第3話 偽聖女?
ロイドは音のした方へと、慎重に足を進めていた。
馬蹄の音はすでに遠ざかりつつあり、風の流れに乗って男たちの怒号が微かに届いてくる。
(……偽聖女、か)
遠くから聞こえてきた単語が、脳裏にこびりついたまま離れなかった。
何気なく聞き流すには、あまりにも異質で、そして妙に引っかかる響き。
少なくとも、聖女に偽者がいたという話をこれまで聞いたことがなかった。
「……一旦、様子を見てみるか」
ロイドは馬蹄の音が遠ざかった方角とは逆側の森の茂みに、そっと身を滑り込ませた。騎乗兵たちは森の反対側へと進んでいったが、その叫び声が聞こえたのはこのあたり。となれば、追われていた『偽聖女』とやらは、この近くに潜んでいる可能性が高い。
物音を殺しながら森へ踏み入れると、案の定、三頭の馬が繋いであった。森の中では馬は却って邪魔になるので、降りたのだろう。
彼らの足跡を追っていくと、やがて木々の合間に淡い月光が差し込む空間が見えてきた。気配を殺しつつ、足音を抑えてその場に伏せると、低い位置から茂み越しに様子を窺う。
すると、目に飛び込んできたのは──白いローブを纏った少女。
長い銀髪が月光を反射し、まるで淡い光を纏っているかのように輝いていた。だが、その美しさとは裏腹に、彼女の周囲には複数の男たちが立ちはだかっている。
腰にはそれぞれ、神殿騎士団の紋章が刻まれた剣。教会所属の騎士──神官騎士だ。
「ようやく追い詰めたぜ」
「偽聖女め、教会に逆らった報いを受けろ」
一人が剣を抜き、もう一人が縄のようなものを取り出す。
「待ってください! お願いですから、話を聞いてください!」
白いローブの少女は涙ながらに、必死に訴えていた。
「本当にそう神託を受けたんです。神様は私に──」
「黙れ。それ以上、口を利くな。お前に話す権利などない」
言葉を遮られ、彼女はびくっと肩を震わせた。ローブの袖口は泥と血で汚れ、膝は擦り切れていた。逃走の最中で負った傷なのだろう。額にも小さな裂傷があり、そこから流れた血が頬を伝っていた。
「私は……嘘なんて、吐いてません。吐いてないんです……ッ」
震える声が、森の夜気に溶ける。
その瞳から、ぽろぽろと涙が零れていた。
泣きながらも哀訴し続けるその姿に、ロイドの胸に微かな違和感が走った。
(……あれが、嘘を吐いている奴の目か?)
少女の表情には、作為も打算も感じられない。ただ、必死に何かを訴えようとするまっすぐな光だけがあった。
そんな彼女を見た瞬間、何かが胸の奥を掠める。
痛みのようでいて、痛みではない。忘れていた感情の残滓が、ふいに触れてきたような、不思議な感覚だった。
そして、遅れて──腕の〈呪印〉が、ずきずきと疼き出す。
ごく微かに、じんと熱を帯びる感覚。だがそれは、暴走の兆しではない。もっと、静かで、温かな共鳴の予感だった。
〈呪印〉がこんな反応を見せたのなんて、初めてだ。
(……もう人と関わるなって、さっき自分に言い聞かせたばっかなのにな)
それでも、目の前の光景を見て、ロイドは見て見ぬふりなどできなかった。
このまま背を向ければ、あの少女は間違いなく殺される。そしてその命は、おそらく、誰にも惜しまれることなく消えていくだろう。
自分には関係ない。神官騎士が偽者だというなら、きっと偽者なのだと思う。
それなのに、何故なのだろうか?
