫がさりげない。
「ありがとう。これで鼻がもげずに済みそうだ」
ロイドは肩で笑い、麻袋の口を括った。
戻る途中、荷台の乾き物の袋に、小さな影が鼻先を突っ込んだ。細い胴、鋭い目。イタチの類いだろうか。
「あ、こらっ!」
ロイドが手のひらを打つと、影はびくりと跳ね、草むらへ滑り込んだ。
追うほどのことでもない。食糧を守るのは大事だが、わざわざ仕留める必要はなかった。
そんなロイドを、ルーシャが窘める。
「もう、ロイドったら。ダメですよ?」
「え?」
「あの子たちも食べ物を探しているだけですから」
ルーシャはしゃがみ、草の縁へ果樹園でもいできた果実を三つほど置いた。
ロイドが荷を持ち直して立ち上がると、さっきの小動物が茂みの影から鼻先だけを覗かせた。慎重に周囲を窺い、やがて足音もなく近づくと、果実を前足で抱えて素早く茂みに消える。
枝葉の奥で、皮をかじる小さな音が、風の間にかすかに混じった。
「ふふっ、可愛いです。たくさん食べてくださいね」
その様子を見て、ルーシャが顔を綻ばせた。
共生の意識、というものが根付いているのだろう。彼女のこういった側面を見ると、とことん自分が未熟だと思わせられる。
「さすがは白聖女様ってところか。俺も見習わないとなぁ」
「そんな大したことしてませんってば。それに私、偽聖女ですから」
ルーシャは照れ笑いを浮かべ、軽口を叩いた。
自分でネタにできるくらいには、もう〝偽聖女〟の一件を気にしていないらしい。
「そいつは本物顔負けな偽聖女だな」
ロイドは肩を竦め、荷台を押して歩き出した。
採りすぎず、奪いすぎない。そその塩梅が、この土地で暮らす術なのかもしれない。
日が沈み始めたところで、二人は起こした土へ肥やしを入れた。袋から土の上に落とし、鍬で混ぜ、足で踏み、また返す。
全体がふかふかの褐色に変わっていくまで、慌てずに繰り返した。
「すみません、ロイド。ここ、お願いできますか?」
「おう」
鍬の刃を入れる。土の芯がほどけ、混ざった。もう一度返すと、空気を含んだ柔らかい匂いが立つ。
「……こんなもんか?」
「だと思います」
冬の前にここまでやれれば充分だ。
春にもう一度軽く起こして、畝を引けばいい。
「畝は……この向きでいこうか」
ロイドは足で線を描き、縄の代わりに細い枝で目印を置いた。
鍬の背で面を撫で、線を引き、土を寄せ上げる。
ルーシャが後から指先で整え、崩れかけた畝の縁を魔法でそっと支えた。魔力の光はほんの一滴、土の呼吸を邪魔しない程度に。
一本、二本、三本。畑の輪郭が、陽の斜線の中に浮き上がってくる。
「少し休むか」
腰を伸ばすと、背骨の間がぽきりと鳴った。
視界の端で、ルーシャが「はい」と頷き、柔らかく微笑む。頬がほんのり赤くなっていた。
「こうして見ると、畝って綺麗ですね……並んでると、気持ちいいです」
「ああ。剣筋が揃うのと似てる」
「ふふっ、ロイドらしい例えですね」
他愛ない会話が、風に運ばれて畑の端でほどけた。
赤く深まった空に、長い影が重なる。最後の畝に鍬を入れ、寄せた土の肩を手のひらで撫でた。
「これで、春には何か植えられるな」
「はいっ。今から楽しみです」
ルーシャが小枝の支柱を挿して目印を付け、言った。
その声は、いつも以上に柔らかい。
ロイドの胸の底で、老婦人の『土も生き物』という言葉がふっと浮かんだ。
(俺たちも、ここでちゃんと根を張れたらいいな)
言葉にはしない。代わりに、鍬の先で小さく土を突いた。
暮れていく空の下、畑の肩が赤く染まって、風が強く吹き抜ける。
どこかで鳥が家路を呼ぶ声を上げ、廃屋の影が静かに伸びていた。