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第29話 汚染された古井戸改善依頼

 依頼書に記された古井戸は、露店の喧噪がほどけていく外れにあった。

 風が開けた畑を渡り、木柵の向こうで羊がのどかに草を噛む。畦道を抜けると、石を積み上げた円筒がぽつりと立っている。苔と蔦に覆われた、年代物の古井戸だ。縄を巻く滑車は片側が歪み、木製の柄は灰色に乾いている。


(まんま〝古井戸〟だな。ただ、ちょっと年季が入りすぎてる)


 ロイドは縁の石に手を置き、身を乗り出して中を覗いた。下から生ぬるい空気が上がってきて、鼻の奥に重たい臭いが張りつく。湿った石の臭い──だけではない。どこか、甘く腐ったような、嫌な臭いが混じっていた。

 ルーシャが訊いた。

 

「どうしましょう? 降りますか?」

「いや、まずは周りから話を聞いていこう。手がかりがあるかもしれないしな」

「わかりました!」


 それからロイドたちは、井戸の近くの家を一軒ずつ回り、事情を聞いていくことにした。

 ルーシャにはフードを深く被ったまま、基本は相槌だけに留めるよう目配せする。彼女はこくりと頷き、静かに後ろを歩いた。


「その井戸なら、昔は澄んだ水が出たもんだよ」


 最初に話を聞いたのは、洗濯物を取り込んでいた老婦人だった。皺の刻まれた手が、かごの上で止まる。


「でもね、ここ最近かな。水を汲むと濁っててね、匂いも変なんだよ。生臭いような、土が腐ったような……。うちはもう使うのをやめたよ」

「いつ頃からはっきりとそれを感じた?」

「二週前くらいかねぇ? 夜中にね、変な音がするのもその頃からだよ。ぼこ、ぼこって、泡の立つような音っていうかね。どぶ川の音に似てるけど、このあたりに川なんてないからねぇ……」

「夜の音、か……」


 これは手がかりになりそうだと、ロイドは心に留めた。

 隣の家も訪れてみると、痩せた男が戸口から顔を出した。


「何だいあんた達は」

「古井戸の調査さ。バーマスティ商会から依頼されてな」

「ああ、子供商人の! さすがはクロンさんだ」


 どうやら、クロンは〝子供商人〟で通っているらしい。非常に不名誉だが、もう本人も諦めているのだろう。

 早速ロイドが話を進めた。


「古井戸で何か変わったことはなかったか?」

「小動物がな、井戸の近くで死んどった。野兎だ。首を落としたわけでも、噛まれた跡があるわけでもないのに、縮こまったまま冷たくなっとった。変だろ?」

「死骸はどうした?」

「土に埋めたよ。井戸の傍だったからな。変な病が出ても困る」

「なるほどな、ありがとう」


 ロイドは礼を言って、別の家を目指した。

 動物の死骸か。井戸の水を飲んで死んだというのは考えにくいが、どういうことだろうか?

 それからも調査を重ねてみると、状況がはっきりとしてきた。

 単なる土砂の混入や藻の繁殖だけでは説明がつかない臭気と、夜の泡立つ音。小動物の不審死。井戸の内側で、何かが起きているのは間違いなさそうだ。

 ロイドたちは古井戸の前へ戻り、縁石にしゃがんでもう一度覗き込んだ。風が止み、井筒の口は暗く冷たい穴に変わる。夕日の光が斜めから差し込み、壁面のぬめりを鈍く照らした。


「やっぱり中に入ってみるのが一番だな」

「危なくないですか?」


 ロイドが言うと、ルーシャが首を傾げた。

 今は周囲に人がいないので、話しても問題ない。


「大丈夫だ。危ないことなら、もう散々やってきた」


 オーガやらドラゴンやら、色んな魔物と戦ってきた。それらよりもこの古井戸が危険だとは思えない。


「……何かあったら、すぐに言ってくださいね」


 ルーシャは止めなかったが、遠慮がちにおずおずとそう言ったのだった。

 心配してくれているらしい。誰かからそうやって心配されることさえ、ロイドにとっては新鮮だった。

 ロイドはこくりと頷き、用意してきた麻縄を滑車に通して縁に括りつけた。結び目を二度確かめ、胴に縄を回して固定する。井戸の壁を傷つけないよう、足場になりそうな石の段差を目で拾った。