ロイドにはそれが──酷く、許せなかった。
これが、どういう心境なのかはわからない。ロイドの本能が、心が、そして〈呪印〉が、この場を見過ごすことを許してくれないのだ。
また同じことを繰り返すだけかもしれない。助けても、また裏切られるだけかもしれない。
(それでも、俺は──)
唇を噛みしめながら、一歩、踏み出した。
ロイドの足音に、三人の神官騎士が一斉に振り返る。
松明の火が、ロイドの黒い髪と影のような衣を照らした。
偽聖女と呼ばれていた少女が、驚いたようにこちらを見ていた。
「悪いな。その子に用があるのは、お前らだけじゃないんだ」
ロイドは男たちに、静かにそう告げた。
本当に用があるわけではない。ただ、見過ごせなかっただけだ。
「なんだ、てめえは!?」
「女目当ての山賊か? 関係のない奴は引っ込んでいろ。さもないと、ぶっ殺すぞ」
神官騎士たちが怒鳴って剣を抜くが、もちろんロイドも引くつもりはない。
腰に手を掛け、ゆっくりと魔剣〝ルクード〟を引き抜いた。
真っ黒の刀身が、月明かりに反射して鈍く光る。
「神官騎士がぶっ殺すと来たか……神の教えってのは、案外物騒なんだな」
その声は低く、静かで、しかし何よりも揺らぎがなかった。
その瞬間、再び〈呪印〉がわずかに疼く。
ロイドの内なる何かが、確かに共鳴を始めて──そして、神官騎士たちに向けて、殺気を放つ。
「むっ……?」
その瞬間、空気が変わった。
それまで高圧的に笑っていた神官騎士たちの顔が、徐々に引き締まっていく。異様な雰囲気に気づいたのだろう。
だが、最初に声を上げたのは、年若い神官騎士だった。
「なんだ、貴様。まさか、我々とやり合うつもりか?」
揶揄するような口調。しかし、その声には警戒が滲んでいた。
「どうせ野盗の小遣い稼ぎで女がほしいのだろう」
もう一人が嘲るように言い、ロイドを睨みつける。
最後の一人が剣を肩に担ぎながら、鼻で笑った。
「とっとと片付けて偽者を連れていくぞ」
ロイドは彼らに視線すら向けなかった。
ただ、静かに──少女を見据えた。
「……女。お前はさっき『嘘は吐いていない』と言ったな?」
思わぬ問いかけに、少女は一瞬きょとんとした表情を見せた。
だが、すぐに真っ直ぐな瞳でロイドを見返す。
「……はい」
声は震えていたが、それでも彼女はしっかりと頷いてみせた。
「その言葉、神に誓えるか?」
今度は、ほんの僅かに間が空いた。
だが、その沈黙は迷いではなかった。彼女は驚いたように目を見開き、それからじわりと涙をその大きな瞳に滲ませて──
「誓います!」
涙を零しながら、叫ぶようにして答えた。
その声と涙からは、虚偽も計算も、何ひとつ感じられない。
あるのは、自分の言葉に誰かが聞く耳を持ってくれた、という喜びや感動のような類のもの。胸の奥が、何故か熱くなった。
(何でだろうな……?)
ロイドの中に、不思議な感覚がじわりと湧き上がった。
理由は分からない。だが、どうしてかその言葉を信じられた。
まるで、それが当然であるかのように。いや、彼女を信じたいと思ったのだ。
誰かを信じたいと思うなど、何年ぶりだろう?
いや、ここまで突き動かされるようにそう思えたのは、これが初めてかもしれない。
「わかった。俺は……お前を、信じる」
そう口にしたとき、自分でも驚くほどの静けさが胸に広がっていた。
少女が、はっと息を呑むのが分かった。
神官騎士たちの顔からは、余裕の色が消えている。
ロイドはゆっくりと、魔剣〝ルクード〟を正面に構えた。
黒い刃が、月明かりを受けて不気味に輝く。
その瞬間、周囲の空気が張り詰めるように凍りついた。
木々のざわめきすら止まり、辺りの空間がロイドの気配で支配されていく。
神官騎士の一人が、ぞくりと肩を震わせた。
「……なんだあの剣は」
言葉の続きを口にすることはなかった。
代わりに、ロイドが低く、しかしはっきりと告げた。
「来るなら、来い。だが、ここから先は……命を賭ける覚悟がある奴だけにしておけ」
魔剣の黒が、夜の闇に溶けていく。
その中心に立つロイドは、まるで闇そのものが人の姿を取ったかのようだった。
少女はただ、祈るように両手を胸に当て、その姿を見つめていた。




