第28話 バーマスティ商会にて
昼を少し回ったころ、ふたりは村の小径を抜け、グルテリッジの町へ向かった。
馬車の車輪が砂利を踏み、ころころと乾いた音を立てる。前方の街道は陽光を反射し、木々の葉が揺れては影を揺らす。御者台のロイドの背に、昼の風が心地よく流れた。
陽は高く、透ける葉の影が道に揺れていた。ずっと動きっぱなしだったし、疲労も溜まってはいるのだが、嫌な疲労ではなかった。
御者席で馬を御すのはあまり慣れていないが、乗馬しながらよりも身体的な疲労はない。これまでみたいに馬上でルーシャと密着しているわけでもないので、変な緊張感もなかった。
荷馬車で座るルーシャは、昨日と同じく修道女の装いだ。華やぎを抑えた簡素な身なりなのに、品の良さが滲んでいた。
ロイドが振り返ると、彼女も顔を上げて、にこりとこちらに微笑んだ。ケープの裾からは長い銀髪がふわりと覗き、浅葱色の瞳がキラキラと潤みを宿している。
ロイドの目には、それがどう取り繕っても消せない〝光〟に見えた。相も変わらず漂う聖女めいた雰囲気、と言えるのだろうか。〝白聖女〟の異名を持つ彼女なのだから仕方のないことだが、バレやしないかとちょっと不安だ。
グルテリッジに着いて石畳の門をくぐると、昨日と同じく露店の呼び声と焼き菓子の甘い匂いが迎えた。人通りはまばらで、日用品や農具を積んだ荷車が時折軋む音を立てる。
昨日と同じ馬繋ぎ場に馬車を繋ぎ止め、ふたりは早速バーマスティ商会を目指した。
「仕事中すまない。バーマスティ商会ってのは、どこにあるんだ?」
ロイドは通りの角で立ち働く男に声を掛け、尋ねた。
「ああ、子供商人のとこか。それなら、ここを真っすぐ行って二つ目の角を右に曲がったところだ。看板があるからわかると思うよ」
「ありがとう」
ロイドが礼を言うと、隣のルーシャもぺこりと頭だけ下げた。
誰が見ているかわからないので、街中ではできるだけ話さないようにと言ってあるのだ。
言われた通りに二つ目の角を右に曲がると、小ぶりな一軒家の前に辿り着いた。
壁は白い漆喰、軒は低く、扉の横に小さな木看板が掲げられている。手彫りの文字で『バーマスティ商会』と書いてあった。
商会と聞いて大きな屋敷を想像していたが、ごく普通の住居だった。
(看板は立派だが、要するに〝動ける事務所〟ってやつか)
ひとりで運用していると言っていたし、身軽さを求めているのかもしれない。
「おい、いるか」
ロイドは扉を軽く叩いた。
「はーい。どなた?」
中から小気味よい返事。昨日聞いた、クロンの声だ。
「ワケありの二人組だ」
「ああ、昨日の! どうぞ、入っていいよ」
金具の回る音がして、鍵が外れる。促されるままに扉を開くと、香ばしい茶葉の匂いと紙の乾いた匂いが混じり合って流れ出た。
入ってすぐの部屋が応接兼事務らしい。壁際に背の低い書棚が並び、帳簿や紙束がぎっしりと横倒しに詰め込まれている。窓辺の机には羽根ペンと砂時計。色褪せた絨毯の中央に、小さなソファと丸い卓があった。
その空間の主は、昨日と同じ、年端もいかぬ少年にしか見えない男。しかし、小柄な体に不釣り合いな落ち着いた所作。紫紺の瞳がじっとこちらを測る様は、とても十歳そこそこの子供には見えなかった。
「いらっしゃい。バーマスティ商会へようこそ。昨日は世話になったね」
クロンは気取らない笑みを浮かべ、卓を挟んで手を広げる。
ロイドは片手を小さく挙げて「もうそれはいい」とだけ応じ、室内に足を踏み入れた。
ルーシャはフードを深く被ったまま、静かに会釈する。
町人たちに接するのと同じく、クロンがどういう人間か見極めるまでは顔を隠し、なるべく喋らない──それがここに来るまでの間に決めた、ふたりの方針だった。
「どうぞ、好きに腰掛けてくれ」
促され、ロイドとルーシャはソファに並んで腰を下ろす。ソファは思いのほか柔らかく、沈みすぎない弾力が背を支えた。
「そういえば、名前を聞いてなかったね」
「俺はロイド。こっちの子は……とりあえず伏せさせておいてくれ」
一瞬ルーシャも紹介しようと思ったが、万が一ということもある。それほど珍しい名前ではないが、まだかくしておいた方がいいだろう。
クロンは「なるほどね」と呟いただけで、特に追及してこなかった。
「生憎、侍女がいなくて僕の淹れた茶になるんだが……紅茶でいいかい?」
「要らない。まず、色々聞かせてくれないか」