「合図したら引き上げてくれ。安心しろ。無理はしない」

「はい」


 ルーシャの返事を背に、ロイドは縁に手を掛けて体を滑らせた。石の冷たさが掌に移り、足先が湿りに触れる。

 ゆっくりと、体重を縄へ預け、靴底で壁の凹凸を探りながら降りていく。光が背中の上へ遠ざかり、井筒の内側を洗うように冷気がまとわりついた。壁のどこもかしこもぬめり、苔、泥……だが、それだけじゃない。


(臭いな……鼻が麻痺しそうだ。藻の発酵臭とは違う。もっと重たい。どっちかというと、瘴気寄り、か?)


 足が泥を踏み、底へ着いた。

 足首まで沈む軟泥。靴の周りでぬるりと水が揺れて、冷たさと粘りが同時に絡みつく。鼻先にまとわる悪臭は、地表で嗅いだそれよりもさらに濃く、喉の奥がむず痒くなる。

 井戸内の臭さにも目は慣れ、腰の小型ランタンに火を入れた。

 黄の光が円を描き、壁面の石を撫でる。


「……ん?」


 そこには、指の腹で抉ったような溝が幾筋も走っていた。

 これは、爪痕だ。

 だが、犬や猫のそれではない。石が粉を吹いて欠け、抉られた縁が滑らかにすり減っている。繰り返し何かが這い上がろうとして、或いは体をこすりつけてできた痕にも見える。

 それに、壁に触れてみると、別の気配も感じた。


(これは……魔力か?)


 壁はじっとりと湿っているだけでなく、微かにぴりぴりと皮膚に触れた。〈呪印(マリス・グリフ)〉を持つ身にだけ触れる、苦い痺れ。嫌な感覚だった。


(やっぱり、ただの汚染じゃないな。魔物が住み着いてるのかもしれない)


 井戸の底から、さらに横へと続く暗がりがある。古い井戸にありがちな、地下の湧き水を導く素掘りの水路だ。

 いつの間にか水が侵食して、四つん這いで通れるほどの穴になっている。そこから、軽い水音がしていた。ぽちゃん、ぽちゃん、と濁った不規則な音がしていた。

 ランタンを傾け、光の輪で奥を探る。

 ──その瞬間、頭上から風を切る音がした。縄がわずかに軋み、ルーシャの声が深い筒の口から真っ直ぐ落ちてきた。


「ロイド、気を付けてください! 奥に何かいます!」

「え? ──おっと」


 反射で腰を落とし、手を壁へ滑らせた。次の瞬間、水路の闇がふくれ、粘液の塊がずるりと溢れ出す。

 どろりとした半透明の躯体。だが、透明ではない。黄ばみと灰がかった黒が渦巻き、内側を泡立つ影が這い回っている。

 瘴気を食んだスライム──ポイズンスライムだ。先頭の一体、続いて二体三体……数はみるみる増え、合計で五つの塊が、底の泥を押しのけて這い寄ってきた。

 粘液の表面が波立ち、ヌル、と滑る音とともに触腕が壁に絡みついた。べちりと吸い付く不快な音がして、そのまま跳ねるようにしてロイドへ迫る。


(スライムにしては速いな)


 ロイドは片手で縄を握り、踵で泥を蹴って体を浮かせた。

 重心を壁から離し、ロープに体を預けて一気に振り上がる。真下から伸びる触腕が空を切り、粘液の破片が飛沫になって頬を掠めた。焦げた土のような、鼻を刺す臭いがさらに濃くなる。


「舐めんなよ」


 ロイドは身体を浮かせたまま腰の魔剣・ルクードを抜いた。

 この程度の魔物なら、〈呪印(マリス・グリフ)〉の力を使わずとも楽勝だ。

 振り上がる体の勢いを乗せ、最前の一体の中心線へと斜めに刃を落とし込んだ。

 抵抗は、思いのほか軽かった。粘る水袋を裂くのと同じ手応え。だが、瘴気の塊は切断されても形を保とうと蠢く。中心の核を探るように刃を押し込み、内側で硬いものが触れた瞬間、手首を返して核ごと断った。黒ずんだ核がふっと砕け、粘液は糸のようにほどけて泥に崩れる。

