第27話 お風呂を直します!
冷たい水で顔を洗い、気持ちを落ち着かせてからリビングへ戻ると、暖炉の前に積んでおいた薪が目に入った。
まだ火は入れていない。ロイドは薪を手に取り、太さの違うものを順に組んで、空気が通りやすいように隙を作りながら井桁に積んだ。手は勝手に動くのに、思考だけが昨夜の終盤──いや、今朝の出来事へと戻っていく。
(……落ち着け。忘れろ。いや、忘れられるわけがないだろ)
腕の中にすっぽり収まっていた白銀の頭、胸元へ擦り寄ってきた抗いがたい温もり、そして──
『独りは……もう嫌です。傍に、いてください』
微睡の中で囁かれた、この言葉。
思い出すだけで、顔が熱くなってくる。思わず、『ずっと一緒にいるよ』などと返しそうになってしまった。
(ええい、アホか俺は。寝惚けてたんだぞ、ルーシャは)
そう自分に言い聞かせ、ロイドは薪の先をナイフで削った。
一方、台所からは、木匙が鍋肌をなでる軽い音が聞こえてきた。続いて、甘い香り。小麦粉と卵の、あの素朴で幸福な匂いに、さすがのロイドも落ち着きを取り戻しはじめる。
ルーシャの足取りは相変わらず軽く、扉の開け閉めの音ひとつとっても、どこか弾んでいる。
「お待たせしました。焼けましたよっ」
声に振り向くと、木皿に重ねられたきつね色のパンケーキが現れた。
表面はほんのり艶があり、縁はさくりと立っている。その横には、昨夜のスープから発想を変えて作ったのだろう、香草の香りが立つ簡易スープ。乾燥肉の旨みと根菜の甘み、採っておいた山菜のほろ苦さが、湯気に溶けて立ちのぼった。
「今日の恵みに、感謝を。リーファ様の導きがありますように」
「ありますように」
テーブルを挟んで、いつものお決まりの作法に従ってルーシャが手を合わせると、ロイドもそれに続いた。
「……では、いただきましょうか」
「お、おう」
それから、とってつけたような沈黙が一瞬落ちた。昨夜よりも、互いに少しだけ視線を逸らすのが早い。
だが、そのぎこちなさも、木椀を手に取ってひと口ふくんだ瞬間に、少しずつほどけていった。根菜のほくほくした温もりが喉を伝って胃に落ちていく。
「美味い……!」
素直に出た声に、ルーシャが嬉しそうに微笑んだ。
パンケーキに蜂蜜を垂らして齧ると、外はかるく、中はふわり。香りの良い甘さが舌の上で広がる。
まるで店で食べるかのうようなパンケーキだ。家で食べられるなんて思ってもいなかった。
「あとは、フルーツなんかがあれば理想なんですけど……」
ルーシャが困ったように眉を曲げて、不満を漏らした。
確かに、ここにフルーツがあれば理想的な朝食だ。
「もしかしたら、このあたりのどっかに生えてるかもな。今度探してみようか」
「はいっ、ぜひ!」
無邪気な返事に、胸の奥が軽くなる。
昨夜の火花はまだどこかでくすぶっているが、それを覆い隠すように、いつもの調子が戻りつつあった。
食事を終える頃、ロイドは木椀を置くと、咳払いをひとつ挟んだ。
「とりあえず朝のうちに風呂を直したいんだけど。手伝ってもらえるか?」
「もちろんです。あ、お昼からまた街に行きますか?」
ルーシャはスプーンを置いて、小首を傾げた。
「そのつもりだよ。クロンだっけか。あいつともちゃんと話しておきたいしな」
「わかりました! では、ぱぱっと直してしまいましょう」
そう言うや否や、ルーシャは胸の前で両手を小さく握り込み、ぐっと力を込めた。肩がわずかに上がり、その仕草には子どものような無邪気さが見て取れる。
(本来、そんな簡単に直せるものじゃないんだけどな)
ロイドは肩をすくめつつ、食器を片づけた。
食後、早速ふたりで荷車から材料を下ろし、村長宅の裏側まで運んだ。
家の裏手にあるのは、草に埋もれていた浴室小屋。扉を押すと、古い木の匂いと湿りを帯びた石の匂いが鼻を掠めた。薄暗い室内に、四角い浴槽が口を開けている。壁には煤が古傷のように残り、天井板の一部は落ちかけていた。
「わあ。こんなところがあったんですね。お風呂も大きいです」
ルーシャの声が弾む。ロイドは浴槽の縁を叩き、耳で反響を確かめた。
「昔、この村で唯一の風呂がここでさ。毎日交代で村人たちが風呂を利用してたんだ。俺も両親と一緒に入ってたよ」
「……一緒に」
何故かその言葉を小さく呟くルーシャ。
どうしたのだろうか?
