第32話 白聖女と一緒にお風呂に入ることになりそうです。
バーマスティ商会を後にしたふたりは、商店に寄って買い物をしてからザクソン村跡地に帰った。
廃村へ向かう道のりは、馬車の車輪がきしむ音と、馬の蹄のリズムだけが支配する。ロイドは御者席で手綱を握り、正面から吹く風に顔を晒した。井戸の底で動き回ったせいで、服のあちこちに泥が飛び、乾いた泥片が時折ぱらりと落ちる。鼻腔をかすめるのは、乾ききらない湿気と、戦闘のあとにまとわりつく微かな鉄臭さ。
後ろの荷台からは、木箱や麻袋が揺れる音と、布擦れがわずかに響いてくる。ルーシャは膝を抱えて座り、ぼんやりと景色を眺めていた。
やがて、ザクソン村跡地が見えてきた。馬を止め、御者席から降りて戸口の錠を外す。
馬を家の前に繋いで、荷を抱えて家の中へ入ると……空気に異質な匂いが混じった。外より密閉された空間のせいか、井戸底で染みついた瘴気混じりの臭いがふっと強まったのだ。
「……やっぱり、少し臭いますね」
ルーシャは玄関に立ったまま、くん、と鼻を動かし、そして少し眉を下げて苦笑した。
その言い方は遠慮がちだったものの、否定しようのない事実だ。ロイドも肩を竦める。
「だな。夕飯の前に先に風呂入るか。せっかく今朝直したし」
「はい! 楽しみですっ」
途端に、彼女の瞳が燦々と輝いた。余程お風呂に入れるのが嬉しいのだろう。
そういえば、ルーシャは帰りの馬車でも荷台の中にいたから、自分の体臭や服の汚れが気になっていたのかもしれない。御者席で風に当たっていたロイドとは状況が違うのだ。
ふたりは荷物を棚に置き、すぐに裏庭の浴室小屋へ向かった。朝に修繕を終えたばかりの木の扉は、まだ新しい釘と補修材の匂いがかすかに残っている。
扉を押し開けると、ひんやりした空気が迎えた。石造りの浴槽は空っぽで、昼間は乾いた底に光が落ちている。
「では、湯を張ってしまいますね」
ルーシャは精霊珠を取り出すと、早速魔力を込めた。
珠を浴槽の上に浮かせると、透明な水が糸のように垂れ、やがてさらさらと音を立てて流れ出す。あっという間に底を覆い、少しずつ水面を押し上げていった。
半分ほどまで水が溜まると、ルーシャは魔力の流れを切り替える。精霊珠が淡い赤みを帯びると、籠に収め、湯の中へ沈めた。ほどなくして、白い靄がふわりと立ち上った。浴室の冷えた空気がゆっくりと和らぎ、湯気が鼻腔をくすぐる。
朝と全く同じ状況だ。いつでもこの状態を作れるとなると、本当に強い。大浴場要らずだ。もしかすると、この廃村跡地は世界で最も恵まれた環境なのかもしれない。
「お湯、沸きましたよ!」
ルーシャが湯面に手を入れて、にっこりと笑った。
もちろん……恵まれているのは彼女の存在のお陰でもある。ルーシャがいるだけで、どこでも空気が柔らかくなるし、明るくなるのだ。
「よし。じゃあ、ルーシャから先に入ってくれ」
ロイドは言った。
だが、その言葉に、ルーシャが眉を顰める。
「え? そんなの悪いですよ。それに……こういうのは殿方から入るのが良いと言われていますし」
「いやいや、俺は後でいいよ。昨日も風呂に入ってるしな。確かに臭うけど、そこまで耐えられないって程じゃない。先に入ってくれ」
勇者パーティーで冒険していた頃は、風呂に入れない日など珍しくなかった。昨日は大浴場で存分に湯を浴びたばかりだし、多少の汚れや臭いくらいなら我慢できる。待つといっても一時間程度だろうし、先に入る必要もなかった。
「でも、今日頑張ったのはロイドです。汗も掻いていると思いますし……やっぱりロイドに先に入ってほしいなって思います」
「いや、頑張ったのはルーシャも同じだろ? 俺はスライムどもを倒しただけで、実際に浄化したのはルーシャだ。俺の頑張りなんて、大したことじゃない」
「そ、そんなことありませんっ。ロイドの方が、たくさん頑張っていました!」
何なのだろう、このお互いの持ち上げっぷりは。
結局、言い合いは平行線を辿った。この〝白聖女〟様は、妙なところで頑固なようだ。譲る気配がまるでない。
ロイドは内心で嘆息した。
そもそも、この浴室を直したのは彼女にゆっくり浸かってもらうためだ。自分だけなら近くの川で水浴びをして済ませていただろう。
ややあって、ルーシャが小さく息を吸い込み、顔を上げた。
「では、その……一緒に入る、というのはどうでしょう?」
「はいいい!?」
耳を疑う提案に、ロイドの声が裏返る。
ベッドの件といい、この娘はどうしてこう、躊躇いもなくとんでも発言をするのか。
「あ、あのな! 恥ずかしくないのか、お前は!? 俺たちは一応男と女だぞ!? さすがにそれはまずいだろ!」
「そ、そんな……私だって恥ずかしいに決まってるじゃないですか! でも、ロイドは譲ってくれませんし、私だって気が済みません。だから、その……折衷案としては、そうするしかっ」
「うぐぐ……」
確かにこのまま押し問答を続ければ、湯は冷めてしまう。時間も無駄になるだろう。
それに、全く入りたくないかと問われれば、むしろ逆だ。
当然一般的な女性で、たとえば恋人関係にでもあれば、一緒に風呂に入ろうと誘われれば、ロイドとて尻尾を振って浴槽に飛び込んでいただろう。
だが、目の前にいるのは伝説の〝白聖女〟ルーシャ=カトミアル。偽聖女の烙印を押されたと雖も、神の神託を受ける聖女だ。そんな少女相手に邪な感情を抱いたまま一緒に入浴なぞしたら、それこそ神の怒りを買ってしまうのではないだろうか?
そんなロイドの葛藤など全く気付く気配もなく──
「それとも、私なんかと一緒に入浴というのは、その……嫌、でしょうか?」
顔を真っ赤にして、ルーシャはおずおずと訊いてきた。
恥ずかしいと言っておきながら──そして、実際に恥ずかしそうである──どうしてここまで彼女が頑ななのか、その理由が全くわからなかった。だが、そんな顔をされて、断れるわけがない。
「……わかった。わかったよ。一緒に入るから、そんな顔しないでくれ。あと、さすがにすっぽんぽんは色々まずいから、布で身体は隠してくれ」
短くため息を吐き、観念するように告げると、ルーシャは赤い顔のまま、こくりと頷いた。
しかし、そこでふと思う。
(何でこんな話になったんだっけ……?)
白聖女の衝撃発言に振り回されて、もはや当初の話題すら覚えていない黒剣士であった。




