第30話 聖なる光の浄化
粘液と泥が、ゆっくりと地面に沈んでいく。
スライムの砕けた核の破片は黒ずんだ泡となって表面に浮き、ほどなく溶けて消えた。ランタンの黄が壁をなぞる度、石肌の間にこびり付いたものがひっそりと鈍く光る。鼻の奧にまとわりつく臭気はなお強く、喉の粘膜がきしむようだった。
(倒したものの……この井戸、使い物になるのか?)
ロイドは剣先を軽く振って粘液を払いつつ、足場をずらして井戸の底を一巡り見渡した。
ぬめり、黒ずんだ苔、泥の層。水路の出入口周りはとくに酷く、石が酸に焼かれたように痩せ、指で押せば崩れそうなところもある。これではたとえ魔物を一掃しても、飲み水としてはとても使えそうになかった。
「ロイド、怪我はありませんか!?」
井戸の口からルーシャの声が真っ直ぐに降りてきた。振り仰ぐ暗がりの向こうで、フードの縁がわずかに揺れる。
心配の色を押し隠しきれない声に、ロイドは肩で息を整えてから短く返した。
「ああ。言っただろ? この程度の魔物なら余裕だ」
言いながら、壁に背を預けて一度深呼吸する。
余裕だと口にした以上、そう見せるのが筋だ。実際、〈呪印〉の疼きはあるが、戦闘で無茶はしていなかった。何も問題ない。ただ、瘴気を持つ敵は〈呪印〉にどんな影響を与えるかわからないので、普段よりも慎重に戦わねばならないのが難点だ。
「では、私も降りていいでしょうか?」
間髪いれず、ルーシャがおずおずと訊いてきた。
ロイドは思わず苦笑し、泥に取られた足首を見下ろす。
「それは構わないけど……汚れるぞ?」
「大丈夫です。気にしません」
即答だった。ロイドが縄を二度引いて合図すると、滑車の軋む音に続いて、軽い気配が綱を伝ってきた。
やがて、フードの影と白銀の髪が黄の光へすべり、泥濘へ爪先からそっと彼女が降り立つ。靴の縁に泥が這い上がる感触にも眉ひとつ動かさないで、まずはロイドの体を上から下まで確かめるように見た。
「よかった……本当に怪我はないんですね」
ルーシャは微笑み、ほっと安堵の息を漏らした。
「だから、大丈夫だって」
ロイドは小さく肩を竦めてから、「それよりも」と顎で壁際を示した。
「原因は排除したけど……まあ、さすがにもうこの井戸を使うのは無理があるかもな。汚染が進み過ぎてる」
言いながら、自分の声に混じる諦観の重さを自覚する。
街とはいえ、井戸が一本死ぬというのは、ただの不便では済まない。生活の軸がすっぽり削がれるということだ。この近隣に住む人たちは、これまで通りの生活とはいかなくなるし、別の水源から水を運んでこなければならなくなる。その分、当然時間と労力がいるわけで……住民の苦労を思い浮かべれば、軽々しく無理だと言い捨てるのも気が引けた。
「大丈夫ですよ」
ルーシャは井戸を見回してから、嫣然と微笑んだ。
「へ?」
「私に任せてください」
暗い井筒の底で、浅葱色の光が柔らかく灯る。静かな言い回しだが、声音からは自信が感じられた。
ルーシャはぬかるむ足元を確かめながら井戸の中心に立ち、胸の前で両手を合わせた。
祈りの姿勢──けれど、教会で見た形式ばった所作とも、昨日見せた〈修繕魔法〉を使用した時とも違う。重心を少し落とし、両指が触れ合う位置を息に合わせて微調整しているかのようだ。
「大地を統べる母なる御方よ……この地を清め、命の水を取り戻したまえ。〈浄化の祈り〉」
口元がわずかに開き、吐息に乗って祈りの響きが零れた。
その声は井戸の底に澄み渡り、響きの余韻が水面を僅かに震わせる。
(空気が……変わった?)
