第22話 ショタ商人との出会い
穏やかな街の中に、御者の少年のものらしき声が響いた。
「わわわわっ、誰か止めてくれぇぇぇぇ!」
目を向けた先、荷馬車が制御を失ったまま、街道を猛スピードで突っ走っていた。
馬は怯えて目を見開き、泡を吹いている。荷馬車の後部からは荷物が投げ出され、通行人たちが悲鳴を上げて飛び退いていた。
「何だ、どうした?」
ロイドはすぐさま立ち上がり、状況を確認する。
御者席には、小柄な少年──のように見える人物が必死に手綱を握っていたが、制御どころか振り落とされそうになっていた。
「た、大変です!」
ルーシャが悲鳴にも似た声を上げる。その目は、荷馬車が向かう先──道端に倒れている老人に注がれていた。
押されて転んだのか、或いは足を挫いたのか。老人は立ち上がれずにもがいている。
このままでは、危険だ。
「ロイド! お爺さんが……ッ」
「ああ、わかってる」
状況は最悪だった。
助けようにも、老人は暴走する馬車の向こうにいる。すなわち、彼を助けるにはあの馬車を追い越さなければならない。普通の人間では、到底不可能なことだった。
しかし……ロイドならば、可能である。〈呪印〉の力を解放すれば、おそらくそれも難しくないだろう。
本来ならば、〈呪印〉の暴走を恐れて躊躇う場面なのだが──
「ルーシャ。事前にこいつの暴走を防ぐことって、できるか?」
ロイドはルーシャへと振り向き、右手の刻印を見せた。
そう、今隣には〝白聖女〟がいる。彼女ならば、〈呪印〉の暴走そのものを抑えられるはずだ。
「もちろんです」
即答だった。
ルーシャはにこりと頷き、ロイドの背に片手を添える。そしてもう片方の手で胸の前に十字を切った。
「大地を統べる母なる御方よ……この者に聖なる加護と救いを」
神聖魔法の詠唱とともに、〈光の抱擁〉の光がロイドの全身を淡く包む。
それはあたたかく、優しい光で……だが、確かな力に満ちていた。
この状態なら、力を解放しても暴走しない。不思議とそんな確信を持てた。その確信を後押しするかのように、ルーシャがこちらに向けて、柔らかく微笑んだ。
「終わりました。もう大丈夫ですよ」
「……ありがとう。行ってくる」
ロイドは息を整え、右手に意識を集中させた。
黒い瘴気が刻印から噴き出すように現れ、瞬時に身体を包み込む。
その瘴気は普段ならば、ロイドを媒体として好き放題暴れ回るもの。だが、今回は違う。まるで、狂暴な魔獣を自在に操る調教師にでもなったかのような気分といえるだろうか。こいつは自分の思い通りに動く。本能が、そう告げていた。
「はあああああああ……!!」
気合いの声とともに、全身を包んだ瘴気が一瞬で収束し、ロイドの体内に吸収される。
〈呪印〉の力が全身に行き渡り、とんでもない力が漲ってきた。
視界が鮮明になり、世界が遅く見える。
「はぁッ!」
ロイドは地を蹴った。
その一歩は常人の十歩に匹敵し、それはもはや飛んでいるかのように見える程だった。
恐ろしい脚力で、瞬く間に通行人たちの間を抜けていく。そして、勢いそのままに跳躍し──馬の前方へと飛び出した。
「な、なんだあの男!?」
「馬より速えそ!」
「本当に人間かよ!?」
街の人々が驚愕の声を上げる中、御者席の少年がロイドに声を飛ばした。
