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第34話 逃走袋と平和と

 夜の余熱が石に残り、朝の冷えが草の先を白くする頃、ふたりは廃村の外れにいた。

 昨日の湯の気怠さと気恥ずかしさは既に抜け、肺に入る空気は澄んでいる。

 鳥の短い鳴き交わしと、遠い小川の音。ロイドは周囲の地形を目でなぞり、踏み跡がつきにくい場所と、目印になりすぎない木立の並びを確かめてから、立ち止まった。


「このあたりでいいかな。ルーシャ、魔法で穴を掘ってくれるか?」

「穴、ですか? それは構いませんけど……」


 ルーシャは首を傾げつつも、両手を胸の前で軽く合わせ、地面へ意識を落とす。

 彼女の靴先の周りで土がふわりとほどけ、風船がしぼむように沈んだ。すると、みるみるうちに、膝がすっぽり隠れるほどの穴が口を開けていく。湿りを帯びた土の匂いが、新しい朝にひと筋の陰影を差した。


「助かるよ。ありがとう」


 ロイドは背負ってきた革袋を解き、腰を落として中身を改めた。

 昨夕、クロンの卓上で鳴ったあの控えめな音──銀貨と銅貨の混じる音のほかに、布に包んだ金貨の重みがある。そのうち半分近くを分け、袋に入れて紐を固く締めた。

 更に、護身用の小さなダガー、小型の火打ち石、包帯、簡易の水筒、そして地図の切れ端を加える。そして、袋の紐をもう一度確かめ、穴の底へ静かに置いた。


「……? どうしてこんなところにお金を隠すんですか?」


 穴の縁にしゃがんだルーシャが、浅葱色の瞳を丸くする。


「もしもの時のための逃走袋(エスケープ・バッグ)さ」

逃走袋(エスケープ・バッグ)?」

「まあ、ここから逃げる時に持っていくものだな。これさえあれば、何とか生き残れるだろうし」


 ロイドは簡単にこの逃走袋(エスケープ・バッグ)について説明した。

 一旦、このザクソン村跡は安全だし、誰もルーシャとロイドの居場所を知らない。教会から追われている感じもないので、今は安全だと言い切れる。ロイドとしても、これだけ環境が整えられたのだから、できればここで長く居たいと思っていた。

 しかし、いつ状況が変わるかもわからない。もしもの場合は、ここから逃げなければならない事態が生じる可能性も、ないとは言い切れなかった。その時のための逃走袋(エスケープ・バッグ)だ。


「エスケープって……そういう意味、ですか」

「ああ。まあ、あんまり縁起のいいものではないな」


 ロイドは肩を竦めてみせた。

 淡々と言いながらも、喉の奥に少し乾いた感触が残る。こうして備える行為そのものが、どこかで「いずれ」を予感させるからだ。

 そんな不安を押し込み、穴に土を戻した。土塊を手のひらで叩いて落ち着かせ、周囲から掴んだ草を丁寧に敷き、踏みならして模様をぼかす。

 少し離れて眺め直し、角度を変えてもう一度見てみた。目は慣れる。だからこそ、初見の違和感を潰すのが大事だ。


「お家の中ではダメなんですか?」

「家なんか火を付けられたら一発でアウトだ。皆、結構こうやって埋めてるもんさ」


 言った瞬間、ルーシャの顔から血の気が引いた。

 家に火を付けられるなど、考えもしなかったのだろう。その光景を想像しただけで、ぞっとしたようだ。


「使わないに越したことはないですね……」

「全くだ。できれば、出番なく一生ここで眠っておいてほしいもんだな」


 土に隠された袋が、ただの土の一部として風雨に晒され、やがて自分たちさえ忘れる。そんな未来を、心から望んでいた。

 でも、そうならない可能性もある。その時のことは、ちゃんと考えておかなければならない。


「……もし俺がやられた時は、これ持ってお前だけでも逃げろよ」

 

 ロイドは短く息を吐いてから、そう言った。

 紛れもない本音。というより、この逃走袋(エスケープ・バッグ)はルーシャのために用意したものだった。万が一そういう事態が生じても、ロイドはルーシャを置いて逃げるつもりはない。

 それを察したのか、ルーシャは頷かなかった。眼差しを落とし、両の指をきゅっと組み合わせる。


(まあ……想像したくもないよな、そんなの)


 自分も言ってて嫌な気分になった。でも必要なことだ。


「さて! まあ、これはあくまでもついでだ」


 ロイドはわざと明るい声を出し、空気を切り替えた。

 いつまでもルーシャに、そんな暗い表情をしていてほしくはない。


「昨日このあたりを散歩してて、見つけたもんがあってな」

「見つけた……? 何をですか?」

「そいつは、見てからのお楽しみだ」


 草の上に残った露を踏みながら、ふたりは森の縁へと向かった。

 廃村の外周はほとんど人の手が入らず、低木の間に獣道が幾筋も走っている。ロイドは昨日の足の記憶を辿り、枝を避ける角度で身を滑らせた。ほどなく、緑の濃さがふっと和らぐ。木々の間が開け、陽が斑に降る小さな盆地に出た。

