第25話 ふたりきりの寝室で
寝室に足を踏み入れると、そこには搬入したばかりのセミダブルサイズのベッドが静かに佇んでいた。新品のマットレスに、同じく新品のシーツと毛布。清潔で整った空間ではあるが、どこか落ち着かない。
(せめてベッドがシングルサイズだったら、言い訳のひとつでもできたのにな……)
ロイドは心中で前の家主を恨んだ。
もともと、ザクソン村の村長夫妻はセミダブルベッドを使用していたらしく、ベッドそのものがこのサイズだった。そのベッドを〈修繕魔法〉で直したので、当然マットレスもベッドに合うサイズのものを買ったのだが……まさか、それがこんな事態を引き起こすとは、誰が想像しようか。
セミダブルという中途半端に広いサイズが、却って断る隙を与えてくれない。
「……ロイドからどうぞ」
ふたりでベッドの前に立つと、ルーシャがそっと視線を向けてきた。
「あ、ああ」
何となく気まずい面持ちで視線を交わしつつ、ルーシャはベッドの右側、ロイドは左側へと行き、それぞれがベッドの中に入った。毛布とシーツが擦れる音がして、中に入るとひんやりとした布地が身体を包み込む。
毛布は新品特有の香りをまとっていて、なんだか鼻が慣れない。数日この毛布で眠ればこの香りにも慣れるのだろうか。それとも、ふたりの香りが混じった匂いになるのだろうか。
(匂いが混じるって、どんな感じに──って、何を考えてんだ、俺は!)
思考の奔流を断ち切るように、頭を振った。
ただ毛布が新品の香りだというだけで変な方向に物事を考えそうになってしまっている。
「えっと……明かり、消しますね」
遠慮がちにそう言って、ルーシャが枕元のランタンに手を伸ばす。
すっと淡い光が消え、寝室は暗闇に包まれた。
ロイドは彼女に背を向けるようにして横になり、ぎゅっと瞼を閉じる。
(このまま寝れば大丈夫、このまま寝れば大丈夫……!)
ロイドは自らに言い聞かせるようにして、頭の中でそう唱え続ける。
お互いにベッドの隅っこに身体を寄せているので、互いの肌や服が触れ合うことはない。こうして隅っこに身体を押しやれば、個別のベッドで寝るのと大差ないはずだ。あとはこの空間にさえ慣れてしまえば、きっと普通に寝られるようになる──そう思っていたものの、ルーシャがほんの少し身動ぎするだけで毛布を伝ってその振動がこちらにも伝わってきた。目を瞑っていても、彼女と同じベッドで寝ている状況を否応なしに感じさせられる。
ロイドは自らの身体をぐっと縮こまらせた。ここで振り返ろうものなら、もはや自分の中の野生を留められる気がしない。
(やばい、やばい、これ絶対眠れないやつだろ……)
ロイドは身を縮めるようにして、布団の中でひとり葛藤した。
今日は一日移動していたし、馬車の暴走騒動もあって、身体は疲れている。おまけに風呂にも入ったので、いつもなら目を閉じればすぐにでも眠りに落ちるはずだった。
だが、緊張で全く眠気が訪れない。
すぐ隣にいるのは、あの〝白聖女〟ルーシャ。
無垢で、純粋で、そしてロイドに絶対的な信頼を寄せてくれている少女。
おまけに、ロイドの人生に於いて、ここまで誰かとふたりきりで一緒に過ごしたのは初めてだったし、何の感情も抱いていないかといえば、嘘になる。寝顔を愛しいと思ったり、彼女がタオルで身体を拭いている時も、実はずっとドキドキしていた。
ロイドはもう、彼女を崇高な〝白聖女〟ではなく、ひとりの女性として見てしまっている。邪な考えを抱いてしまうのも、無理はなかった。
「……あの、ロイド……? そんなに隅っこで小さくならなくても大丈夫ですよ?」
「い、いや! 俺はこういう寝方を普段からしているんだ。こっちのことは気にしないで好きに寝てくれ」
本当は両手いっぱい広げて寝ている時もあるけれど、そんなことを言っている場合ではない。
「そうなんですか? ……では」
布が擦れる音が背後からしたかと思えば、ルーシャはそう言って、ぴとっと自らの身体をロイドの背中に預けた。
(──はああああああ!? えっ、ちょっと!? 何してんのこの子!? 何でくっついてきてんの!?)