「ん? どうかしたか?」
「い、いえ! 何でもありませんッ」
ルーシャはぶんぶんと首を横に振って、何やら恥ずかしそうにしている。
耳まで赤くなっているのだが、一体今の一連のやり取りにどういう意味があったのだろうか。
(まさか、風呂も一緒に入るとか──って、ないない! さすがにそれはないだろ!)
頭に浮かびかけた雑念を振り払って、大衆浴場の店主に教わった手順を頭に並べた。
止水、排水、排気、それから石組みの土台。足りないところは〈修繕魔法〉で補い、細部は手で詰める。一応、理論上これで風呂は直せるはずだ。
「まずは、浴槽の穴からだな。止水剤を練って、と……」
荷車から降ろしておいた樽の蓋を開ける。練り込みタイプの止水剤は灰色で、粘土のような手触りだ。
手に取り、外気の湿りで柔らかさを調整していく。穴の周囲を布で拭って水分と粉塵を落とし、止水剤でその穴を充填した。
「じゃあ、ルーシャ。これを固めてもらえるか?」
「わかりました」
ルーシャが膝をつき、手のひらを止水剤で固めた穴に翳した。
すると、光が薄く滲んで、止水剤の表面と穴の結合部が、すっと均されていく。盛り上がっていた縁が収まり、毛羽立ちが消え、まるで古い傷が時間を巻き戻したかのように滑らかになった。
(凄いなぁ……)
その真剣な横顔に、思わず見惚れてしまった。祈るときのルーシャは、やわらかな微笑みとも違う、静かな強さを帯びる。手のひらから伝う魔力の余波が、周囲の空気を微かに震わせていた。
こういった時、改めて彼女が〝白聖女〟なのだと実感する。
「できました!」
それまでの神妙な表情から一変し、いつもの無邪気なものに戻った。
これもこれで、彼女の魅力のひとつだ。
「完全に直ってる。さすがだな」
ロイドは穴だった箇所に触れて、感嘆の声を漏らす。
さっきまで穴が空いていたとは思えないくらい、止水剤が完全に接合されていた。これなら水漏れの心配もないだろう。
「次は排水だな。管を屋外まで伸ばして、放水できるようにする」
浴槽の下に潜って古い排水口を確認し、詰まっている草や泥を掻き出す。
既存の管は錆び、途中で欠けていた。店主の助言通り、無理に旧管を使わず、手持ちの管材を使って新しく繋ぎ直した。
角度は緩やかに、外の傾斜に沿って。外壁に抜き穴を開ける代わりに、魔導石プレートで補強した通し穴を作る。魔導石は衝撃に強いのだ。
外へ出た管の先には簡易の吐水口を取り付けて、石で受けを拵えた。
これで、排水管も完成だ。
「土台は……ちょっと大変そうですね」
「それなんだよだなぁ」
ロイドは浴槽の下を見て、溜め息を漏らす。
ここが、ロイドが最も懸念していた部分だ。窯の下の石組みは基礎から歪んでおり、沈んでいる上に僅かに傾いている。これで湯を焚く予定はないけれど、この歪な土台は何とかした方が良さそうだ。というか、浴槽に水を貯めたらその重みで崩れそうで怖い。
「一旦、全部外すか。悪い、手伝ってくれるか?」
「石を退かしていけばいいですか?」
「ああ。小さいので構わない。でかいのは俺がやるから」
「はいっ」
ふたりで協力して大きい石から順に外していき、土台を整理していった。