ロイドはそんな感想を抱いた。
湿って澱んだ冷気の層のどこかに、目に見えない風が通ったような。皮膚にまとわりついていた薄膜が一枚剥がれていく感覚。先程からじりじりと残っていた〈呪印〉の痺れが、ゆっくり和らぐ。
ルーシャの睫毛が伏せられ、指の間に白い光が一滴灯った。それはたちまち脈動し、掌から掌へ橋を架け、結ばれた輪郭を満たして──
光は、落ちた。
いや、降りたと言うべきか。細雪のように、あるいは湖面に生まれた朝霧がふわりと広がるように、井戸の底から天へ、天から底へ。同時に広がり、そして満ち足りていく。壁にこびりついたぬめりの上を、やわな羽毛が梳くように白が走り、瘴気の色をふっと攫う。泥の表面に白い輪が幾つも咲き、それが重なり合うと、腐った甘臭が退いていくのがはっきりとわかった。
(……凄い)
ロイドは思わず息を止めた。
所謂浄化、と呼ばれるものだろうか。だが、それだけでは表現ができない。ロイドの語彙では到底追いつくものでもなかった。
脅威を焼き払う炎のようでも、病を剥ぎ取る刃のようでもない。ただ、世界から余計なものを取り除き、本来あるべき輪郭へ戻していく力。音も衝撃もなく、けれど圧倒的に。
光の輪はゆっくりと井戸の口へも広がっていく。地上の微かなざわめき──人の気配が混じった。通りがかりか、近隣の住人だろう。井戸の内からせり上がる白が筒口で花開くのを見れば、誰だって足を止める。
「なんだ今の光?」
「おい、井戸だ。井戸が……」
「まさか、さっきのふたりが……?」
地上の声が風に乗って降ってくる。皆が井戸に集まってきているようだ。
しかし、それでもルーシャは動じなかった。
祈りの両掌の間で光が少しずつ変調し、より深い澄明へ折り畳まれていく。薄桃から白へ、白から透明へ。光が消えるのではなく、透明が満ちていく。濁りの粒が、ひとつひとつ解かれて消えていった。
どれほどの時間が過ぎたろうか。数十息か、数百拍か──やがて光が落ち着き、井戸の空気はひんやりとした清水の匂いを帯びた。
ロイドは無意識に深呼吸をし、鼻や喉に刺激がないことに驚く。底に溜まっていた泥の色も心なしか薄かった。壁の石肌に張り付いていたぬめりは消え、古い石が古い石としての肌理を取り戻している。
ルーシャがゆっくりと手をほどいた。手のひらの光は最後の一滴を床へ落とし、すっと消える。
額の汗が一筋、頬を滑った。
「終わりました」
ルーシャは視線を上げてロイドを見ると、にこりと笑った。
「……こいつは凄い」
思わず本音が漏れた。自分の言葉としてはあまりに陳腐だとわかっているのに、それ以外が見つからない。ロイドは膝を折り、泥をかき分けて掌を浸した。さっきまでぬるく粘っていた水が、軽い。冷たさが骨の中まで澄んで入ってくる。濁りは見えず、指を開けば光が網の目に透けていた。
「飲めるかどうか……いや、待てよ? 一旦水を入れ替えた方が確実か」
「そうですね。念のため、新しい水で満たしましょう」
ふたりは息を合わせて、まず井戸の栓や水路の溝を確かめた。それから底に残った汚れをかき出し、最後にルーシャが精霊珠を用いて水を生成する。
透明な糸は先ほどよりも軽やかに落ち、ほどなく井戸の底は静かな水鏡に変わった。
ロイドは汲み桶を沈め、地上へ合図を送る。いつの間にか上に集まっていた人々のうち、若者のひとりが身を乗り出して縄を受け取った。
「引き上げるぞ!」
桶は軋みながらも真っ直ぐ上がり、井戸の筒口から顔を出した瞬間に、周囲の何人かが息を呑む音が聞こえた。
水の肌が陽を掬って、円い銀盤のように光る。たぶん、ここでは久しく見られなかった色だろう。
「ちょ、ちょっと待ってくれ……これ、ほんとに澄んでるぞ」
「匂いがしない……」