 一旦ロープを緩め、着地した。ぬかるみが踵を飲む。

 二の矢、三の矢。残りの四つが形を歪め、ポイズンスライムたちが牙なき口を広げるようにこちらへ殺到してきた。壁面の爪痕に、さっき見た痕跡が重なる。これは獣のものではない。スライムが何度も行き来するうち、瘴気で石が脆くなって刻まれた、異形の軌跡だったのだ。


「大丈夫ですか!?」


 ルーシャの心配そうな声が、上から振りかかってきた。


「この程度なら問題ない。ここで倒しておくよ。縄だけちょっと遊ばせてくれ」

「わかりました!」


 その返事とともに、上から縄の張りが少し緩んだ。

 ロイドは壁の凹凸へ靴を当て、斜めに走る。スライムの一体が突進し、石へ叩き付いた。

 表面が泡立ち、酸のように石がじゅっと音を立てて痩せる。瘴気が混ざれば、粘液は腐蝕性を帯びる──触られたらまずそうだ。

 距離を常に半身分、保っておく。

 別の一体が足元から這い上がり、膝を絡め取ろうと腕を伸ばした。ロイドは足を抜き、反動で身体をひとつ捻る。体が弧を描き、魔剣が側面を薙ぐ。粘液の中で、芯のような影が走った。

 刃はその芯をなぞるように滑り、ぐにゃりとした核を断つ。前の核ほど固くないが、手応えがあった。見ると、切り取られた半身が泥に崩れ、残りが痙攣するように震えている。

 ふと上を見ると、上からルーシャが心配そうにこちらをのぞきこんでいた。


「そんなに心配しなくても大丈夫だぞ」


 ロイドは言いつつ、目の前の敵に集中した。

 負けることはないが、このポイズンスライムも瘴気を纏っている。触れると〈呪印(マリス・グリフ)〉が変に影響しかねないので、安全に仕留める必要があった。

 魔剣を逆手に持ち直し、粘液の跳沫を避けるように位置をずらす。泥に足を奪われぬよう、壁のくぼみを踏み台にして斜めの起点へ。二体目が半身を再生させながら近づき、三体目が天井すれすれに伸びて上から覆いかぶさるように広がった。


「糞が……スライムのくせに変な連携使いやがって」


 ロイドはぼやき、縄を握る手に力を込めて一気に上がった。

 粘液の天蓋が重りのように落ちてくる直前、刃を縦に入れて斬り裂く。二つに割れた塊が両脇へ落ち、泥が跳ねた。顔に飛んでくる飛沫を肩で受け、反対の足で三体目の核の辺りを踏み砕く。ぬち、と嫌な音がして、粘液から煙のような黒いものが逸れた。

 鼻の奥が焼けてもげそうだ。瘴気が濃いせいか、痣がうずいている。なるべく早く戦いを終わらせた方がよさそうだ。

 四体目の表面が泡立ち、粘液の腕がウナギのようにうねって足首を狙ってくる。ロイドは飛び退き、縄を引いて体を浮かせつつ、低い姿勢から刃を突き込んだ。

 刃の先端が硬い球を捉える。即座に手首を捻り、核を割った。砕けると同時に粘液が自重に負けて崩れ、泥と混ざって臭いを撒いた。

 これで四体撃破。残りは一体だ。

 ロイドは壁面の爪痕へ背をつけ、逃げ道を捨てる形で重心を前へ置いた。

 最後の一体が、ロイドに跳びかかってきた。


「来い」


 粘液の塊が躍りかかった瞬間、ロイドは一歩踏み込んだ。刃が、中心へ一直線に落ちる。

 手応えは、あった。

 核が正確に割れて、瘴気が散る。五つ目が崩れ、泥の上で音を失った。


「ふぅ……終わったか」


 ロイドは小さく息を吐き、水路の口へ視線を向けた。

 他に魔物の気配はない。殲滅させられたらしい。

 ひとまず水質汚染の元凶は取り除けたと見ていいだろう。

 ただ、水質そのものが改善されたわけではない。今から、この古井戸を元の使える状態に戻さねばならなかった。

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