第26話 ドキドキのお目覚め
小鳥のさえずりが、葉の間を渡る風に揺られて細やかに重なっていた。木窓の隙間から差し込む朝の光は、古い床板の木目にまだらな金色の斑をつくる。かすかな樹脂の匂いと、昨夜まで体温を含んでいた寝具の温もり。世界はゆっくりと目を覚ましているらしい──ロイドは、そうした環境の微かな変化を、ぼんやりと皮膚で受け止めていた。
まぶたの裏が、淡い白に透ける。そこでようやく、ロイドは自分の呼吸がいつもより浅く、さらに妙に身体があたたかいことに気付いた。
(なんだ、この重みは。っていうか、何かあったかくないか?)
ゆっくりと瞼を持ち上げる。視界の端に、淡い銀の糸のようなものがふわりと流れこんだ。
白銀の髪だ。草花に似た、けれど甘さの混じった香りが、鼻腔を擽る。胸元へ視線を下ろすと、そこに小さな頭があった。
〝白聖女〟ルーシャが、ロイドの両腕の中にいた。
両腕、と言っても、一方は彼女の肩口から背へとまわり、もう一方は腰の上に自然と置かれている。どうやら夜のうちに彼女がさらに距離を詰め、そしてロイド自身も寝返りを打つ拍子に、抱き締める格好になってしまったらしい。
ルーシャは両腕でロイドの胴を包み、顔をすりすりと胸に埋めていた。外気はひんやりとしているのに、布団の内側だけは柔らかくてあたたかい。
(ちょっ……はあ!? 何この状況⁉ 夢じゃないよな!?)
心臓が一拍、強く跳ねた。ルーシャの吐息が衣の隙間から肌へと触れる。規則正しい寝息の合間に、言葉のような微かな声が混じった。
「……ロイド」
柔らかく、甘い響き。名前を呼ばれただけで、背中の方まで電流が走るような、くすぐったい感覚に襲われた。
理性が、薄紙のように剥がれ落ちそうになる。いや、踏ん張れ。踏ん張れ自分。昨夜どうにか守り切った一線を、眠気の余韻ごときに崩させるわけにはいかない。
ルーシャは夢の中にいるのか、続けてぽつりと呟いた。
「独りは……もう嫌です。傍に、いてください」
幼い少女が不安を拭ってほしがるような声音でありながら、どこか恋人の甘えにも似ている響きだった。
修道女からそのまま聖女になってしまった彼女は、きっと誰にも甘えることを許されなかったのかもしれない。
そんな想像が頭を過ぎると、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。守らなければ、という衝動と、抱き締め返してしまいたいという衝動が、同時に喉まで込み上げてくる。
(と、とりあえずこの姿勢はまずい)
ロイドはそっと身体をずらして離れようとした。
だが、腰のあたりで締め付けが強まる。ルーシャの腕が、ぎゅっと抱き止めたのだ。思いのほか力がこもっている。これでは動けない。
「えっと……ルーシャさん? 朝なんですけど……?」
囁くように呼びかけると、彼女の長い睫毛がふるりと震えた。わずかに目蓋が持ち上がり、浅葱色の瞳が光を拾う。
けれど、その焦点はまだ遠く、夢と現実の境をふらふらと漂っている。
「ん……あったかい。落ち着きます」
ロイドの肩へ頬を擦り寄せながら、子どものように甘える声を漏らした。
まずい。これは冗談抜きで危ない事態だ。
自分の中の何かが、静かに、しかし確実に融けていく音がする。いや、このままでは間違いなく理性が焼き切れてしまうだろう。早く何とかせねば。
ロイドは意を決し、彼女の肩に置いた手に力を込めて、寝入った身体を少し強めに揺さぶった。
「おい、ルーシャ! 朝、朝だから!」
二度、三度。ルーシャの瞳がやっとこちらへと焦点を結んだ。
瞬きをひとつ、ふたつ。次に訪れたのは、理解の光──そして。
「……あれ、ロイド? ──え!?」
遅れて押し寄せる現実。彼女の目が見開かれ、頬から耳まで一瞬で紅潮が広がる。
ぱっと身体を離し、布団の端へ転がるように距離を取った。
自分の腕がロイドを抱いていたことに気づいたのだろう。手をわたわたと振り、震え声で謝罪の言葉がこぼれる。
「す、すみませんッ。私、そんなつもりではなくてッ……」
「い、いや、こっちこそ……お、起きたのに動けなかったっていうか……」
どちらの言い訳も、空気に溶けていった。
残されたのは、寝具の皺をいじる指先の所在なさと、布団の内に温存されている共同の温度。木窓の向こうでは、朝の風が葉を鳴らしている。寝室の空気は澄んでいるのに、胸だけが妙に熱かった。
ふたりの間に、気まずい沈黙が一瞬だけ降りた。が、それは昨夜の「どう距離を取るか」におずおずと気を遣っていた沈黙とは、どこか質が違う。たとえば焚き火に新しい薪をひとつ放り込んだときの、控えめな火花の音。そんなものが、言葉の代わりに確かにあった。
ロイドはゆっくりと上体を起こし、乱れた毛布を整えながら、喉のかすれをひとつ咳払いで誤魔化した。逃げたいわけではない。だが逃げないと、今度こそ理性が仕事を放棄する気がした。
「……とりあえず、顔を洗ってくるよ」
「は、はいっ。朝食の支度、すぐにしますね」
ルーシャは枕元で小さく会釈をした。視線が合う。彼女は慌てて逸らすかと思いきや、ほんの一拍、揺れた瞳をそのまま重ねてきた。昨夜までにはなかった、ふわりとしたぬくもりが、そこには確かに宿っていた。
「……何だよ」
「何でもありませんっ」
恥ずかしそうにはにかむ〝白聖女〟と、どこかぶっきらぼうな様子で恥を隠す〝黒剣士〟。
本当の意味でのふたりの新しい生活が、今始まった気がした。