番外編 勇者の苦悩
「糞ッ! なんてことをしてくれたんだ、ガロめ!」
扉がばたりと閉まるなり、ユリウスはそう吐き捨てた。
部屋の中央に立ち尽くし、後悔と不安だけが胸中を襲う。
息が荒い。喉が焦げつくように乾いていた。掌に滲んでいた汗が、剣の柄を握った時の滑りを、生々しく思い出させてくる。
「エレナもエレナだ。あの程度のことで僕に逆切れしてくるなんて……不敬だぞ! 僕を一体誰だと思ってるんだ……ッ」
言ってしまっても、収まらない。
荒く息を吐きながら椅子に腰を投げ、額を押さえた。
指の隙間から、先ほどの有様が何度も浮かんでは砕けていく。床に転がるガロの巨体と破れた服。フランの泣き顔、野次馬の目、それから……自分をゴミムシでも見るかのように見下した、エレナの視線。
エレナとフランは、もう宿を引き払って出て行ったようだ。
一階の酒場に偶然居合わせた旅の治癒師がいて、ガロの治療はそちらに任せてある。さっきまで階下から聞こえていた詠唱も途絶え、間もなく意識を取り戻すだろう。酒場の喧噪も落ち着き、グラスの触れ合う音や笑い声だけが床板越しに鈍く伝わってきた。
エレナとの口論から、それなりに時間は経っている。それなのに、落ち着きが戻らなかった。
脳裏では、先ほどのやり取りが渦巻き、感情が追いかけっこをする。
怒り、焦り、屈辱。
あの場で「勝手にしろ」と言い放ったのは、勇者としての威信を守るための言葉だった──はずなのだけれど、その言葉は自分の頬を叩いて戻ってきた。
威信は完全に崩れていた。それはもう、間違いなく。
廊下を進むたび、突き刺さるような視線が背中を焼いた。その感触はまだ肌に残っている。あからさまな視線も、陰に潜んだ視線も、肩にのしかかる重みは同じだ。
だから、顔だけは整えた。口角を上げ、眉をわずかに緩め、勇者らしい落ち着きを装う。だが、額や背中を流れる汗は、そんな演技をあざ笑うように止まらなかった。
(エレナが感情的だったのは前からだが……フランまで乗っかるとは予想外だった。もう少し賢い女だと思っていたんだがな)
心の内側で、弁解のように呟く。
いや、ちがう。予想外だったのは、あの場にいなかった自分自身の行動だ。
あの瞬間、ユリウスは一階でくだらない冗談に笑い、女の腰に手を回し、杯を重ねていたのだから。
情報収集──そう言えば聞こえはいい。士気を上げるため、とも言えた。だが、扉の向こうの惨状を思えば、その理由は薄紙のように頼りない。喉の奥に棘のような罪悪感が引っ掛かった。
さらに、別の後悔が顔を出す。ガロに女を回さなかったことだ。
下らない──そう心の表では切り捨てた。だが、その浅はかな判断こそが、彼の欲に火をくべる結果になったのではないか。そんな身も蓋もない思考が、ふいに浮かんでしまう。
そんな時、扉が叩かれた。控えめな二度のノック。ユリウスは姿勢を正した。
「入れ」
扉の隙間から、ガロが顔を覗かせた。頬に焦げの痕。服は黒く燻んでいた。肩の起伏はいつもより小さい。巨躯の鈍重さが、今は痛みの重さに見えた。
彼は気まずそうに室内へ入ると、目を合わせずに立った。
ユリウスは立ち上がり、そのまま真正面から睨みつける。
「……やってくれたな、ガロ」
静かに、しかし刃を含ませて告げる。ガロの肩がぴくりと反応した。
「……すまねえ。頭に血が上ってた。謝る。だがよ」
言葉を切り、彼は鋭い目でこちらを射た。焦げた頬が、僅かに引き攣る。
「なあ、ユリウス様……ロイド=ヴァルトが生きてるのは本当なんです? そりゃあんた、陛下にも嘘を吐いたってことになりやすぜ?」
室内の空気が乾いた。ユリウスは一瞬だけ瞬きをし、それから瞼の裏で事情を並べ替える。
どこで漏れた? いや、エレナか。あの状況で口を滑らせたのだろう。
ただ脱退するに飽き足らず、そんな余計なことまで言ってくれるとは……本当に、腹立たしい。あの場で斬ってやればよかった。
「今、それを話す必要はない」
ユリウスは声をできるだけ冷たくして、短くそう伝えた。
これ以上、この話は広げたくない。
しかし、そこでガロが目を細めた。
「おいおい……まだ隠し事するつもりですかい? それで信用してくれってのも、虫が良すぎますぜ」
「信用できないのはこっちの台詞だ、バカめ! 仲間の女に手を出そうとするなんて……愚かにも程があるぞ! それでどういう面倒事になるかなんて、すぐにわかりそうなものだろう!?」
抑えていた本音が、思わず声に出てしまった。
叱責の響きに、ガロの肩がわずかに沈む。何か言い返そうとしたが、言葉は喉で止まり、そのまま口を閉ざした。
ユリウスは深く息を吐く。ダメだ、抑えよう。ここで感情をぶつけても状況は悪くなるだけだ。
王命がある限り、ガロを切り捨てることはできない。逆に、ガロも近衛騎士の立場を手放すわけにはいかないだろう。
互いに相手を切れない──ならば、握るのは信頼ではなく利だ。必要な間だけ、利用し合う関係に過ぎなかった。
「……悪い。言い過ぎたよ。今のは忘れてくれ」
ユリウスは椅子に戻り、背凭れに片肘を掛ける。
一応ガロにも座るよう促してみたが、彼は応えなかった。
「で、今後どうする気なんです?」
ガロが低く問う。
ユリウスは短く鼻から息を出し、机上に散らかった紙片を一枚一枚、秩序のふりをして整え始めた。手を動かすと、頭の中の渦が少しだけ解ける。
(どうする気だと? 誰のせいでこんな面倒なことになったと思ってるんだ)
彼の言葉に内心苛つくが、今は怒っている場合ではない。
考えろ。
思い付く選択肢は、三つ。指先で紙の角を揃えながら、ユリウスは心中でひとつずつ光に当てていく。
まず、ひとつ目。それは、エレナとフランを呼び戻すことだ。
ふたりを呼び戻せれば、戦力は一気に戻る。彼女たちの有能さは、誰よりも自分が知っている。代わりなど、そう簡単に見つかるものではない。勇者の看板も、パーティーの士気も、元通りになるはずだ。
だが、ガロの件がある。このままではどう考えても無理筋だ。
何より、謝罪が必要だ。そうなったとき、謝るのは誰だ? ガロか? 自分か?