「おい、飲めるか? 飲んでいいのか?」
口々に問う声。ロイドは上へ向かって答えた。
「まずは俺が飲む。問題がなければ、使ってくれ」
泥の匂いも、瘴気の刺すような苦さもなかった。唇を濡らし、喉を通す。
冷たさが腹へ落ち着いたとき、体のどこにも警鐘が鳴らない。
ロイドは親指を立てる代わりに、短く言った。
「いける。問題ない」
ざわめきが弾け、拍手にも似た音が井戸の縁に集まる。
白髪の老人が両手で桶を支え、震える手で一口含んだ。目を大きく見開き、唇を震わせる。
「こりゃ、わしが若い頃の……いや、それ以上だ。おお……おお……!」
老人の目尻から涙がはみ出し、周りの婦人が「あらあら」と手を貸す。
別の男は安堵のあまり大声を上げ、子どもが覗き込もうと背伸びをした。誰かが「まさか、あの光が……」と言い、別の誰かは「ありがたい、ありがたい」と手を合わせる。
視線が井戸の底へ、そしてふたりへ降ってきた。
「おい、下にいるか!」
さっきの痩せた男だ。ロイドが顔を上げると、彼は眉を下げて叫んだ。
「これでまた井戸が使えるよ! 本当に助かった!」
老婦人も身を乗り出し、皺だらけの手を合わせて言う。
「ありがとねぇ。おかげで、洗い物も煮炊きもできるよ」
ロイドはひとつ頷き、視線をそっと隣へ流す。
ルーシャは、フードの奥で微笑みを湛えていた。彼女の祈りの手が泥と水で薄く濡れているのをこの目で見た身からすると、どこか誇らしい気持ちになる。
(……よかった)
心底そう思った。剣を振り、魔物を倒すことなら何度もやってきた。
けれど、誰かの暮らしをその場で立て直すような仕事は、これまでの人生には殆どなかった。
求められて、応えることができた。その実感が、井戸の冷たさのように内側へ満ちていく。
「さて、上がるか」
ロイドは縄を掴み、ルーシャへ手を差し出した。彼女は小さく頷き、その手を取る。
泥に取られぬよう足場を確認し合い、壁の凹凸を使ってひと呼吸ずつ上へと登っていく。やがて光が近づき、ふたりは地上へ戻った。
眩しさに一瞬目を細める間に、周囲から口々の礼が降ってくる。井戸の所有者だという白髪の老人が、よろよろと歩み寄ってロイドの手を両手で包んだ。
「おお、恩人さん。名は……名はなんと?」
「名乗るほどのもんじゃないさ。依頼の通りにやっただけだ。礼は、〝子供商人〟に言っておいてくれ」
ロイドは肩を竦めて隣を見ると、ルーシャは小さく会釈だけしていた。
その仕草に、老人は「そうかね、そうかね」と頷き、しかし声を弾ませるのは抑えきれない。
「それでも、助かったは助かったんだ。ありがとう。本当にありがとう」
別の壮年の男が、帽子を胸に当てて言った。
「お代は商会に渡してある。だが、それとは別に、礼を言わせてくれ。これで、元通りの生活ができる」
ロイドは手を挙げるだけで返すと、周囲へ軽く目を配った。
驚きと安堵の渦の中に、好奇と観察の視線も混じっている。さきほどの光景を見た者は少なくない。ここで余計な話をすれば、波紋は広がる。だからこそ、言葉は必要最低限に。
ふと、袖口がそっと引かれる。ルーシャだ。フードの陰から見上げる瞳が、微かに笑う。
「初めての〝なんでも屋〟さん、大成功ですねっ」
「ああ。いい肩慣らしだったな」
冗談めかして言ったあと、ロイドはふっと目を伏せた。軽口とは裏腹に、胸の奥には静かな充足が広がっていた。瘴気の臭いはもうない。井戸の上を渡る風は、かすかに湿りを帯びた清々しさを運んでいた。遠くで羊が鳴き、露店の呼び声がまた町の奥から返ってくる。
〝なんでも屋〟としての最初の仕事は、こうして終わった。依頼完了だ。
報せるべき相手はひとり。例の子供商人の顔を思い浮かべ、ロイドは依頼書を折り畳んだ。