薬を盛られては堪ったものではない。
まだロイドはそこまでこの男を信用する気にはなれなかった。
「ああ、いいとも。〝なんでも屋〟のことかい?」
クロンは気を悪くした様子もなく、話を進めた。
「いや、それは後だ。まず、俺たちをワケありだと見抜いた理由について知りたい」
「ああ、それね! 別に、大したことじゃないよ」
彼はふたりの正面の椅子に腰掛け、片肘を軽く卓に預ける。そして、にやりと唇を片側だけ上げた。
「君たちは昨日、あからさまに観衆の目を気にしていたからね。それに、ちらっとフードの中が見えたけど、そちらのお嬢さんも非常にお美しい。加えて、仕草ひとつひとつからも育ちがいいことが窺える。それにも関わらず、敢えて質素な恰好をして顔を隠しているのだから、まあ何かワケありなのだろうなと推測したまでだよ」
「……なるほど」
理屈は簡単、しかし着眼は鋭い。
(知っているからではなく、見てわかった、って感じか)
少なくとも、正体そのものに心当たりがある風ではない。
ならば、第一関門は通ったと見ていいだろう。
「まあ、だからどういったワケありなのかまでは見抜けているわけではないよ。貴族のご令嬢と駆け落ちでもしたのかな?」
クロンは悪戯っぽい笑みを浮かべて訊いてきた。
ロイドは苦笑いを浮かべて、頷く。
「……まあ、そんなようなもんだ。一部では顔を知られてる子だからな。顔を隠してもらってるんだ」
その言葉に、隣でルーシャの肩が微かに跳ねるのが伝わった。〝駆け落ち〟という語の突飛さに驚いたのだろう。
誤解だと訂正することもできたが、誤解されていた方が都合のいい局面もある。……というのは、あとで説明しておいた方が良さそうだ。
フードの陰にのぞく頬がほんのり色づいたのに気づいたが、一旦見なかったことにする。
「それで、ロイド。〝なんでも屋〟の話だが、やってくれるのかい?」
「一応、そのつもりできたよ。でも、依頼内容による。殺しだの犯罪幇助だのといった類のことはやりたくない」
「おいおい、一体僕を何だと思ってるんだ。バーマスティ商会は善良な市民の味方だよ? そんな仕事、依頼するわけないじゃないか。というか、こんな子供みたいな奴にそんなの依頼してくる悪党はいないでしょ。あくまでも、領主の手が行き届かない、ちょっとした困り事の相談が僕んところに来るだけだよ」
口調は軽いが、言葉尻に誇りがあった。
ただ、言葉だけなら何とでも言える。まだ信用するわけにはいかなかった。慎重すぎるくらいでちょうどいい。
こちらの訝しんだ視線に気づいたのか、クロンは肩を竦めて机の引き出しを開けた。
「やれやれ。見てもらうまで信用してもらえそうにないね。それなら、最初の依頼だけ見てもらおうかな」
差し出された一枚の紙。粗い繊維の上に、簡潔な文言が並ぶ。
ロイドは目を通し、隣のルーシャも身体を寄せて覗き込んだ。フードの奥で睫毛が揺れる気配がする。
依頼内容は、こうだった。
『近くの古井戸の水質が悪くて困っている。中を覗いて掃除してほしい。場所は町の端の井戸。住人が使用しており、放置すれば疫病の元になる恐れ』
文字面は地味だが、重みはある。報酬も悪くなかった。
確かに、住民からすれば困った悩みではあるのだが、領主が出向く程でもない。後回しにされがちな話でもある。
彼がちょっとした困り事だと言ったのもわかった気がした。
「私、浄化魔法も使えます。お役に立てるかもしれません」
依頼文を見たルーシャが、フードの陰から小声でそう言った。
さすが、と胸中で舌を巻く。聖女様は本当に頼もしい。
「引き受けよう」
ロイドは依頼書を卓に戻し、クロンへ視線を上げた。
隣のルーシャも小さく頷くのが、肩越しに伝わる。
「じゃあ、早速向かってくれるかい? 場所は、依頼書に書いてある通りだ」
「了解。まあ、ちょっくら様子を見てくるよ」
ふたりが立ち上がると、クロンは入口まで見送りに出た。
「君たちの評判が立てば、自然と仕事は集まる。まずは肩慣らしだ。頑張ってくれ」
扉を押さえながら、彼は言った。
ロイドは依頼書を軽く掲げて礼の代わりとし、バーマスティ商会を後にした。
通りは午後の色を深め、屋根の影が石畳を斜めに横切っていた。
(井戸の浄化、ね……どうなることやら)
隣のルーシャと目が合うと、彼女はにこりと微笑んでみせた。
呪われた黒剣士と白聖女の、初めての〝なんでも屋〟の仕事、いよいよ開始だ。