口に出す前に、胸の奥が拒否感で満たされる。
勇者としての威厳、家の名、王の前で受けた勅命。全てが、頭の中で、謝罪の二文字に噛みつく。
(いや……あのふたりは、もう戻らないだろう)
実際、それだけの覚悟がなければ、あの場でふたりとも抜けられない。少なくとも、ユリウスにはあのふたりを戻すだけの言葉や提案を用意できなかった。
(いや……ロイドさえいれば、エレナとフランも戻ってくるんじゃないか?)
新たな案が、すぐに浮かんだ。
ロイドが戻れば、エレナとフランも戻ってくる可能性が高い。パーティーは元の形に近づき、王に対しても「是正の努力」として顔向けができる。
ロイドが死んだことの弁明も、どうとでもなる。遠征中の消息混乱など珍しくはない。死んだと思っていた、など齟齬に押し込めば済む話だ。だが、そうなった場合、ロイドには謝罪した上でお願いせねばならない。
(……いやいや。あんな奴に僕が頭を下げるって? ふざけるな。絶対に有り得ない)
そこまで考えて、ユリウスは椅子の肘掛けを強く握った。
「僕は、僕の力を証明しなければならないんだ」
思わず、声に出ていた。
その反応に、ガロの眉が僅かに動いた。
「すまない、なんでもないよ」
ユリウスは舌打ちし、視線を落とした。
本当に、ロイドの存在は厄介だ。彼が側にいるだけで、周囲は勝手にロイドを評価し、ユリウスと比較する。
自分が〝勇者〟である意味が、音もなく削られていく気がするのだ。
それに、国王陛下からの異様な期待。あれは、何だ?
まるで、勇者という看板さえロイドを呼び寄せる口実にされているようで、癪に障る。あんなどこの馬の骨かわからない、誰とも〈共鳴〉さえできない剣士に、陛下は何を期待しているのか。
ロイドにだけは頭を下げるわけにはいかなかった。
そして……最後に思いつくのは、陛下に新しい魔導師と治癒師を要請することだ。
理屈の上では、これが一番手っ取り早い。王命のもとに人材を補充し、パーティーを再編する。
だが、それは同時に、『王命で選ばれた人材を短期間で全員失った勇者』という不名誉な肩書きを、自ら名乗るようなものだ。陛下からの信頼は、間違いなく崩れるだろう。
それに、貴族たちの噂は早い。もしユリウスが仲間を全て失ったことが家族に知られれば、父上や兄上たちからどんな言葉を投げかけられるかわかったものではなかった。
それに加えて、エレナとフランの脱退をどう陛下に説明するのか、という問題も孕んでいる。ロイドが〝死んだ〟と報告した直後に、さらにふたりまで〝死んだ〟ことにすれば──それは、自分の無能さを自ら証明して回るようなものだ。
では、ふたりとも自分の意思で脱退した、と伝えるか?
そうすれば、ロイドという存在の重要性を、王は──いや、王だけではない、周辺の者すべてが──改めて認識するだろう。ロイドがいなくなったからエレナとフランも脱退したのだ、と思い至るに違いない。
考えれば考えるほど、足場は砂になっていくのを感じた。
紙片の角は、既に揃っている。揃っているのに、ユリウスの指はまだ角を探していた。無い角を探し続けるこの動きが、今の自分の思考そのものに見えてきて、思わず手を止める。
「あー……ユリウス様?」
ガロが咳払いをして、思わずユリウスは顔を上げた。
そうだった。彼と今後について話し合っていたのだ。
ガロをまだ切るわけにはいかない。少なくとも、今はまだダメだ。
お互いに相手を信じないが、互いに相手を切ることもできない。ここでこそ、王命という鎖が皮肉に役立っていた。
「……今夜は休め。傷も癒えていないだろう?」
「わかりやした」
ユリウスが言うと、ガロは短く頷き、踵を返した。
扉へ向かう大きな背中に、ユリウスは一瞬だけ視線を送り、それから視線を窓へ移した。
外は、もう夜だった。宿の向かいの酒場の看板に吊るされたランプが揺れ、通りの石畳に、油の光をぼんやりと落としている。笑い声。馬の嘶き。遠くで売り子が声を張り上げる。
日常の音が、薄い布越しに聞こえてくるようだった。自分だけが、その布のこちら側で、固く息を殺している。
「なに、大丈夫さ。明日になれば妙案が浮かぶはずだ」
ユリウスは、そう自分に言い聞かせた。言い聞かせるその声は、驚くほど静かだった。
灯りの消えた部屋のように、そこには熱がなかった――遠くの笑い声も、窓枠のところで折れて消える。
(僕は……間違ってない。間違ってないんだ)
ユリウスの夜は、続いていく。
これまで生きてきた中で、一番長い夜だった。