鍬で地盤を叩き締め、砂利を敷いてまた踏み固める。大きさの揃った石を交互に噛み合わせるように積み、隙間に小石と砂を詰める。最後に上から木槌で全体を軽く叩いて、沈みと浮きを調整した。
さらに、浴槽側の床に崩れがないかを確認。必要なところへ薄く止水剤を流し込み、魔導石プレートを踏み板として埋める。
「ここを〈修繕魔法〉で固めればいいでしょうか?」
「ああ、頼むよ」
ルーシャが頷き、先ほどと同じように手を翳した。
光が走ると、瞬く間に止水剤の表面が吸い込むように落ち着いていく。目地の隙間が締まっていくのが目で見てわかった。
「土台はこれで大丈夫そうですね」
「ああ。ありがとな」
「いえ、何とかなってよかったです」
ルーシャがほっと息をついた瞬間、彼女の額の汗が光を拾ってきらりと弾けた。
ロイドは思わず目を逸らし、喉の奥で短く咳払いをする。
「石窯そのものを直すのは難しいから、やっぱお湯は精霊珠に頼るしかなさそうだな」
「ちょっと試してみましょうか」
ルーシャは鞄から精霊珠を取り出した。その内部に、淡い光の粒が揺れている。
教会が秘密裏に作り出したとされる、生活用便利魔導具。
湯そのものを作りだすことはできないが、水属性の魔力を念じて水を生成し、それから火属性に転じて温めることならできるそうだ。相反する属性を同時に扱うことは無理でも、順番に行えばいい。
ルーシャが魔力を込めてから、湯舟の上に精霊珠を浮かせた。
すると、精霊珠から、透明な水が糸を束ねたように落ち始める。ぽた、ぽた……から次第に、さらさらさら、と量を増していき、やがて小さな滝になった。浴槽の底にあたる音が、空っぽの空間に心地よく反響する。
半ばほどで一旦水を止めたあと、ルーシャは同じ珠へ別の魔力の流れを通す。今度は珠が微かに赤みを帯びた。
「では、温めますね」
珠を汲み板で吊った籠に入れ、浴槽へ沈める。途端に、水面にほわりと白い靄が立った。しん、としていた浴室の空気が、ゆっくりと柔らかくなる。手を浸してみると、冷たくなく、かと言って熱すぎもしない、ちょうど良い温もりが指先にまとわりついた。
「おお。本当に湯になってる!」
「成功ですね!」
ルーシャが子供みたいにして、浴槽の中に手を入れてはしゃいでいた。
土台も水の重みで崩れる心配もなさそうだし、止水材で固めた穴から水が漏れる気配もない。修理は成功だ。
あとは、排水だけだが……栓を抜いてみると、水は新しい管へ素直に吸い込まれ、外の吐水口から勢いよく流れ出していった。受けの石へ当たる水が跳ね、陽光に霧が煌めく。
「よし、逆流なし。匂いも上がってこない。完成だ」
浴槽の中が空っぽになり、完全に排水されたのを見守ってから、ロイドは大きく息を吐いた。
「これで、毎日お風呂に入れるんですね……!」
ルーシャが浴槽をのぞき込み、嬉しそうに目を細める。
それはまさしく、詠唱や祈りを捧げていた時とは全く別の、少女の笑顔だった。
「今晩が楽しみですっ」
「だなぁ」
浴室小屋の扉を開け放つと、朝の風が新しい抜き穴を抜け、湯気を気持ちよくさらっていく。外では小鳥の声がひときわ明るい。廃村の静けさの中に、ふたりの暮らしの音が増えた。
風呂場だけの話ではない。寝床、食卓、そして仕事。どれもが少しずつ形になっていく。
ふたりの新しい生活の地盤が、またひとつ、確かに固まった。