ロイドはロイドで変なことを考えまいと必死で理性を保っているのに、それを真っ向から打ち崩そうとしてくるのがこの〝白聖女〟ルーシャ=カトミアル。
彼女の行動の意図がさっぱりわからなかった。
「ロイド、やっぱり身体が冷えてしまっています。風邪を引いてしまいますよ?」
ルーシャは身体をロイドの背に身体をくっつけたまま、そう言った。
「そうだな……早くもう一個ベッドを買わないとな」
会話がこれで成り立っているのかわからないが、ロイドは混乱の中で何とか言葉を見つけて紡いでいく。
言葉を選んでいる余裕がまるでなかった。平静を装うので精一杯だ。
しかし、ルーシャの猛攻は止まらない。そんなロイドを試すかのように、この白聖女は平然とこう言ったのだった。
「私は別に、これでも構いませんけど……?」
「はい?」
「だって、ロイドの背中、大きくてあたたかくて……つい、こうしていたくなってしまいますから」
ルーシャはロイドの腰に腕を回し、自らの方へぐっと引き寄せた。その拍子に、彼女の慎ましやかな胸の柔らかな膨らみが、背中に押し付けられる。
ロイドの心臓がルーシャの遠慮のない言葉で幸せな痛みで満ちていくと同時に、理性という柱にどんどん亀裂が入っていった。心臓の音がうるさすぎて、彼女に聞こえてしまいそうだった。
(ここまでくると無邪気なのも罪だな……)
ロイドは呆れにも似た笑みを浮かべて、心の中で溜め息を吐いた。
彼女はこうして無自覚に誘惑しておきながら、ロイドには毎日理性を保って寝ろ、と言うのだ。お風呂上がりの彼女の良い匂いと柔らかな女の感触を感じながら。何とも残酷な話だった。
それから暫くは同じ体勢のまま、黙って過ごしていた。ただ目を瞑って睡魔の訪れを待っていると……ルーシャが沈黙を破った。
「あの、ロイド」
「ん?」
「一緒にいて下さって……ありがとうございます。ロイドの御蔭で、全然寂しくありませんでした。本当に、感謝してもしきれません」
ルーシャは囁くようにして、御礼の言葉を述べた。
眠そうでふわふわしつつ、でも眠ってしまう前に感謝を伝えたい──そんな彼女の細やかな感情が、その声色から伝わってくる。いきなり礼を言われるとも思っていなかったので、何だかむず痒かった。
「別に……大した事はしてないさ。それに、俺だってルーシャに助けられてるからな。それはいいっこなしだろう」
「そうでしょうか? 私、何か特別な事をしていますか?」
「してるだろ。〈呪印〉の制御だってそうだし、今日の荷馬車の件だって助けられてる。そもそもこの家だって、ルーシャがいなきゃただの廃屋だったからな。それ以外でも……色々助かってるんだ。感謝するのは俺の方さ」
ルーシャと一緒に日々を過ごすのが当たり前になり、毎日が彩られた気がする。たまに彼女の天然っぷりには焦らされるけれど──それは現在進行形である──それさえも、これまでの孤独な時間を思えば幸せな時間であると思えてしまっていた。
孤独で報われなかった人生。もう独りでもいいと思っていた。
だけど……そんな人生の中に、ひょっこりと彼女が現れた。
「そう思って頂けているのでしたら、嬉しいです。〝聖女〟としては全然ダメダメでしたけど……私、ロイドを幸せにします。ずっと一緒に……いたいですから」
ルーシャは眠そうな、でも愛しげな声色でそう言うと、少しだけ自分の腕に力を込めて、自らの方にロイドを引き寄せた。
(ずっと一緒にって……意味わかってるのか?)
きっと寝ぼけているのだろう。教会の教えと自分の感情がごっちゃになっているのかもしれない。眠さも相まって、彼女自身も何を言っているのかわかっていないのだ。
ただ、そんなところもルーシャらしいと思えてきて、ふと笑みが漏れる。
ロイドは何も答えず、自らの腰に回された彼女の手をそっと握ることで、その気持ちに応えてみせた。
本当は振り返って抱き締めたいのだけれど、それをしてしまうと本当に理性が崩壊して、止まらなくなってしまいそうだ。
もしかすると、ルーシャもロイドが彼女に持っているものと似た感情を、持ってくれているのかもしれない。そうだったらいいなとも思う。
だが、ロイドたちはただ成り行きで一緒になっただけだ。彼女からすれば、他に頼れる人がいないわけで……そういった状況から、ロイドを特別視してしまっているだけな気がしなくもない。
それに……もし、彼女の気持ちを受け取る資格が要るのだとすれば、その資格は、自分にはない気がした。
彼女が真なる聖女だと信じ、自身の危険も省みず彼女を助けた〝彼〟。その人物こそが、ルーシャにとって最も相応しい男なのではないだろうか。
ルーシャを慕う〝彼〟が何者なのか、ふたりがどういった関係だったのかはわからない。
ロイドは敢えて、そのことについては触れないようにしていた。その男の話を聞いてしまうと、自分が今こうして彼女の隣にいてもいいのか自信を持てなくなってしまう気がしたから。
誰とも深い関係になったことがないが故に、どうやって人に自分の気持ちを伝えていいのかもわからない。人としての未熟っぷりを、改めて実感してしまう。
背中越しにすーすーと可愛らしい寝息が聞こえてきたのは、それから間もなくのことだった。朝からずっと動きっぱなしだったので、彼女も疲れていたのだろう。やはり先程の言葉は、半分寝惚けて出てきた言葉だったようだ。
背中から感じるルーシャの体温と寝息。
本来ならば、胸が高鳴って、もっと邪なことを考えても良いはずなのに、そのあたたかさは不思議とロイドにこの上ない安らぎを与えてくれていた。
睡魔が迎えにくるまでの間、ただ彼女の体温と耳元に僅かに聞こえてくる吐息に身を任せる。
今だけは、このあたたかさと吐息を、独り占めしていたい。
そんな気持ちを抱きながら、ロイドは眠りに落ちた。