「お、おい君! 突っ立ってないないで、早く爺さんを連れて退くんだ! 危ないぞ!?」
子供にしてはやけに大人っぽい話し方だな、とロイドはぼんやりと考えてしまっていて、ふとそんな自分に驚く。
この非常事態に、そんなどうでもいいことを考えられるほど、ロイドの思考は研ぎ澄まされていた。
「……危ないのはお前だ。どこかに掴まっておけ」
少年に向けてそう言うと、ロイドは腰から魔剣〝ルクード〟を引き抜いた。
荷馬車と馬を繋ぐ綱の連結部分に狙いを定め……一閃。
鋭い剣技により連結器具は音もなく断たれ──荷馬車から解放された馬が、ひとりで前へ飛び出す。
「おっと。悪いけど、お前はちょっと寝ててくれ」
続けてロイドは馬の脇へと飛び、柄の部分で馬の首筋に軽く衝撃を与える。馬がその場で崩れるように倒れ、意識を失った。
人様の所有物なので、さすがに殺せない。だが、このまま暴走させておくわけにもいかなかった。
荷馬車は馬を失い、その場で横転しながら止まった。
積み荷の一部は散らばったが、御者席の少年はしっかりとロープに掴まっていたため、かすり傷程度で済んだようだ。
ルクードを鞘に収め、ほっと息を吐く。
「す、凄いな……」
ロイドを眺め見て、少年が呟いた。
その光景を、街の人々が呆然と見つめていた。
ようやく追いついたルーシャが、倒れていた老人のもとへ駆け寄った。
「お爺さん、大丈夫ですか!?」
「うう……足が。わしの足がぁぁぁあ」
老人が足を押えたまま、呻いた。
今気付いたが、老人の足はぽっきりとあらぬ方向に折れ曲がっていた。今の騒動で誰かに押されて倒れたところを踏まれたのだろう。
「大丈夫ですから。動かないで、ゆっくりと深呼吸してください」
ルーシャはパニックに陥っている老人を何とか宥めつつ、祈りの言葉を紡いだ。
「大地を統べる母なる御方よ……この者の傷を癒したまえ」
彼女の詠唱とともに老人の足が淡く光り、折れた骨が瞬く間に完治した。血の気も戻っており、顔色もすぐによくなっている。
(……マジかよ)
その光景を見て、ロイドは思わず息を呑む。
今ルーシャが唱えたのは、神聖魔法の基礎でもある〈治癒〉だ。だが、その効果は通常のそれではない。
骨折は怪我の中でも重く、本来〈治癒〉でもそこそこ時間が掛かるとされている。少なくとも、ロイドは折れた足が一瞬で治った様など見たことはなかった。
さすがは〝白聖女〟といったところだろうか。扱う魔法の質も次元が違う。
「おいおいおい、なんだこいつらは!︎凄い二人組だぞ!」
「何者なんだ!?」
「救世主様だ!」
現場は落ち着きを取り戻し、見物人たちからロイドとルーシャに歓声が上がった。
ルーシャがはっとして、慌ててフードを深く被る。幸い、誰にも顔はちゃんと見られていないようだ。フード付きケープを買っておいて、本当に良かった。
「も、申し訳ない! 本当に助かったよ。ありがとう!」
御者席にいた少年が慌てて駆け寄ってきて、ロイドたちに頭を下げた。
茶髪に女の子のような小さな編み込みがあって、大きな紫紺の瞳が特徴的な、一見すると少女っけのある男の子。
しかし、外見にしてはどこか落ち着きすぎている。それに、馬車の中に乗っていたのはこの少年ひとりだった。さすがに子供ひとりにあれだけの荷物を任せるとは思えないのだが、一体どういうことだろう?
