番外編 ふたりの旅立ちと目標
なだらかな農道を、ぎしぎしと木の軋む音を響かせながら農作業用の牛車が進んでいた。
朝露の名残を抱いた菜の花が、車輪の風に揺れて黄色い花弁を煌めかせる。遠くで小鳥の囀りが、まだ眠たげな空気をたたくように軽く跳ねた。畦道では、腰を折った農夫が鍬を振るい、土の匂いと青草の匂いが混ざり合って、ゆるやかに鼻腔を満たしていった。
エレナは荷台の最後尾に腰を下ろし、揺れに合わせて解ける意識を、わざと景色のほうへ投げておいた。
前日の脱退劇から一夜。エレナたちは、最低限の荷物だけを買い込んで、すぐに町を離れた。
あんな騒動があった後であるし、精神的なものも含めて疲労感が凄い。糸の切れた人形のように、まだ力が抜けたままの自分を引きずっている気がした。
肩に掛けた外套の内側に、朝のひんやりが入り込む。さっきまで熱を帯びていた胸許を撫でていった。
(……これから、どうしようか)
視線の先で、牛の尾がゆっくりと振られた。
御者台の農夫が、慣れた手つきで手綱を軽く引く。轍の先に、白い雲が薄く千切れている。その薄さが、この先の計画の薄さと重なって、エレナは口の奥で息を小さくかみ殺した。
決めなければならない。けれど、決めるには何もかもが足りない。目的も場所も、お金やコネクションも。
ただ無力な娘がふたり、大海に放り出されただけだ。
このまま放浪するのがいいのか、それともユリウスが何かをする前にこちらから手を打つのがいいのか。その指針さえも、まだまとまっていない。
荷台の板の節目が、揺れのたびに膝裏を押した。
隣では、フランが足をぶらぶらさせながら、頭の上で指を組み、空の青さを測るみたいにのんびり見上げていた。
無駄に明るい──と思いかけて、エレナは自分の思考をひとつ咳払いで払う。
いや、無駄ではない。彼女が明るさを演じてくれるから、暗がりに落ち切らなくて済んでいるのだから。
「ねえエレナ」
何となく、雑談でもするかのようなフランの声音。けれど、こちらを見ずに遠くを見据えるその横顔は笑っておらず、声色との落差が、逆に胸の奥をざわつかせた。
「んー? なあに?」
エレナは彼女の方を向かず、同じく視線を遠くに投げながら返した。
フランが言った。
「王都に戻ってさ、陛下にちゃんと報告してみたらどうかな? ユリウスがやったこととか、あいつの態度のこととか、それから……ロイドが生きてるってことも。そしたら、あいつが嘘吐きってことも陛下にわかってもらえるじゃない?」
風が、菜の花の面を逆立てて通り過ぎた。黄色がゆらめいて、陽光を砕く。
エレナはその光の砕片を目で追いながら、息を細く吐いた。
正論だ。手順としても、筋としても、王都へ戻り、正式に訴えるのが王国の民としての〝正しさ〟なのだろう。
勇者ユリウスが嘘を吐いていたとなれば、陛下もユリウスへの〝勇者認定〟を取り消すかもしれない。そうなれば、勇者パーティーは存在意義を失い、エレナやフランの反逆もなかったことになるだろう。
頭ではそう並べられる。けれど、胸の奥で、これまでの経験から刻まれた直感が、それは危険だと告げていた。
「そうね。それが正しい手順なようにも思えるけど……それはやめておいた方がいいかな」
「どうして?」
「王都に戻ったところで、国王陛下が私たちの話を信じてくれる保証がないからよ」
口にしてみれば、声は意外なほど静かだった。指先から零れ落ちていく砂のように、力も執着も感じられない。
フランがぱちくりとその大きな瞳を瞬かせた。
「え、何で? あたしら、被害者だよ?」
「そうなんだけど……でも、ユリウスが早馬で自分に都合のいい報告をしている可能性が高いわ。しかもあいつ、ああ見えてマフネス家の息子だし。陛下とマフネス家の関係性を考えると……私たちとユリウス、どっちの話を信じると思う?」
「それは……」
フランが言葉を詰まらせたタイミングで、牛車が小さな石を踏んで、荷台がふっと浮いた。
言いながら、喉の奥に砂が混ざるような、嫌な感覚が広がる。
「……最悪、王都に入った時点で拘束されるかもしれないってことよ」