 そこに、それはあった。

 高さの違う木々が、ぐるりと円を描くように立っている。幹は野性の逞しさを残したまま、枝にいくつもの色をぶら下げていた。赤、黄色、深い紫──野の風に磨かれた果実の色。鳥の影が枝から枝へ渡り、小動物が落ち葉を分けて実を齧っていた。誰かが植え、誰も整えないまま、自然と守られた小さな果樹園だ。


「わぁ……!」


 ルーシャの声が素直に弾ける。頬に陽が差して、浅葱の瞳の色が少し薄くなった。


「前に、果物があれば完璧って言ってただろ? ちょっと探してみたんだ」

「ロイド……ありがとうございます」


 礼の言い方が、彼女らしい。誇張がなく、しかし喜びを隠しきれない。

 それを見ているだけで、ロイドの胸の中もぽかぽかとあたたかくなってくる。


「おい、見ろよ」


 ロイドは気恥ずかしさを笑いに紛らせ、木の根元にしゃがむ小さな獣を指さした。

 栗鼠に似た動物が前足で実を抱え、こちらをちらりと見てから、また齧る。


「あいつの朝飯、美味そうだ」

「ふふっ、可愛いです。あの子たちもここでご飯を食べてるんですね……

私たちも、少しだけ分けてもらいましょう」


 ルーシャは嫣然としてそう言った。

 自然のものを、ほんの少し分だけ分けてもらう──大地母神リーファの教えだ。ルーシャの言葉には、いつもその節度が宿る。


「採り過ぎないようにしないとな」


 ロイドは頷き、手頃な枝を探して手を伸ばした。

 もぎ取った実の重みは、掌に確かな心地を残す。だが見たことがない種類も多かった。

 ロイドが鼻先に近づけて目を細めた時、ルーシャが別の枝から指先で摘んだ一粒を持って近づいてきた。色合いが結構怪しい果物だ。


「なんだそれ。食べれるのか?」

「あ、知らないんですか? 美味しいんですよ?」


 薄い皮越しに、光が透ける。紫と琥珀の中間みたいな不思議な色。


「ほら、あーんしてくださいっ」


 ルーシャは悪戯っぽく微笑んで、その実をそっとロイドの口元へ持ってきた。

 全く悪気なく、そして他意もなく、この白聖女様はこういうことをやる。困ったものだ。


「ったく……あーん」


 しかし、結局は言われた通りに口を開けるロイドであった。

 軽い指の気配と、熟れた香りが近づいた。舌にのって、歯に触れた瞬間、薄い皮がぷちりと破れる。とろりとした果汁が口内へ広がり、甘みに少しだけ花のような香りが混じった。


「……美味い」


 言葉が出るまでの一拍。自分でも笑ってしまうほど正直な間だった。


「この果物、ジャムにしても美味しいんですよ? 私はこうして生で食べる方が好きなんですけどね」


 ルーシャは満足げに目を細め、同じ実を一粒口へ運んだ。

 噛んだ瞬間、「おいしっ」と小さく呟き、こちらに女神様のような笑顔を向けてきた。


「ジャムか。パンも焼けるし、保存も利くな。……ただ、砂糖がないからなぁ」

「蜂蜜でもいけますよ? 少し風味が変わりますけど、私は結構好きです」


 彼女は話しながら、今度は別の木を指す。低く張った枝の先に、小さな橙色の実が鈴なりになっていた。

 ふたりで手を伸ばし、届くところだけを少しずついただく。籠はないから、ロイドは外套の裾で袋を拵え、そこに転がすように貯めていった。


(これだけあれば、朝の食卓が豪勢になるな)


 思考は、自然と先の支度へ滑っていく。

 パンケーキの生地に混ぜるか、焼いたあとにのせるか。スープに果物の酸は合わないか。蜂蜜の残りはどれくらいか。

 そんなことをあれこれ考える自分に、少し驚いた。戦って倒して、それで終わりだった日々とは別の回路が頭の中にできつつある。


「あっ。あの子、ずっとロイドを見てますね」


 ルーシャが枝の陰で丸まる子兎を指差したので、そちらを見てみると……そいつと目が合った。

 子兎は小さく耳を動かし、すぐにまた草を齧り始める。


(平和だなぁ……)


 ずっと穏やかで、ふたり平和に年老いていく。

 そういう暮らしが、ここでならできるのかもしれない。そんな願望が、一瞬脳裏を過った。


(……だから、頼む)


 その子兎を眺めつつ、ロイドは心の中で小さく祈った。

 今朝埋めた逃走袋(エスケープ・バッグ)が、ずっと土の下で眠り続けますように。ここで、来年もまた果実を採れますように。そんな当たり前みたいな願いを、当たり前に願える日が長く続きますように。


「いっぱい採れましたね。朝ごはんが今から楽しみです」


 ルーシャがふと空を見上げた。木の葉の隙間から、白い雲が流れていく。彼女の横顔が、光で縁取られていた。


「ああ。帰ったら洗って、選り分けよう。潰れやすいのは先に食べて、固いのは棚で追熟だ」

「はいっ」


 軽やかな返事。ふたりは外套の裾を両手で吊り上げ、慎重に歩幅を合わせて森を戻る。小さな実が布の中でころころと転がり、甘い匂いが衣に移った。

 廃村の屋根が見えはじめる。どこかで、風鈴のような澄んだ音を立てて細い枝が触れ合った。

 ロイドは肩を並べる少女をちらりと見て、心の中でさっきの祈りをもう一度だけ、重ねるのだった。

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