そんなロイドの怪訝な表情に気付いたのか、少年が「あ、そっか」と小さく声を上げた。
「名乗るのが先だったね。僕はバーマスティ商会のクロン。こう見えて成人しているし……何なら、君たちより年上だと思うよ?」
「……俺たちより年上? まさか」
ロイドが思わず眉を顰めた。隣のルーシャも小さく「え!?」と驚きの声を上げ、まじまじとクロンを見ていた。
どこからどう見ても、せいぜい十歳を少し越えたくらいの少年にしか見えないのだが。
そう訝しんでいると、周囲の町人が「それ本当だぞ。クロンは三〇歳だ」と教えてくれた。周囲の人も同じく頷いているので、どうやら本当のことらしい。
「ははっ。お恥ずかしいながら、子供の頃から全然成長しないまま三〇歳になってしまってね。不老の魔法薬を飲んでるんじゃないかって噂されてるんだけど、ただただ童顔のままここまできただけなんだ。子供っぽいから動物にも舐められがちでねぇ……慣れてない馬だと、こんな感じで暴れられるってわけさ。困ったもんだよ、全く」
クロンは肩を竦めて、倒れている馬を見つめた。
この馬は最近新しく買い入れたそうだが、全然御せなくて困っているらしい。普段は別の馬を用いて商売をしているのだが、今日は町内だし慣れるためにもこいつで、と油断していたら、大惨事になってしまったようだ。
馬も相手を見て態度を変えるのか。さすがに、これには同情せざるを得なかった。
(……とりあえず、ここには長居しない方がいいな)
集まった人々を横目で見てから、内心で溜め息を吐く。
さすがにちょっと目立ち過ぎだ。神聖魔法で治療もしてしまっているし、万が一ルーシャの正体がバレたらまずい。さっさとここから立ち去るのが吉だ。
ロイドはルーシャと視線を合わせ、こくりと頷き合う。
「まあ、無事ならよかったよ。じゃあ、俺たちはもう行くから──」
「あー待って待って」
クロンはロイドたちを呼び止めると、崩れた荷馬車の中の積み荷からがさごそと漁って大きな布袋を取り出した。
「これは僕からの謝礼と迷惑料ってところだ。本当に助かったよ、ありがとう」
そう言ってクロンが手渡してきたのは、ずしりと重い金貨の袋だった。
再び、ルーシャと目を合わせる。
「……いや、さすがに多すぎだろこれは」
「そうですよ。別に、お礼が欲しくてしたわけではありませんし」
「いやいや! 僕は命を救ってもらったし、結果的に馬車が壊れたくらいで怪我人もいなかったんだ。大助かりだよ。それに──」
クロンは目を細めると、ロイドとルーシャふたりにだけ聞こえる程度まで声を潜め、こう続けた。
「君たち、ワケありだろ?」
思わず、目を見開いた。
腰の剣へと、手が伸びる。
「待って待って! 悪い意味じゃないんだ」
クロンが両手を前に突き出して、必死に『待った』のポーズを取った。
敵意がないことをアピールしたいらしい。
「実はね、ちょっと人手がほしいんだ。もしまだ手に職がないなら、〝なんでも屋〟みたいなことをやってみる気はないか?」
「なんでも屋?」
予想外の提案に、ロイドは目を瞬かせた。
ルーシャもきょとんとして、似たり寄ったりの反応を見せている。
クロンは続けた。
「そう。僕は立場上、色んな人に相談を持ち掛けられることが多くてね。でも、さすがに僕も本業が忙しくて手が回らないし、こんな感じで自分で動いたら、事故っちゃうわけ。代わりにやってくれる人がいると、助かるんだ。どうだい?」
「……内容によるかな」
ほいほい手伝うと言って、人殺しなんかをやらされては堪ったものではない。それに、なるべく目立つようなことも避けたかった。今は、自分たちの住環境を整えることで精一杯だ。
「もちろん、依頼によっては断ってくれてもいい。もし仕事が欲しかったら、うちに来てくれ。その謝礼は云わば、依頼の前金みたいなものだ」
「それ、貰ったら断れないじゃないか」
「ははっ。別にネコババしても構わないよ?︎そこは、君の良心に賭けるとしよう。なに、そんな非合法な依頼はしないよ。人助けみたいなもんさ」
「人助け、ですか」
ルーシャが小さく呟く。そういった単語に、彼女は弱そうだ。そして、ロイド自身も嫌ではない。
「そう。人助けがしたくなったら、いつでもうちの事務所に来てくれ。バーマスティ商会の事務所って言えば、町の人が案内してくれるよ」
好き勝手言うと、クロンは町人に積荷の片付けを呼び掛け始めた。
その隙に、ロイドとルーシャはその場を離れる。
家具屋への道中で、ルーシャが訊いた。
「……どうしましょう?」
「う~ん、どうするかなぁ」
思わぬところから転がり込んできた新たな生活の糸口。
ただ、まだ信用はできない。それに、一瞬でロイドたちをワケありと見抜いたのも気になるところだ。
本当はそのあたりについてもあの場で問い詰めたかったところではあるが、あまりに人の目が多い。深い話をするのは、また別の機会にするのが良いだろう。
「とりあえず、一旦持ち帰って検討しよう。ちょうど金も入ったし、急ぎではないからな」
「はいっ」
こうしてふたりは、暴走馬車事件を収束させるだけでなく、思わぬ形で〝なんでも屋〟という新たな選択肢を得ることとなった。
ルーシャと出会ってから、本当に変化が止まらない。