「そんなぁ」
フランの口から零れた声は笑い声みたいに柔らかいのに、今にも泣き出しそうな湿り気を孕んでいた。
エレナは、そっとその横顔に目だけを向けた。
身を呈して助けに来てくれて、それでいて一緒についてきてくれたフランを、危険な目に遭わせるわけにはいかない。
荷台の端に組んだ指を、ぎゅっと握り込む。
「じゃあどうするの? このまま放浪?」
フランは膝を抱えるように腕を回し、膝の上に顎をちょこんと乗せた。その拍子に、癖っけのある短めの緑髪が肩に落ちる。
「ちょっと前から考えてたんだけど……ロイドを探すのはどうかな?」
エレナは少し迷いつつ、考えを口にした。
「ロイドを? どうして?」
「ロイドはたぶん、私たちより陛下に近い立場だと思うの。ああやって、勇者パーティーのお守り役を任されるくらいだしね。ロイドも一緒に陛下に報告に行ってくれたら、ユリウスの嘘が証明されるし……私たちがただ勝手に離脱した反逆者じゃないって信じてもらえるかも」
理屈としては通っている。けれど、それだけで進めるほど、道は甘くない。
エレナは小さく溜め息を吐いて、続けた。
「でも……それは、こっち側の都合でしかないわ。ロイドからすれば、私たちはユリウスと一緒になって彼を追放した身だし。彼が私たちを許してくれるかどうか……それ次第ね」
吐いた言葉が、自分の胸に刺さる。痛くて当然の箇所だ。あの夜、何も反対しなかった自分の弱さが、何度も何度も静かに胸の奥を突く。
「じゃあ、まずはロイドを探して……それからちゃんと謝るところから、だね」
「そうね。それが、私たちの通すべき筋なのかも。これまでのお礼も含めてね」
「大丈夫、ロイドなら許してくれるよ!」
フランが少しだけ身を乗り出して、覗き込むように笑った。
明るい、けれど子どもっぽさよりも、人の痛みを知っている柔らかさの光る笑い方だ。
「もしダメだったら……」
「ダメだったら?」
「ふたりで色仕掛けだ!」
「はあ?」
フランの意味不明な発言に、エレナの眉が上がる。
「エレナの育ちのいい胸肉でロイドを誘惑する。それっきゃない!」
彼女はけろりとして、両手で自分の胸の前に空の皿を載せるみたいな仕草をした。
「誰が育ちのいい胸肉よ! てか胸肉ゆーな!」
「そのおっきいおっぱいならロイドを篭絡できると思うけどなぁ」
「篭絡って、あんたねぇ……フランひとりでやりなさいよ」
「えー? だってあたしの小さいし」
フランは唇を尖らせ、自分の小さな胸の双丘を見下ろす。
全く、何でそういう話になってるんだか。
内心では呆れ、息が笑いに変わる。
荷台の板が笑い声に共鳴して、小さくこつこつと震えた。
暗い雰囲気に沈みきらないように、フランはわざと愉快な方向へ舵を切ってくれているのだろう。それがわかっているから、エレナは軽口を受け取り、軽口で返す。
御者台から、日焼けした声が振り返って飛んだ。
「お嬢さん方、もうすぐ次の村だ」
ぴんと張った手綱が、日の光を切り取って閃いた。道の先に、藁屋根がぽつぽつと見え始める。畑の緑の向こう、石塀の陰に子どもが走り、犬が駆けた。鐘の音が遠くでひとつ鳴る。
エレナは胸の中で、小さく息を整えた。目を細め、村の輪郭を撫でるように見つめながら、心の底で言葉をひとつだけ固める。
(ロイドがどこにいるのかわからないけど……彼が行きそうな場所を辿っていくしかないわね)
そう考えると、途端に景色が地図に変わる。菜の花は道の目印になり、畑の区画が方角を縁取る。井戸の位置、酒場の場所、ギルドの小屋。聞くべき人の顔。尋ねるべき言葉。やるべきことは、ある。何もかも失ったわけではない。
牛車はきしみながら村へ向かった。揺れのリズムが、二人の背中に、同じ速度でゆっくりと刻まれていく。エレナは隣のフランの肘に、そっと自分の肘を預けた。彼女は気づかないふりをして、わずかに肘で押し返してくる。
旅がまた始まる。今度は、守るべきものを抱えたまま歩む旅だ。
小鳥の囀りがひときわ高くなり、陽が少しだけ昇った。二人の新しい道行きは、静かな村の朝の中へ、音も立てずに溶け込んでいった。